偽兄妹潜行譚<2>
「ちょ、ちょっと落ち着いて。耳を澄ませてよく聞いてみろ……妙な声がするだろう?」
「向かいからです。お互い様という事でお気になさらず」
むしろこれならこちらが気を使わなくてよろしい、とでもいうように浩瀚は遠慮なく陽子に触れた。
「あ……こうっ……」
「兄、と呼んで下さい」
「あっ、あっ、にい……さん……」
耳にするりと忍び込む甘く低い背徳に、腰が砕けてしまいそうだ。
ギシギシ揺れるおんぼろ小屋で、真っ暗闇で、なお固く目を閉じて……低い呻きと共に果てた男が、完全には陽子に重みをかけないように片腕で体を支えながら、靠枕に腕を伸ばしていた。
「んっ? 何?」
「市井の民は藁で始末をするのですよ」
股を拭われ、浩瀚も自身を軽く拭うと、役目を終えた藁束を戸口へ。
「里蘆ならば家畜の飼い葉に混ぜて始末するところですが、あいにくここには家畜がおりませんから、朝になったら厠にでも落としてきましょう」
浩瀚は眠気を噛み殺して言うとほとんど脱げてしまった陽子の衣を整え、襤褸布をかけてくれた。
鐘の音で気が付くと夜はしらじら明けかけていたから、どうやら正体もなくぐっすり眠っていたらしい。眠い目を擦りつつ、扉を開け……。
「…………」
ピシャリとしまる扉。ぐっと後ろに倒れる体。
「……兄さん」
見上げれば浩瀚がそれでよろしいのですよと言う風に柔らかく目をたわめて、陽子を抱き込んでいる。
「ええと……痣、だいぶ薄くなったね」
酷かった痣の青みが大分薄れて黄色混じりに、仙の体ならほどなく完治してしまうのだろう。もしそれで二人の正体を何か勘繰られるような事があっても、見た目は治っても目がうまく見えないとでも言えば誤魔化しは聞きますよとか、浩瀚は言っていたが。
「私はお水を持って参りましょう。それで身を清めてから、お外に出ましょうね」
「わ、分かった」
あの藁束を手に庭院に出ていく浩瀚を見送ってすぐ戻ってくるのを待つ間、陽子はぺたりと冷たい床にへたり込んでいた。
(別に……見慣れてないわけじゃないけどさ)
兵士の体とか、ちょっとくらいは禁軍の稽古に混ざれば見たりもするし、いかついだけの体を見ても今さら驚きもしない、けど。
夜のうちにあんな声を聞いていて、それで扉を開けたらその声の出所が何一つ隠しちゃいない裸体でザブンと水浴びなんてしていたら、それはさすがに……。
(びっくりもするよな……)
その後、黙々と身支度をして朝の下働きに追われ、やっと朝餉にありついた頃にはどこでどう話が付いたのか、お互い背中を向けて水を浴びれば大丈夫でしょ、とかいう事になっていた。
最初に着ていた袍はぼろすぎるからとお仕着せを着せられ、陽子は独楽のようにくるくる働かされた。
掃除に荷下ろし、薪割りに厨の下働きまで、休む暇なんかない。店は隣の装飾品を売る店と裏で繋がっていて、陽子は両方の店に荷を運んではいたけど、品物を扱うのは家生ではなくちゃんと賃金で雇われた使用人の仕事で、ひたすら下働きの陽子には遠目に見るだけで全く縁がない。
では同じ家生の浩瀚は何をしているのかというと、手代の手伝いとして日がな一日店の帳簿の検算に明け暮れているようだ。
奥の間でぱちぱちと算盤を鳴らすのを聞きながら、陽子は解かれた荷の薄桃色をちらりと見た。
もうすぐ春、だけど扱う品はもう夏の色が混じっている。絹地は買ってから仕立てるからこういう店は季節を先取りするのが常。
ただし陽子には縁のない事だ、ちょっと絹地に目を向けたそばからどこかで用事に呼ばれるものだから、本当に息をつく暇もない。昼餉もそれぞれ休憩の時間がずれるから、一人で饅頭と茶をもらって休憩もそこそこに、また働き尽くめだ。
店の奥の一郭にある花庁を整え、水汲みのついでに水を飲みながら、陽子は今日一日で頭の中に叩きこんだ芳屋の構造をおさらいした。
この花庁はこじんまりとした庭院に面していて、立木と壁で綺麗に仕切られた向こう側、敷地の隅が陽子達の住処。そして二軒の店は二階で繋がっていて、店付きのお針子の仕事場兼住居と使用人の房室になっている。家公の邸はまた別の場所に。これらは事前に調べたとおりである。
陽子は汲んだ水を厨の水瓶に注いだ。水瓶がやっといっぱいになったと手ぶらで回廊を歩いていると、誰かの視線を感じて……見れば哈密がひらひらと手招きをしている。
「どうしたの? 哈密さん」
こっちこっちと手招きされたのは、衝立で店と隔てられ隠れるように算盤勘定する帳簿部屋、つまり浩瀚の居所だ。
「揉め事の予感よ。杖身が出るのは最後の最後の手段だけど、一応様子はうかがわなきゃだし。あんたも武芸の嗜みがあるなら、勉強に見ておくといいわ」
ぐい、と浩瀚の隣に座らされ、その後ろに哈密が陣取った。
「で、今どうなっているのよお兄ちゃん」
浩瀚の眉がほんの少しひくりとしたような気がする。
「手代の嘉賢様が若いお嬢さんを奥の花庁にお連れしたところです」
「あら、あそこは上得意様しか入れないのよ。あの女の子、儲けたわね」
「今、家公に怒鳴りつけておいでのご婦人が、ご自分で絹地を選んで誂えた襦裙が気に食わぬと仰いましてね、それで丁度居合わせたお若い娘さんがお買い上げになられたばかりの絹が良いと、あれで誂え直せとごねておいでで」
あくまで淡々と、前半は哈密にそして後半の説明は陽子に、浩瀚のひそひそと耳打ちした。
耳を澄ませばごねるばかりの客と、お客様にはこのお色身のほうがうんとお似合いでなど言って、どうにか宥めようとする家公のやり取りが聞こえてくる。陽子は衝立の隙間からそっと様子を覗いた……たしかに襦裙は妙齢のご婦人に相応しい品のある色合いだ。組み合わせも悪くない。
「兄さん、そのお若い娘さんはどんな絹を?」
「色の系統は同じながらかなり淡く明るい色でしたので、失礼ですがあのご婦人が無理に誂えたところで、逆に襦裙に着られる結果になると思われます」
「そうか」
でも……あのご婦人は若い娘の華やいだ装いに惹かれて目移りして、諦められない……だったら。
「兄さん、お店のあの辺りを見て。今日入荷したばかりの披巾があるだろう?」
桃色の、この店の格はやや裕福な庶民向けだから豪勢な刺繍の品とかはないけれど、物によっては金糸や銀糸が織り込まれて見た目は派手。慶に余裕が生まれている証だ。
「なるほど」
浩瀚は小さく頷いた。襦裙が落ち着いた色調な分、小物で冒険をすればご婦人の品を損なわずに派手に飾って上手く場を治められる。
「承知しました。では陽子は仕事に戻って下さい」
後ろを振り向けば、朝から陽子を顎で使い続けている使用人の一人がこちらを睨んでいる。残念、次の仕事だ。
後でその後の様子を教えに来てくれた哈密曰く、浩瀚は『実に卒のないお兄ちゃん』なのだそうだ。
「なりが粗末なのは仕方ないとして、お店に出るのにきっちり目の痣を手拭いで覆って、その辺にあった箱の紐から小奇麗なのを選んで縛って止めてさ。動きも商人のとは違うけど綺麗で喋りも滑らか、恐ろしく口が回るのに嫌味がないのよね。すっかりあの婆……ご婦人を丸め込んで追加でお買い上げよ。気前よく支払っていったわよ。ああいうのを怪我の功名って言うのかしらねえ」
と言って、哈密は絞った手巾を陽子の頭に乗せてくれた。どうやら仕事を怠けたと拳骨を喰らったのがばれていたらしい。
「大丈夫だよ、別にたんこぶとかできるほどではなかったから。ありがとう、哈密さん」
「いいのよ。でもあんた達、育ちがかなりいいんでしょ。お兄さんはあんなだし、陽子の手だってあかぎれとか全然ないもの」
「あ、本当だ。そんなの気にもしていなかった」
「あかぎれなんて知らないくらいのお育ちって事よ。辛いだろうけど堪えるのよ」
「……うん」
ごめんね哈密、本当はちょっとの切り傷くらいならすぐに治っちゃう体質なんだ、諸事情で。
でもお店が終わり、浩瀚が四合院に戻って来た時、彼は治りかけの痣の他に、頬に赤く角ばった打ち傷を作っていた
「どうしたの? それ」
ああ、と浩瀚はそっと打ち傷に触れて、ほんの少しどう説明しようか考えるそぶりを見せ、軽く溜息をついた。
「帰りしなに手代の嘉賢に算盤で打たれたのですよ、新入りの家生の分際で出過ぎた真似をするな、と」
せっかく痣が直りかけてきたのに別の傷を付けられて、これだってすぐに治るにしろ酷い所業だ。
「どうも気性に難ありな御仁のようで、お気を付け下さい」
多分浩瀚はそういう妬みや嫉みには慣れっこで、だからさらりとそう言ったけど。
「おまえも無理はしないで。危ないと思ったら適当な理由を付けて別の仕事を振ってもらって。嘉賢から離られるように」
嫉妬ですぐ算盤の角で殴りつけてくるような輩より、浩瀚のほうが何もかもずっと上手に決まっているのだから。浩瀚はお仕着せを脱いで最初に着ていた襤褸に着替えながら、ええ、と頷いた。
「しかし波風の立たぬよう奉公をするだけでは、成果は何も得られぬかと。此度の件、無茶は私の領分とさせて頂きますよ。貴女は誰よりも守られるべき存在だ……使令は離しておりませんね?」
陽子は溜息をついた。同じ無茶でも浩瀚ならもっと駆け引きや策謀で上手く切り抜けるのかもしれないけど。
「もちろん。おまえ用に追加を借りたいくらいだ」
「私のためならばお気遣いは無用、貴女のために」
翌日から浩瀚のお仕着せがちょっとだけ立派になった。片目を布で覆って結んだ紐を耳の下に垂らした手代の見習いが、当たり前のように店に出るようになるまでさして時間はかからなかった。
使用人と家生では格段に身分の差があって、さらに家生でも直接品物に触るようなお針子や店に出る立場になると身分が上がる。今や一緒に住んではいても、肩や裏で下働きばかりする陽子と客商売をする浩瀚とは格段に身分が違うから、今では哈密からよくからかわれる――手代の見習いなら本当はお店の二階に住めるのにねえ。
「無理ですよ。私の待遇がどうあれ、断固としてここに住み続けますよ」
「でしょうね」
井戸を挟んで、互いに互いの裸体を見ないようにしながら。仲良く交互に水を汲んで、ちゃんと言外に込めたものも汲む二人――『妹』と離れるのは無理。あの嘉賢と寝食を共にするのも無理。
「嘉賢ったら、陰であんたをねっちりいびっているでしょ。さすがに分かりやすい暴力沙汰を起こしたら店に置いてもらえなくなるから、分かりにくいようにいびるのよねえ」
そう、浩瀚はしょっちゅう嘉賢に何かやられている。つま先を踏まれたとか、片付けのどさくさで算盤をどこかにやられたりとか。
「酷く実害が出ない分には、私も事を荒立てる気はありませんよ。まだ寒さの残るこの時期ですから、二階に住めば湯が使えるというのはとても魅力的ではあるのですがね」
毎日毎日、陽子が午後にかなりの時間をかけて厨に運ぶ水の大半は、店の二階で寝起きする使用人や家生が使う湯に化けている。
「客商売は身綺麗が信条ですが、水でも案外どうにかなりますし」
「そうねえ」「そうだな」
哈密と五船はこの生活がだいぶ長いから、水でどうにかする生活にすっかり慣れきっているようだ。
「お兄ちゃんは優男な割に風邪一つひかないで偉いわぁ。陽子は若さで大丈夫だから褒めどころではないわね」
そして哈密は女全般にちょっと厳しい。
すきっ腹を抱えて朝の仕事を済ませ、朝餉を終えて、さて次の仕事に取り掛かろうとしたところで、陽子は家公からここからそう遠くない花街に行くようにと命じられた。
何だろう、とうとう強引に私を妓女にしようというのか――ところが渡された地図を頼りに辿り着いたのは妓楼ではなく、あばら家ばかりが居並ぶ小路だった。
(夕暉の調べでは、ここは芳屋の土地ではない……)
それにこの辺り、全体的に空気が澱んでいるというか、独特の臭気がするというか、それに加えてほのかに線香臭い……。
「……この家か」
地図に書かれた家、そしてどうやらここが線香の匂いの出所。ごめんくださいと声をかけて中に上がり込むと、やはり。
「ああ、あんた家公様が寄越した子だね」
婆がこちらを振り返りもせずに若い女の死体の髪を切っている。
「なんだってまあ、借金も返さないうちに病で死んじまったから。髪でも売ってちょっとは足しにしなきゃ、こっちも商売だからねえ。
あんた、この死体をどこか適当な閑地に埋めてきておくれ。ああ、北西の墓所は駄目だよ。あそこはこないだ持っいてったばかり、同じ店から続けて二人も死人が出たとか噂が流れたら、商売上がったりだからね
いいかい、お役人様にはお店の名前を出すんじゃないよ、あくまで行き倒れで通すんだ。そんでこの紙銭を焼いて埋めてもらってきておくれ。家公様のお言いつけだ、怠けるんじゃないよ」
陽子はぼろぼろの荷車を引きながら、髪を切った亡骸を莚で包んでいた老婆の独り言を思い出していた、家公様もこんなすぐ死んじまうような娘を買ってくる事はなかったんだとか、店にも出さないうちにこうなっちまって、結局丸損じゃないかとか、この一郭は丸々家公の持ち家であたしゃ他にも病人を看病しているんだとか。
――ああもう、流れ流れて弱っちまってからこっちに引き取った人間なんてね、看病しても甲斐がない事ばっかりで、こんなのすっかり慣れちまったよ。
(もしかして……)
北西が駄目なら北かなと閑地の墓地まで亡骸を運び、持たされた紙銭を焼いた。墓士達はこういう埋葬に慣れているようだった。
芳屋から人が消えるというのは、家公が最初から『もう行き場がなく命も長くない人間』も買ったという体裁で拾い上げているからか?
あの婆はあの家を家公の持ち家だと言っていたが、それが夕暉に分からなかったからには又借りでもしているのだろうか。それで死人が出たらこうして誰某が差し向けたとも言わずに弔ってやれば……忽然と消えた使用人の足取りは掴めなくて当たり前だ。
だとしたら、夕暉がいうとおり芳屋にやましいところはない、のか?
陽子が空になった荷車を引いて街に戻っていた頃、芳屋の看板を見上げている男がいた。
(ここが……浩瀚が言っていた店だけど……さて)
入ってみて良いものかなと鶏旦はかぶっている笠の顎紐を弄んでいた。紐はかなり使い込んで擦り切れていて、公用には相応しくない。そう、公用。鶏旦はここまで乗ってきた馬の手綱を持ち、自分の官位を示す綬をぶら下げて、芳屋の前に立っている。
(入るべきか、入らざるべきか)
店に入る口実はもちろん「公用の途中で笠の紐が擦り切れたのですげ替えてくれ」に決まっている。
きっと(今までものぐさすぎて替えなかった)この紐は、今日ここで役に立つためにこんなにぼろいのだ。いや本当はこんなもの家人に一言言うだけで済むのだけど、というか本当はもう家人のほうが何度もいい加減替えましょうと言っていたのに、このくたくたぶりが良いのだとそのまんまにしていたのだけど。
(でもなあ、本当は入らないほうが無難だろうなあ)
何を調べるのは知らんが浩瀚が人を送り込んだ店なら、関わらないのが無難と決まっている、でも……。
(ああ、本物の密偵とか潜入現場とか、見たい見たい見たい見たい!)
別に店に入ったところで、送り込まれた人間のおでこに『密偵』とか書いてあるわけじゃあるまいし、何があるってもんでもないのは分かっている。でもやっぱり……。
(男、鶏旦。これまで目立たず出すぎず大した出世もせず、日和見で生きてきたおかげで長々と生き永らえました。ここらでひとつ、好奇心の赴くまま突入しても……よろしい……よ、ね?)
「――っ、頼もう!」
「はい、ようこそおいでなさいました」
(あれ? この声……知ってる)
店先に出てきた男、物腰はいかにもそれなりの店の商人らしく柔和で腰が低く、でもなぜか顔の半分を布で隠したその顔は。
(あれ? 君、なんでここにいるの?)
ねえ浩瀚、自分で自分を送り込むって……ありなの?