偽兄妹潜行譚<1>
家人が寝静まった邸の一郭、灯りが残る厨で邸の主は「すまんね」と頭を下げた。
「妻も家人もすっかり寝入ってしまって、茶やら何やらを花庁まで持ち運ぶのがどうにも億劫でね。ここなら湯はすぐ沸くし酒と肴は片手で出せる、灯りにも困らない。もっともどうまかり間違えても雲の上の御方をお招きする場所では決してないという前提ありきだから、君には重ね重ね心から申し訳ないとしか言いようがないが」
などと言いつつも邸の主、鶏旦には全く悪びれた様子はない。だから客である浩瀚も最初から謝罪の言葉などは聞き流して、適当な箱に腰を下ろしていた。
「構わんさ。仰々しく迎えられるよりはありがたい」
鶏旦はそれを聞いて、供案に並んだ筒から一つを選んだ。
「酒じゃなくて茶だよね」
旧知の仲でも今や公では目の上から呼びつけられでのしなければまず会う事はない、それとて鶏旦から浩瀚までの間には幾人もの上役を挟むのだから直接呼びつけられるなどまずありえない。そんな官位で隔てられた間柄だからこそ、鶏旦は浩瀚がわざわざ私的な客として密かにここに訪ねてきたからには、何か裏があるに違いないと察していた。
「貴兄の家は変わらず賑やかしいのだろう。家を出た子や子孫らも息災か」
「うん、子供らの様子は大体伝わってくるけれど、孫ひ孫くらいの代になると付き合いが薄くてね。
まあ細々と付き合いのある子孫については息災だよ。たまにどこかの役人になるような出来の良いのもいるが、それなりに子孫の数が多いと意外な職で食っているのもいる。絵師とか」
鶏旦が口に干菓子を放り込んでぽかっとした顔をすると、浩瀚は僅かに失笑した。
「貴兄の与り知らぬところで?」
「そう、仙人の爺は一切力を貸していない」
因果かねえ、と鶏旦は竈で蒸かした饅頭を二人の間の箱に置いた。主楼(母屋)の方から赤ん坊の泣き声がする。
「鶏旦、芳屋という商家を知っているか」
「ああ、聞いた事があるな。本業は絹商いだが花街に酒楼やら妓楼やらも出していて、いつ寝ているのかと揶揄されるくらいの大店だが、働くには良い店らしいよ。訳ありの家生なんかもちゃんと扱って、身売りで入った妓女も借金の利子が少ないからすぐに年季が明けて出られるとかで、結構回転が速くてね。
そうそう、妓楼も普通の店だけじゃなくてな、衆道専門店やら、貝合わせの専門店なんかは後学のために一度覗いてみたい……あっ!」
肌を撫でる空気が白々しているのは深夜の寒さのせいではない、竈でくすぶる熾火が適度に厨を暖めているから。
「ま、孫から……商人の孫から聞いたのだ。とにかく芳屋の商売は手広いとな」
「……商人の孫」
「ほっ、本当だとも! 俺は子沢山だから色んな孫ひ孫がいる。玄孫だって……」
「それは構わんが」
浩瀚はちろりと主楼に目を向けた。
「ああ、赤ん坊なら心配いらんよ。もう泣き止んだろう? うちは乳飲み子以外にもまだ小さいのが鈴なりだから、妻だけじゃなくて乳母も奚も総出でやり繰りしていてね。ところでその芳屋がどうした?」
「実はそこに人を送り込む伝手を探しているのだ。芳屋は貴兄が言うとおり、雇い人や家生の扱いは良い。
それゆえか堅実な付き合いのある商人等からの口利きでしか人を雇い入れぬゆえ、一見であの店に入り込むのが難しい」
「なるほど、それで……」
鶏旦は割った饅頭から立ち上る湯気を鼻先に浴びながら、独り立ちを果たした子の顔を覚え書きの束でもめくるようにぱらぱらと浮かべた。つまり浩瀚が探しているのは、芳屋に口が利けるだけの人物。さて、商売をしている子々孫々なら何人か心当たりがあるが、浩瀚の目に適うかどうかは……。
「人づてでも構わないなら、できん事はないと思う」
ただ少しばかり時間がかかるが、という鶏旦の答えに、浩瀚はそれで良いと御なずいた。
「むしろ直接渡りをつけるのではなく、間に何人か挟みたかった。貴兄にいらぬ迷惑はかけたくないからな」
出世こそそこそこなものの、長い間堅実に役人人生を送ってきた鶏旦である。そりゃありがたいと座った箱から身を乗り出した。
「で、どんな事情で芳屋に人を送るんだい?」
陽子は肩から落ちかけた襤褸布を巻き直しながら荷馬車の幌の破れ目から堯天の往来を覗いていた。
あまり人を運ぶに向いていない荷台の居心地はあまり良くない。時々荷崩れを起こしそうな荷物を押さえながら、それでも陽子がこれならいっそ自分で歩くと言い出さないのは、狭い荷台で自分と似たような襤褸を着て隣り合わせに座る男がいるからだ。
「浩瀚、目、本当に冷やしもしないで大丈夫か?」
襤褸をまとった男、浩瀚の右目の回りは酷い痣になっていて見るからに痛々しいのに、浩瀚は手当てひとつしようとはしなかった。
わざとですから――桓堆に殴られた時から繰り返し陽子にそう言い聞かせる男は、狭い荷台の中で往来を眺めていた陽子の肩を引き寄せた。
「数日は痕が残る程度、なおかつ骨を折らぬ程度にと桓堆には面倒な注文を付けましたから、致し方ありませんでしょう。小細工には念を入れねば。陽子は分かっておりますね?」
普段は……少なくとも陽の当たる場所では決して名前で呼んでくれない。そんな男から躊躇いもなく呼ばれる名。
「うん」
陽子は感慨深げに頷いた。
「演技のためにわざわざ作った痣を見れば、たとえ嫌でも思い出すよ。私達は兄妹だ、命からがら逃げてきた」
「はい、では手始めに私を兄とお呼び下さいませ」
「もう少しおまえがくだけた口調で私と喋ってくれたらな。それより……もうすぐ着くぞ」
陽子の肩を抱く浩瀚の手に力がこもっている。お覚悟はよろしいかと陽子に伝えるように。軋む荷馬車が止まった。陽子達は荷物に紛れるように裏口からとある商家の一室に運び込まれた。
――私が? 浩瀚と兄妹になる……?
ここしばらく夕暉の顔色が優れないのが気になっていた。秋官として出仕している彼は職務柄、麾下を色んな官吏の邸や市井に草として潜り込ませていて、そのうちの一人の行方が知れないという。
「堯天の……とある商家に送り込んだ麾下なのです。私が今精査している某官吏の件で裏を取りたい事があって、正体を隠して潜入させていまして。その商家自体にやましいところはなく、そろそろ調査結果を手土産に戻ってくるはずだったのが、忽然と姿を消してしまって」
その麾下が持ち帰るはずだった情報はかなり重要なもので、なんとしてでも麾下を探し出したいが、その商家に雇われるには特別な伝手が必要なのだとか。
「その商家は本業の商いの他にも酒楼や妓楼などを手広く手掛ける大店で、訳ありの人間も鷹揚に受け入れているのですが、その代わり確かな筋からの紹介でしか人を受け付けないのです。圜土から出たばかりの人間なんかも雇い入れているので、我ら刑吏とも多少の繋がりはあるのですけど、その手法で入り込んだ麾下が消えた以上、同じ手は使えない」
つまりこちらが使える伝手をなくし、手をこまねいていると。
それを聞いて目の色を変えた陽子の様子を敏感に察したのが浩瀚だった。一見で店先にお立ちになられたところで、客扱いか怪しまれて衛士に通報されて終いです。それなら正解の手順を用意して乗り込まねば。
時間を下さい、と浩瀚は言った。そしてほどなくして手筈が整ったと、そう言った男は自分も一緒に潜入しますよと事もなげに言ったのだ。
「主上の為人から、私が手筈を整えて誰か適任の人間を送り込んだのではご不満でしょう。御自らの足をお運びになりたくてうずうずしておられる。それならばと私はお目付け役を買って出た次第」
「なんで? おまえの頭の切れは隠密にも向いているけど、でも荒事にはとことん向いていないし、留守番してくれたほうが私としてはありがたいのだけど」
それは正論でもあるし、こういう時は浩瀚が留守を引き受けるのが慣例である。しかし浩瀚は「ふむ」と、まとめていた書面の角を整えるなり卓の隅に避けてしまった。
「今回ばかりはそれはお許しできません。正攻法が通じぬ場所に潜り込むために、少々小細工を弄しまして」
「小細工? どんな」
「道ならぬ関係に陥ったがゆえに親から勘当され、行き場のない兄妹がいると触れ込みました。
まあ、とうに正丁を迎えた兄は今さら勘当も何もあったものではありませんから、妹が勘当された挙句、見も知らぬ男に売られそうになったのを兄が取り戻し逃げてきた、という身の上話に同情した家公が是非我が店の家生に迎え入れたいと。いかがです? 店の名は芳屋と申します。本業は絹商いなれど、酒楼に妓楼にと商売は手広く、衆道専門の妓楼も営んでおりますので、道ならぬ恋にも理解があるのでしょうな」
「…………」
私が、浩瀚と兄妹に?
「どうか私の事は、兄とお呼び下さい」
浩瀚がそこにこだわるのは、きっと私が延王や虎嘯と兄妹の真似事をした事があるからだ。
芳屋の厨に通され、自由に飯を食べるようにと言われ、陽子は貪るように食べた――これも着の身着のまま逃げてきた兄妹の演技の一環で。とりあえず二人で詰め込めるだけ食べ終った頃、陽子達をここまで連れてきた人買いと一緒に初老の男が来た。
(あれが……)
この店の家公。一代で商売を広げ、あちこちに構えた店は数知れずという商売上手。
咄嗟に宅の横に跪き深く頭を下げた浩瀚の横で、陽子も慌てて頭を下げた。見た感じでは悪人には見えないが……。
「よいよい、頭を上げなさい。飯はたんと食べたかね?」
「はい、ありがとうございます」
拱手の礼を取る浩瀚を家公はとっくり見つめた。
「話はすべて聞いている。兄は読み書きを修めていて算盤の心得もあるそうだから、店の帳簿を付ける手伝いでもしてもらったらよかろう。
しかし妹のほうは……読み書きに武芸の嗜みがあるというが、うちはそんなに物騒な商売をしているでもなし、杖身は間に合っていてね。その齢と容姿なら妓女になればすぐに借金も返せて、どこか遠い土地を買って慎ましく暮らせるだけの蓄えもできるが」
「そればかりはご勘弁を」
陽子が断るより浩瀚のほうが早い。
「妹が他の男に抱かれるなど、想像するまでもなく私の気が触れてしまいます」
「貝合わせでも?」
「重ねて申し上げます、そればかりはどうかご勘弁下さいませ」
下げた頭が今にも土間に付きそうで、陽子は思わず声を詰まらせ、そして今までどうも踏ん切りの付かなかった言葉が口を突いて出た。
「に……兄さん」
「はい」
くるりとこちらを向いた男の身のこなしの速さ。そしてその……脂下がった顔。
「…………」
正直なところ、陽子はちょっと引いてしまった。浩瀚はそんなに兄呼ばわりされるのに憧れていたのか――呆れた。
「むう、それなら仕方ない。妹は確か陽子といったか。武芸を嗜んでいるなら体は丈夫だろう、店の下働きをしてもらうよ。旌券は親に取り上げられたというし、おまえ達兄妹の身元は聞かないが、それなりの家の出なのだろう。家生として生きるのは辛いだろうがしっかり勤めておくれ」
「はい、お心遣いありがとうございます」
思わず家公も引いた……陽子は礼を言いながらもますます呆れたが、おかげで妓女にならずに済んだので良しとした。
「酷く見苦しい顔をしているから今日は働かなくていいって。良かったね」
二人が起居として宛がわれたのは店の裏手にひっそりと建つ古い四合院の一室だった。共用の井戸がある院子を挟んで四つの小屋があるが、そのうち二つは空らしい。食事は正房の厨で。起居はただの板間、溜まった塵芥を外に掃き出し襤褸布で床を拭いて、どうにか衾褥を敷けた頃にはすっかり日が傾きかけていた。
「……ちゃっかり並べて二つ敷いたんだ」
「無論。牀榻は取り払われておりますし、致し方ありますまい」
そしてその方がむしろ都合がいいと浩瀚は言わんばかりで、むうと唇を曲げる陽子の傍に寄るなり、ひそりと囁きかけてきた。
「何しろ私達は道ならぬ仲の兄妹なのですから」
「そうだ、それだ」
陽子は箒で浩瀚の足元を掃いてやって、ふんと鼻を鳴らす。どうも延王や虎嘯にするように気軽に彼を兄と呼べなかった理由、それは。
「今 更だけど、こっちでは人はわりと自由にくっ付いたり離れたり、事情次第では許配を使って別れる前提の割り切った婚姻をしたりするだろう?そんな自由恋愛の世界でも、やっぱり兄弟姉妹というのは禁忌なんだと思うと、なかなか踏ん切りがつかなかったんだ。元から私には蓬莱での常識、兄弟姉妹同士で結婚はできないという知識があったし、擦り込まれた常識が喉に蓋をしていたのだと思う」
浩瀚は「そうですねえ」と、靠枕替わりに藁を包んだ襤褸布を嬉しそうに衾褥に置いた。
「親兄弟、男同士に女同士、極論を申し上げれば野合で愛し合う分には個人の勝手でしょう。しかし法にそぐわぬ仲を結ぶ人はあまり多くはなく普通ではないと見なされ、それなりの良家では世間体を重んじて忌まれる……たったそれだけの事です。もっとも、それで命からがら流れ流れてという人生も、実際世にはあるのでしょうね。
そういえば向かいの起居の住人も我々のような間柄と……」
キシ……と起居の古い戸が軋んだ。トントン。
「はい、どちら様でしょう」
浩瀚が開けた扉の向こう側をみっちり埋める筋肉の塊。すわ草寇か匪賊と身構えかねない、いかつい面構えの男が二人。
「あら、優男よ優男。水も滴るいい男……とまではいかないけど、それなりに整ったお顔が台無しの酷い痣!」
「俺達はここの向かいに住んでいる。お二人さん、そろそろ夕餉の時間だ。行こうや」
杖身は間に合っている……向かいの住人も我々のような間柄と……そうか、この人達……。
「あら、お嬢ちゃん。あたし達がそんなに珍しい? 何も恐い事はないのよー? あたし達は優男を取って食ったりしないから」
「あっ、すみません……衆道の人達を実際に目にするのは初めてで」
(普通は女の子を取って食ったりしないって言うよな……)
最初から丸っきり狙われない、この肩すかし感はなんだろう。いや、こっちにしてみれば女にも優男にも興味ないのはありがたいが。
いかつい男の片方がうふふと笑った。
「妹ちゃんったら素直でいいわぁー。お兄ちゃんのほうは淡々としすぎて面白くないわぁ。貴方達の事はご家公様から聞いているから、何も気にしなくていいわよあたしは哈密、こっちは」
「五船だ」
二人と一緒に夕餉を――家生の賄いは雑穀の粥と残り物の肉菜が基本らしい、それを食べながら先住の二人の話を聞くには、以前は四合院の空いた居室に衆道と貝合わせの番いが住んでいたのだそうだ。それがどういう事だか男女同士でくっ付き合って、それならもう人目を憚るでもなしと家公からお暇を頂いたのだとか。
陽子と浩瀚はそれとなく顔を見合わせた。
――本当に、芳屋自体にはやましいところは全くないと目を付けていなかったのです。
夕暉としては本当に、欲しい証拠のためだけの軽い内偵のつもりだった。ところが自分の麾下が唐突に消え、改めて探りを入れてみると……確かに雇い人や家生の待遇は良い。売られてきた妓女が負う借金も利息が良心的なおかげで早く完済して年季明けを迎えられる。
ただ、その中にぽつぽつと姿を消す使用人がいる。忽然と、その後の足取りは掴めない。
芳屋は確かな筋からの紹介でしか人を雇い入れないが、その中には旌券がないなどそもそも誰も消息を知りたがらない人間もいる。病を得てこの先が知れるという人間も、外から探れるだけ探った分でも幾人か、普通なら本当に病で亡くなったり、どこかに逃げたかだろうが……。
――麾下の字を建義と申します。
意欲ある麾下で夕暉も目をかけていた。言を違えて戻ってこない以上、これ以上出世の目はないだろうが、何か下手を打ったから職務を放棄するような為人ではない。
――建義は自領にも戻っておらず、未だ行方が知れませぬ、が。
二人分の衾褥を敷いて小さな火鉢も置けばあとは大した空きもない小屋、陽子は襤褸布を重ねただけの衾褥――二つの小屋が空っぽなおかげか、襤褸布だけはいっぱいあった、に包まり、ぽつりとつぶやいた。
「仙籍簿から建義の名は消えていない」
「はい」
彼がどういう事情で行方をくらましたかは分からないが、それなら必ずどこかで生きている。
「明日から、頑張って探ろうな」
是、と。襤褸布の隙間を縫って、白い手が陽子の衾褥に入り込んできた。