偽兄妹潜行譚<3>



「これはこれは、国府のお役人様でいらっしゃいますか」
 すいっと綬に向けられた浩瀚の目線に、鶏旦の背筋がそわりとなる。
(君。しらじらしいなあ)
「……いかにも。公用の旅の途中で笠の紐が擦り切れてしまったのだが、替えの品はあるか」
 この辺りの界隈の店、鶏旦には縁がないものの取りあえず代わりになる品くらいはあるだろう。浩瀚も落ち着いた……というか落ち着きすぎた顔をしているし。ところが「はいはいはいはい、ございますともお客様」という声が、暖簾の向こう側からずんずんと近付いてきて。
「これはなんとまあ、国府のお役人様が直々においで下さるとは」
 暖簾を割って現れた家公らしいおっさん。その目配せ一つでいかつい下男が馬の手綱をするりと引き受け、鶏旦はあれよあれよと店の中へ、そしてあっという間に店の中も通り過ぎてこじんまりとした花庁へ。
(あれ……? これ、どうなってるの)
 さり気なく笠も取られ、腕利きのお針子にすげ替えさせるからおまかせをと、品を選ぶより先に茶と茶菓子が出てくる案配で、よどみない流れにどっぷりはまり、榻でくつろぎながら適当に顎紐を選ぶ自分、そして品を選んでからも途切れる気配がまるでない家公の長話。
 鶏旦は適当に相槌を打った。長年仕官をしていればこんなの慣れっこで、鶏旦はお喋りを右耳から左耳を流しながら、むしろ浩瀚のあの面は何だろうなと考えた。
 あの顔の布。あれで浩瀚は自分の人相を隠しているつもりなのか?
  鶏旦から笠を取り、卒のない品を見繕い、堂に入った所作で茶まで淹れていって……あんなに、これが出世を極める秘訣なのかねと感心するくらい甲斐甲斐しかったのに、自分の用事が済んだらあっさり俺を置いてきぼりにして。まあ、とにもかくにも、真面目に淹れたお茶は夜中に厨で適当に淹れたお茶より俄然美味い。当たり前か。

「お役人様、これも何かのご縁でございましょう、どうぞまたおいで下さいまし。お役人様に相応しい良い品をお入れしますしお値段も勉強しますので、是非是非、お役人様が、おいで下さい」
 たかだか顎紐一本、それで家公があそこまで至れり尽くせり、店の外まで見送りに出るとは。それに。
(是非是非、お役人様が、おいで下さい。か……)
 浩瀚は暖簾の隙間から伺った光景を、そっと心に留めた。

 かっぽかっぽと歩く馬の上で、まだ肌に馴染みきらない笠の顎紐がくすぐったくてもぞもぞしながら、鶏旦はううむと渋面になっていた。
 あんなに密偵が見たい見たいとうずうずして店に飛び込んで、結局自分ができたのはただのお客さん……確かに密偵を見る事はできたものの、まさかそこにいたのがあれだったら……ねえ。
(ん……?)
 あんなに偉い浩瀚がまさかの『密偵』になっているのなら、誰かしら彼を守る人間と一緒なのでは?そりゃああんなに偉い奴だもの、慶国随一の腕利きの護衛がぴったりと……。
 視界の端、目の下を流れる人の頭に鮮やかな赤が混じって流れてくる。鶏旦はその赤を何となく目で追い、今来た道を振り返った。
 ひとつに括った赤髪の主は恰好からして家生の、おそらく少女のようだ。入っていったのは、さっきの店の裏門――あの赤髪。赤い髪といえば今の主上の御髪、主上はうら若き乙女でありながら武断の御方でもあり……。
「まさか。まさかね……」
 


「ただいま戻りました」
 裏門から店に戻った陽子におかえりーと手をひらひら振ってくれたのは哈密で、手には桶をぶら下げている。
「ああ、哈密さんごめん、それは私の仕事だ」
「あら、いいのよぉ。あんた達が来る前はあたし達の仕事だったんだから」
 それより今日はどこにお出かけ? と聞かれ、墓地、と答えると。
「あらま。もしかして髪切り婆の所?」
「うん」
「じゃあ外れのおつかいねえ」
 誰も用事を言いつけてこないのをいい事に、陽子はとことこと哈密の後にくっ付いていった。
「へえ、じゃあ当たりのおつかいって?」
「ご家公のお邸で小間使い。当たりって言ってもたかが知れてるわね。あっちじゃ家畜も飼っているから、家畜小屋の掃除をしたりお肉をばらするのを手伝わされたりたまに騎獣をつなぐ綱を買いに架戟に行かされたり」
 でも、と井戸に放り込んだ水桶を引き上げる哈密はどことなくうっとりしている。
「でもねえ、あたし、ずっと前にたった一度きりだけ、ご家公のお嬢様の房室をお掃除させてもらったの。素敵な房室でよかったわあ。綺麗な絵が描かれた家具や壁に、牀榻は薄い絹が下がっていて、その奥のふわふわの衾褥でお嬢様は寝ておられるの。お嬢様を起こさないように、お掃除はそっとそっとね。お嬢様のご病気はお可哀相だけど、なんだか繊細な仕事をしてるーって思うと、気持ちがほわほわ浮足立っちゃうのよ」
 こういうのを乙女の憧れとでもいうのだろうか。それにしても娘とは。
「お掃除しながら遠目にちらちら牀榻の様子を伺うのよ。風通しにほんの少し窓を開けると、牀榻の帳がたまに風でそよいでお衾褥をかぶったお嬢様の髪が少し見えるの。それがもう艶々の綺麗な黒髪で。でも他の子……こないだ男とくっ付いちゃって出ていった女の子が言うには、お嬢様の髪は茶色だったって。それでどっちが正しいか今度お邸に行ったほうが確かめるわよとか言っていたのに、結局あたしもその子もお嬢様の房室をお掃除させてもらえたのは一度きり。
 今じゃお嬢様はどこか空気が良い所へご静養に行かれて、ご家公が時々騎獣に乗ってお嬢様に会いに行っているみたい。お邸にはね、可愛い猛極がいて、たまにお店にもご家公が乗って来るわ」
 この店はさすがに街中だけあって家畜こそ飼ってはいないものの、一応厩はあるのだ。今まで客用だとばかり思っていたけど、家公はたまに騎獣をここの厩につないで、たまに娘に会いに行く、と。
「前はよくお嬢様に精が付く肉を食べさせるってんで、よく羊やら牛やら潰して、あたし達にもおこぼれがあったのよ。でも今じゃお嬢様は遠くにおられるからおこぼれもないわあ」
「ああ、ここ五日ほどずっと豆花(豆腐)の菜ばっかりだもんね。兄さんや私ならともかく、哈密さんや五船さんの体じゃそれはきついかも」
 それにしても――病気の娘、か。
「哈密さん、あとは私がやるから」
 陽子が水桶を持ち上げたところで、店の中から男の怒声が聞こえてきた。
「こ……っ、兄さん!?」
「五船!」
 次々と重なる怒号、今は五船が誰かに怒鳴りつけているようだ。飛び込んだ店の中で陽子が見たのは、嘉賢を羽交い絞めにする五船と脇腹を押さえて倒れている浩瀚、哈密が真っ直ぐ拾い上げた包丁。
「嘉賢が……こいつ、とうとう人を刺しやがった」
 五船の唸るような怒声に陽子の血の気がさっと引く。
「に、兄さん! 大丈夫か!?」
「ええ……」
 横を向いて身を起こそうとしている浩瀚、手で押さえたままの脇腹から血は出ていない。当たり前だ。哈密が拾い上げたのは厨にある、せいぜい小魚をさばく程度の小さな包丁。ただの刃物なら、仙には通らない。
「浩瀚! おまえ、何ともないのかね!?」
「はい……幸い刃が逸れたようで、袍が破れた以外は何も」
 浩瀚は手の隙間からおそるおそる自分の脇腹を覗いて……役者だなあと思わせる演技ぶりだ。家公はすっかりへたり込んでしまった。ぶるぶると。
「そ、そうか……それなら……いや、嘉賢の莫迦者があんなに真正面からぶつかっていったから、無傷で済むはずがないのに……それは……ふはっ、それは重畳」
 ひんやり冷えた店の空気に家公の乾いた笑いが白々と浮いているよう。無理もない、ここにいるのはみんな、こんな刃傷沙汰になんか無縁の人達ばかりなのだから。破れた袍から差し込んだ陽子の指に触れたのは、いつもと変わらない男の肌だ。滑らかで何の傷もない、馴染みの肌。
「皆さん、本当に、兄さんに怪我はないので」
 陽子は誰にともなく頭を下げた。これでようやく店の中に血が通ったような気がする。集まっていた使用人達が一人二人とそれぞれの持ち場に戻っていき、心ここにあらずといった態の家公に代わって誰かが下がっていいと手振りで知らせてくれた。
 ふ、と漏らした浩瀚の吐息に、陽子の張り詰めていた体がようやく動いて、浩瀚を引っ張り上げた。

 流れでそのまま引っ込んだおんぼろ小屋で、浩瀚は敷いたままの衾褥に陽子の腰を抱いたまま転がっている。何をするでもなく陽子の髪やら首筋やらに鼻先を押し付けて。静かすぎてただ単純に怖がっているのか考え事をしているのか、陽子にはいまひとつ判別がつかなかった。
「兄さん、もうすぐ夕餉の時間だよ? 哈密さんか五船さんが呼びに来るよ。あんな事があったばかりで食欲なんか湧かないかもしれないけど、それでも食べないと」
「どうせ今夜も、僅かばかりの肉屑混じりの菜の残りを豆花で嵩増しした飯でしょう。あまりそそられない」
「あら。そそられない飯ならあたし達が全部頂いちゃうわ」
 ガラッ。
 哈密と五船……気まずい。
「あたし達、あとで嘉賢の莫迦野郎をふんじばって、問屋場まで連れていかなきゃいけないから」
 問屋場――荷運びをする人馬が集まる所だ。
「あの莫迦男ったら昔っから嫉妬深くてね、こないだも手代見習いの子と揉めて。その時は刃傷沙汰ではなかったし、その子も関係ない帳簿を覗き見していたから悪いってなって、嘉賢はお咎めなしでいられたんだけど。
 でも今回はたまたまお兄ちゃんがお役人様の客についたのが気に食わなくて、それで刃物なんか持ち出したのよ。そんなのもう危なっかしくてお店に置いておけないじゃない。
  その点、問屋場は荒くれ揃いだもの。所詮嘉賢程度の体じゃ切れても返り討ちに遭うだけ、それで死んじゃっても棺に入れて閑地に持って行っちゃえば、埋める役人もいちいち中身なんか検めないから。ああいう莫迦は問屋場でいかつい男に揉まれながら、大人しく帳簿つけをしたらいいのよ。あら……ちょっとうらやましいかもしれないわね」
 寡黙な五船が、じっと……嫌そうな顔で哈密を見た。浩瀚が「おや」とこの期に及んで陽子の肩先に埋めていた顔を上げた。
「それでは、今回嘉賢が刃物を持ち出す原因となった私は、前の手代見習いの方、その方の字は存じませんが、その方のように咎を受けたりしないのでしょうか」
 哈密があからさまに莫迦じゃないのという顔をしている。
「あんたと前の奴……ええと、建義とかいったかしらね、その子はくびになったみたいだけど、とじゃ全然事情が違うじゃない。さすがのお兄ちゃんも今日の事でちょっと混乱してお莫迦になっちゃったのかしら。だったら今夜はもう大人しくここに篭っていればいいわよ。あんたら飯はこれで充分よね」
 哈密が戸口に無造作に置いてくれた籠の中身は……どうやら饅頭のようだ。
「浩瀚、替えの袍だ」
 五船も切られた袍の代わりを持ってきてくれたのに……ますます気まずい。
「哈密さんごめんなさい。兄には食べ物に文句を付けるなとちゃんと言い聞かせるから。五船さんも兄のために袍をありがとう」
 ひらひらと哈密が手を振り、戸がピシャリと閉まった。

「ちょっと、浩瀚」
 さすがにちょっと今は兄と呼んでやる気にはならない。自分が訊きたい事を聞いた途端にまた鼻面を埋めちゃって。
「恐れながら、私は荒事にはまるで向いていません」
「知っている」
 今なら……いつもどこかへ行く度に心配してくれる人達の気持ちが身に染みて分かるから。
「帰りたいなら理由を付けて帰ってもいいんだぞ」
「はい、帰りとうございます」
 それも仕方ない、荒事に向いていたって切り付けられたら恐いもの。こうなったら喧嘩別れのふりでもなんでもして、私だけここに残ればいい……使令がいてくれる私と違って、浩瀚は本当に丸腰なのだから。
「が、別段ここから去りたいというわけではなく」
 ん?
「率直に今の私の気持ちを申し上げますと『おうちで母ちゃんの乳を吸っていたい』という小童のような気分でございまして。ですので、哈密の気遣いはありがたい」
 んんん?
「五船が持ってきた袍は後払い、年始の祝金から差し引かれるだけですが、哈密のこれは彼なりの気遣いですよ。洗い物いらず、籠は朝にでも返せばよろしい。
 これで今宵は心置きなく衾褥の虫になれるというもの」
 引き寄せた籠の夕餉、冷たくなりかけた饅頭を千切って口に入れられ、陽子が大人しく食べている間に袍が肌蹴られた。
「何も出ない乳でも吸いたいっていうなら今更嫌がりはしないけどさ……それより先に、今日私が見聞きした事を聞いてくれ。私は夕暉に調査が足りないと言ってやりたい。
 今日お使いに出された先は、事前の調べにはなかった場所だ。花街の場末にある家に行って、妓女の亡骸を閑地の墓地まで運んだ。あの家公は死人が出たら、どこの何某とは名乗らずに周辺の閑地に墓を建ててやっているんだな。
 それと、どうやら家公には娘が、んんっ……」
 まだ早い、と睨んでも浩瀚のいやらしい舌は胸の頂きにぺちゃりと唾を付けている。どうやら吸うより先に丹念に舐るらしい。
「そのっ……娘は病気で、前は家公の邸に住んでいたけど今はどこか別の場所にいるらしい。哈密が、ずっと前、家公の邸で牀榻の帳越しにちらりと娘を見た、とか……あっ、はあっ」
「おや、それはおかしいですね。戸籍上、家公には家族がいないはず」
 甘く噛まれたところがじわりと痺れる。浩瀚は……何かを考えてる?
「今日行った場所の地図は班渠に持たせて、届けさせた、から、夕暉が――痛っ」
 たぶん今噛まれたのは、こういう事をしている時に他の男の名前を出したから……哈密には別に反応しなかったくせに。
「今日、役人が来たと言っていたでしょう。家公は国官と見るなり特段に愛想が良くなりまして。特別丁重にもてなし、是非また本人が店に来てほしいと。普通、国官ならば家人を差し向けて然るべきところを、あえて本人に」
 それが……何を? つ、といやらしい舌先が尖り、陽子の肌を腹へとなぞり落ちた。
「どうやら家公は国官にこだわっているようですね。哈密いわく『くびになった』建義も国官、二人ともれっきとした仙です。そして私も、仙だとばれてしまった。なにせ嘉賢は真正面から私を刺しましたからね。上手く避けて袍だけ切られたという言い訳は、正直苦しすぎる」
 浩瀚の袍、腹の真っ直ぐ刃物が刺さった痕。すんでのところで避けたなら、もっと生地が裂けてしまうはず。
「そして貴女も……」
 尖った舌が押したのは、乳じゃない。
「そんなところ……違うぞ」
「違いませんよ? 私はれっきとした正丁ですから、乳よりはむしろこちらを舐めて吸って弄りたい」
「あっ、ふ……」
 じん、と。さっきとは比べ物にならない痺れが下腹から全身に走る。そして私が……何だって?
「家公が国官――つまり仙に何か思うところがあるなら、もしかしたら建義はまだ明るみにならぬ家公の持ち家や、娘の静養先にいるかもしれません。そしてこれから先、もし本当に家公が、私が仙であると気付いたならば。私は貴女から引き離され、建義と同じ境遇に置かれるかもしれない。
 あるいは……家公は貴女も仙ではないかと確かめようとする、それをどうかお忘れなきよう」

 

 ――来る。
「あら、夕べは随分啼かされていたじゃなーい? あんた達はあれなのね、お兄ちゃんが陽子を禁断の仲に引きずり込んだのねー。なによ、そんな鳩が豆詰まらせたような顔してあたし達はあの莫迦を運んで疲れたから、朝のお仕事は免除でいちゃいちゃもせず一眠りよ。男同士は毎晩まぐわったりはしないの。じゃあおやすみなさい」

 ――来る。
「陽子、陽子や」
 嘉賢がいなくなって浩瀚は伸び伸びと働いていて、家公は猫なで声。そんな気がするのは浩瀚の忠告のせいか、それとも単純に腰がじんじん重いせいか。それでも呼ばれたからにはすぐに参上しなきゃいけないのが家生の性。陽子はすぐに厨の雑用を放って店に上がった。
 呼ばれた小部屋には誰もいない。
「陽子や。どうだね、おまえにお針を教えようと思うのだが」
 お針、それはつまり店の二階に住み込んで働くお針子になれと。
「でも、兄さんは私と離れられないから。私は針より算盤がいい」
 誰かが小部屋の前を通り過ぎる音がした。浩瀚だったらいい、私がここにいると知っていてくれたらいいのだけど。
家公はそうか、と考え込んで……それがいいならそれでもいいと言った。これも、猫なで声に聞こえる。
「ほら、嘉賢には期待していたのだけど。生来の嫉妬深さも上手く使えば商売を伸ばせもするかと見込んでいたのだけど、いかんせんあんな事になってしまっただろう? その罪滅ぼしではないが、残した浩瀚は嘉賢より見込みがある、いずれ戸籍を買ってやって私の跡目を継がせてもいいくらいだ。
 ついては妹のおまえが家生のままでは良くない。だからおまえも何かしら修業を積んで……そうだな、おまえも字の読み書きが堪能だと浩瀚が言っていた。ならば手代の見習いでも悪くはあるまい。そこでだ。着ている物が粗末なまま、というのはいかん。ささ、これを羽織ってごらん」
 着せられたのは新しい……そして妙にぶかぶかなお仕着せ。目を細める家公の指先に光る、針。
「おや、どうも大きすぎたようだねえ。これは寸を詰めないと」

 ――来る。浩瀚の忠告どおりなら、その針が。
 ちくりと、まくった袖を留めるはずの針が肌を突いた。もちろん陽子の肌に傷は付かない。
「おっと、手元が狂ったようだ。ごめんねえ」
 口では謝っても顔はにこりと。家公は明らかに喜んでいる。
「おまえはここで待っておいで。後でお使いに出てもらいたいからね。今日は馬車に乗せてあげるし、兄も一緒なら文句はあるまい」
 


 馬車に乗せてあげるというのは本当にしろ、行き先も告げられず、乗り込んだ途端、かちゃりと嫌な音が。扉も窓もうんともすんとも開かなくなってしまっては……。
「やれやれ、閉じ込められましたね」
  浩瀚はそう言って肩を竦めるなり、粗末な床板に座り込んで顔の当て布の紐を解いた。この期に及んで怪我の振りをする必要もないと、荒事に向かないと公言したわりに随分余裕だ。そして陽子も。せっかくなので転寝でもするとしようと横たわってみた。試しに床板を叩いてみて、おんぼろではあるけれど意外としっかりした造りだと、床板破りは諦めた。
「班渠、桓堆達には知らせてくれたか」
『はい。何人かが入れ替わり立ち代わり馬車を捕らえられる位置に付いているようで』
「分かった」
 建義の名が仙籍簿から消えたという報せも、ひょっこり王宮に戻ってきたという報せもない。ならば馬車に乗っている間は確実に安全だ。問題は馬車を降りてから、もしくは降りる瞬間。
「油断するな、浩瀚仕事熱心な仙が帰ってこないし死んでもいないとなれば、単純に動けない状態でどこかにいるんだ。うっかり後ろから殴られて気絶とかするなよ」
「おや、兄妹の戯れはもうおしまいで?」
「今はね」
 さっきから随分遠くへ、人里離れた場所まで来たようだ。地面を踏む馬の蹄や車輪の音が、整備された街道のそれとは随分違ってきたから。
 馬車が止まった。
「周りは?」
『男が十人、得物は槌』
 あいにくこちらは丸腰。ならば……!
 開かずの扉が開いた。思いっきり飛び出した陽子の後ろでその扉がまたばしゃんと閉まる。

 丸腰でも身の内に冗祐がいれば、襲われたって返り討ちだ!

 振り下ろされる槌をひらりとかわして思いっきり足蹴に。もちろん動けないように急所に留めの一発をお見舞いするのも忘れずに。一度に相手しきれない分はもちろん班渠が始末してくれるから。
「ちゃんと加減はなされましたか? 我が妹君」
 馬車の扉から浩瀚がひょっこり顔を出した。どうせ荒事に向いていないのだから足手まといにならぬよう守りに徹しますと、内側から扉を押さえてこもりきったできる奴。
「当たり前だ。命までは取っていないし、一人くらいはすぐ喋れるようになる奴もいると思うよ」
 大立ち回りの間は気にする暇がなかったが、ここは人里離れた一軒家。ただし外観はいかにもならず者の棲家という感じで『病気のお嬢様』が静養するような場所ではなさそうだ。
そこに旅人の出で立ちをした誰かが駆けこんできて、陽子は手を振った。
「桓堆。ああ、おまえがこっちに来たのか。芳屋の指揮は?」
「ご指示のとおり、麾下が逃げた姉妹を探す家族のふりをして店に乗り込んでいますよ」
 もちろん州師も抱き込み済みで、芳屋が助けを呼んでも誰も来ない。そうして人っ子一人逃さぬようにしておいて、家生に暴行を働いた件から建義の行方を問い質す、と。
ただ、もしかしたら――桓堆に続いて堂屋に乗り込んだ兵達が「見つけた!」と声を上げているから、尋問の手間は省けるかもしれない。



「――というわけでな、その官吏は無事廃屋で発見された。ところで鶏旦、その廃屋には一室だけ、その外観に見合わぬ豪華な調度で飾られた小奇麗な房間があり、寝間には豊かな黒髪で肌の白い、人形が……」
「ひぃぃ、そこにいるのは病気のお嬢様だと思ったのに! 人形かい!」
 しかもこういう時に限って、火にかけていた鉄瓶の蓋がカタカタ鳴りだすものだから……あたふたと鉄瓶に水を足す鶏旦を見て、浩瀚は冷ややかに言い放った。
「ものぐさで客を厨に通すのが悪い」
ごもっとも。
「おまけに竈の火で下から照らされた君の肌がお誂え向きに白いから。で、結局、病気のお嬢様とは人形の事だったのか」
「そうだ。芳屋の家公はその人形を愛玩して、人形をより人に近付ければやがて本物の人間になるのではと思い込むようになった。それでも最初は頭に植える髪にこだわり、様々な色の人毛を試してみるくらいだったのが、やがて本物の爪を剥いで付け、唇に人の血を塗り、ついでに髪も人の血で洗い肌も血で磨き、たまには風呂のような趣向で血だまりに人形を置いてみるなど――」
「おおおおお、ちょっと待ったちょっと待った」
 そんな、各人間の部位の出所はどこなのだ、髪はともかく他の部位は……しかしそんな事、ここまで話を聞いていれば鶏旦にも分かる。つまりぽつぽつと家生や妓女などが消えていた、一応大体は真っ当に(というのも何だが)病死したのを真っ当に閑地に葬ったにしろ、そういう部位を手に入れるなら別に死体からでも構わないわけで。
「でもあれだ、その手の欲求ってどんどん深くなるじゃないか。血ならもっと欲しい、でも好きにできる死体はそう量産できるもんじゃない。その点、仙ならちょっと切って血を抜いたくらいじゃ死にゃしないし、人形が人間になるなんてあるわきゃないけど、そういうちょっとおかしい人間なら、只の人より仙の血のほうが効能があるとか、変な思い込みをしそうなもんだ」
 家公が前々から仙を狙っていたのか、その瞬間に閃いたのかは定かではないにしろ、ひょんなきっかけで正体が露見してしまった官吏は、まさに飛んで火にいる夏の虫。
  鶏旦はそのどこの何某とも知れぬ官吏の災難を心底気の毒に思った。よく助かったものだと、密偵なんて俺には無理だ。それどころか好奇心だけであの店に突っ込んで、下手したら自分も餌食になっていたかもしれない、仙だって一人よりは二人いたほうが、たくさん血が採れるよね……とか思うと。
「誓うよ、好奇心はほどほどにする」 
 そもそも今日またこんな夜更けに浩瀚がここに来たのは、その事についてぶちぶちと小言を言うためだったのだから。
 ところで、これは――『ほどほどの好奇心』のうちに入るだろうか。
「君、顔の半分をちょっと隠しても字はそのままなお粗末さで、たった一人で密偵をしていたなんてまさか事はないだろう。なんたって君は慶の冢宰、ちゃんと護衛が付いて然るべきだ。もしかして君……赤い髪の女の子を護衛に付けていたんじゃないか?」
 もしそうだとしたら……浩瀚が護衛されるなんてとんでもない話だ、しかし武断と名高い主上と切れ者の冢宰なら、主上が体を使い冢宰が頭を使うという変則技もありなのでは?

 浩瀚はすっと唇を引き結んだ。鶏旦が言外に云わんとしている事はよく分かる。赤髪の少女は――。
 あの人里離れた廃屋で事が済んだ後、主上はどうしても芳屋に戻ると仰せられた。
 ――あのね、哈密さん。
 水も漏らさぬ警備で閉ざされた店で、陽子は丁寧に哈密に話しかけ、自分はまた当て布を付けていた。二人はまだ兄妹だった。
 ――私は兄さんに誑かされてないよ。互いに互いが好きで、欲しくて、手を伸ばした……ただそれだけ。
  照れた口調ながらも誇らしいお顔が愛らしい。そして二人の身の振り方を心配される人の好さもまたお可愛らしい。何なら私がどこかに口を聞こうかと主上は仰せられたが、あの二人は兄妹がそれなりの身分の人間だと薄々察していたのだろう、哈密は莫迦ねと軽く主上の額を指で弾いた。
 そして自分達は元々妓楼の男娼だった事。男を相手に商売できるのは体が柔らかい少年のうちで、正丁になる頃には女相手に鞍替えするのが普通だが、自分達はどうにもうまく転身できなかったのだと。そういう事情で花街の流儀に通じているから、そこに戻ればそれなりに生計を立てられる。別に春を売るだけが花街の仕事でもなし、と。
「あたしはいかつい男を抱きたくて、五船はいかつい男に抱かれたくて。そんなの問屋場にだって送り込めないわよ。みんなお尻隠して逃げたらどうしようって家公様は困ったのよね、たぶん。それで最初は打算であたし達はくっ付けられて……でも今ではあたしも五船も本当に好き同士だからいいのよ。あたし達は二人で上手くやっていくから」
 あの時の主上のお顔の何と愛らしかった事か、それこそ豆を詰まらせた鳩と哈密は言うのだろうが、鳩など目ではない。もちろん浩瀚にとっては、あの男の喘ぎ声は哈密ではなく五船だったのかとようようお気付きになられた少女の、あの初心さもまた……。 
 浩瀚は冷やかに鶏旦を見た。
「赤髪の娘など、探せば存外あちこちにいるだろう。貴兄の思い過ごしだ」
「だよね」
「ああ」
 明かさない。明かすはずがなかろう――あんな愛らしい御方を。貴兄も貴兄だ、好奇心はほどほどにすると誓ったばかりだろうに、余計な勘繰りなど。
浩瀚がひと睨みしてやると、今度は鶏旦が豆を詰まらせた鳩のような顔をした。うむ、鳩に例えていいのはこういう間抜け面だ。できる事なら主上を鳩となぞらえた哈密にも一言物申したかったが、会いにいく機会はあるまい。
「では、私は帰る。貴兄の助力に心から感謝する」

「なんの」
 鶏旦は飄々と答え、でも、と首を傾げた。
「俺ってそんなに役に立ったっけ?」
 鶏旦がやったのは最初にちょっと孫ひ孫に声をかけて、余計な首を突っ込んだだけで、これについては小言も頂戴したし。それでも何かしら古い知古の役に立ったなら、それはそれで良し。
 ただまあ、あえてひとつ言うならば。自分にとっての幸せとは、職務の範囲で造ったりなんたりしていられる事なのだろうなあと、つくづくそう思うよ。




                                                                         <終>

『4s’4』のくろまぐろ様が募集なさっていた四周年記念リクエストに応募して書いていただきました!

ワタクシ、以前まぐろ様が別のリクで書いて下さったお話に出てきたオリキャラ・鶏旦氏が妙に気に入っておりまして(笑)、
彼の出てくるお話をもう一つ、とお願いしました。
基本、小役人気質なのに、今回はつい好奇心に負けて危ない目に遭いかけた鶏旦氏、
やっぱりどこか憎めなくていい味出していますね♪(満足)。
そして、今回出てきたビーエルなカップルもまた妙に気に入ってしまいました(笑)。
に、しても、陽子さんが絡んだ時の閣下の悪知恵の回ることったら……(笑)。
それに、鶏旦氏と陽子さんに対する態度の落差にも、つい笑ってしまいました。
実情を知ったら、鶏旦氏は泣くかもしれませんね!(笑)

くろまぐろ様、面白いお話をどうもありがとうございました!

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