やがてあふれ出ずるもの<6>



霞んだ半月が、地上に柔らかく光を降り注いでいた。
夜の冷気を含んだ風が、竹林の間を抜けていく。
さらさらと竹の葉を揺らす音は、雲海の波の音のようだった。

房室を抜け出し足の赴くままに歩き回っていた陽子は、その音に惹かれて立ち止まった。
風が、解き流した髪を優しく撫でていく。
植物の発する清浄な空気を大きく吸い込んで、陽子は昼間の出来事を思い出した。

浩瀚に言ったことは、半分真実で、半分嘘だった。
本当は、薬が効きだした後のことも所々覚えていた。

首元に触れた冷たく心地良い、手。
湧き上がってきた熱に浮かされるままに、誰かに縋りついたこと。
髪を解かす優しいぬくもり。

そして――

陽子はそっと己が唇に触れた。
甘く、だが容赦なく蹂躙していった、何者かの感触……。

鈴の話から推測すれば、それは浩瀚しかいない。
けれど、陽子には信じられなかった。
あの情熱的とさえ呼べる行為と浩瀚が、どうしても結びつかなかったのだ。
だが、今日彼に会ってそのこうに気付いた時、不意に思い出した。

――この匂いだ……。

あの夢のような記憶の中で、自分を包み込んでいた、香り。
意識した途端に、心の底でじっとりと地熱を帯びた何かが疼いた。

――考えてはいけない。

首を振って、陽子はそれ以上深く考えることを拒んだ。
そのまま突きつめていけば、望まぬ答えを導き出しそうな気がした。

――浩瀚だって、別に私に特別な感情があってあんな事をしたわけじゃない。

陽子は腹部に手を当てた。
あの時、上腹部に走った痛みと、その後の記憶こそ全くないのを考えれば、大方言うことを聞かなかった私を大人しくさせる為の『処置』の一つだったに相違ない。
現に、今日会った時も浩瀚は全くいつも通りで、こちらがそんなことを意識するだけ無駄な気がした。

そう思うのに――彼に事実を問いただす事ができなかったのは、何故だろう?

心にたまったもやもやを吐き出すように、陽子は大きくため息をついた。

そして、意識は今回の首謀者である半塑はんそへと向かう。
女御を巻き込んだ事は許せない。
だがそれ以外は……自分という存在を否定し、害意を向けてきたというのに、陽子はなぜか彼を憎めなかった。
直接本人を知らないからかもしれない。
だがそれだけではない。
今回の事は、元を正せば彼が予王を慕う気持ちから起こった事だと、分かったからだ。

背後に静かな気配を感じたのは、その時だった。

「主上?」

呼びかけられた声に、陽子は振り返った。

「太師……」

そこには、この邸の主が立っていた。

   

***


「このような時間にどうなさった?」

咎めるというより、微かな心配を含んだ声。
自分の体を慮ってくれているのだと分かる。
陽子は大丈夫だと伝えるように、笑んだ。

「……ちょっと眠れなくて。太師こそ」

遠甫は、ふぉっふぉっふぉっと、こもった笑い声を上げた。

「年寄りになると、眠りが短くなってのう。儂にとってはまだ宵の口。月に誘われて、夜の『散歩たいむ』を楽しんでおったのじゃよ」

老人の軽口に、陽子は吹き出した。
心が、すっと軽くなるのが分かった。

陽子と遠甫は、どちらからともなく朧な月を見上げた。
心地良い沈黙が広がり、二人は笹の葉が奏でる自然の音色に耳を傾けた。
ふと口を開いたのは、どんなきっかけだったのか。

「恋は……人の心とは……怖いものですね」

予王の景麒への恋慕。
半塑の予王への恋情。

本来正の感情であるはずのそれらが、自分はおろか相手や他人まで傷つける刃となる現実。
呟くように洩れた少女の言葉に、遠甫は月を見上げたまま答えた。

「確かに、恋情に限らず、強い気持ちは時に人を破滅させうる脅威となろう。じゃが一方で、人を豊かに幸せにするのもまた人が人を想う心から出るもの。あまり己の心を縛らぬほうがよろしかろう」

さらりと告げられた言葉は、陽子の不安を的確に突いていた。
月から目を離した少女は、足元を見下ろした。

「……予王は恋情で国を傾けました。その跡を継ぐ私は、同じ過ちを犯すわけにはいきません」
「その気持ちさえ忘れねば大丈夫じゃ。そなたと予王は違う。例えそなたが恋をしたとて、先王と同じ結果にはならぬだろうよ」
「……そうでしょうか」

陽子はため息をつくと、両手を広げた。

小さな手。
この手に、幾万もの命が懸かっている。

「私は、そこまで私を信用できない」

あの放浪の中で感じた獣のように荒んだ感覚を、まだ覚えている。
あの時、陽子にとって大切だったのは、とにかく蓬莱に帰ること、それだけだった。
そのために妖魔を殺し、楽俊さえ一度は見捨てた。

ひとつの感情に囚われたら、私はあそこまで冷酷になれる。
自分を見失うほどの激しい感情。
陽子にとっては、恋情も同じようなものにしか思えなかった。

遠甫は月を見ながら、隣に並んだ陽子の言葉をじっと聞いていた。
だが、やがて静かに口を開いた。

「己を信用できないというのなら、周りを信じなされ」

少女の頭が、ゆっくりと上がった。

「そなたと予王と、一番大きく違うのは、そなたが一人ではないということじゃ。浩瀚、桓魋、虎嘯、祥瓊、鈴、玉葉……今、そなたの周りに集う者達は、みな信頼できる者ばかりのはず。そなたが道を踏み外すのを、みすみす許す者はおるまいよ」

しわがれた声が、陽子の心にゆっくりと染みわたった。

「……彼らに、頼ってもいいのでしょうか」
「国は広く、人の心は深い。陽子でなくとも一人では手に余るというもの。頼る頼らぬではなく、背中を預けていると思いなされ」
「……はい」
「彼等の言葉に耳を傾けることじゃ。そして何より……半身たるそちらの御方の言葉に、の」

遠甫は月から目を離し、陽子の背後へと目を向けた。
その視線を辿り、少女も振り返る。

「……景麒」

月光に輝く金髪がさらりと流れ落ち、礼の形を取った。

「お前……どうしたんだ?」

不思議そうな陽子の問いに、景麒はしばし沈黙した。

「……何となく……」
「ん?」
「何となく、お側に呼ばれているように感じました」

半身の答えに陽子は目を見張った。
だがやがてその目がふと緩み、小さな笑みを浮かべる。

「……ああ、確かに呼んだのかもな」
「お迎えも来た。そろそろお戻りなされ」

促す声に、陽子は、はい、と素直に頷いた。

「太師」
「何じゃね?」
「ありがとうございました」

先刻よりはるかに和らいだ表情で一礼すると、少女は踵を返した。
金の霊獣が、音もなくその後に付き従う。

遠甫はその小さな背が消えるまで見送っていた。
周りは笹の音だけが聞こえる静かな世界に戻っていた。
小さくため息をつくと、老人は再び月を見上げた。

脳裏に浮かぶは二人の徒弟でしの顔。

「…難儀じゃの…」

遠甫の呟きは葉音に消され、誰にも届くことはなかった。

   

***


「主上」

ゆっくりとした歩調に合わせて揺れる、緋色の髪。
その背に向かい、景麒は声をかけた。

「何?」

少女は足を止めず、顔だけで振り返った。
雲海のように凪いだ、静かな王気。
景麒は言葉を捜しあぐねるように数瞬沈黙し、やがて口を開いた。

「私は、主上が本当にお望みになる事なら反対はいたしません」

どうやら遠甫との会話を聞いていたらしい。
何を指しているのか、明白だった。

「私は、主上を信じていますから」

不器用な半身の不器用ながら精一杯の言葉に、笑みが零れる。

「……ありがとう、景麒」

陽子は再び月を見上げた。

今は、その言葉で十分だと思った。







 

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