やがてあふれ出ずるもの<5>



『ご政務多忙により、疲労がたまった為のご不調』
により、王がしばらく静養されると公表されてから五日。
金波宮は主に台輔と冢宰の尽力により、政務が滞ることもなく普段と変わらぬ日々が営まれていた。

――ただ、あえて変化を挙げるならば、内殿付きの女御が、気鬱を理由に突然官を辞したこと位だった。

しかしそれは、金波宮という大きな海の中では、小石を投じた程度の小さな出来事であり、一部の人々の口の端に上っただけで、程なく自然に消えていった……。

   

***


冢宰浩瀚が太師邸の王の元へと伺候したのは、その日の午後だった。
案内をされて房室へ入ると、榻にあった緋色の頭が振り返った。

五日ぶりに目にする女王の姿。

真っ直ぐ向けられた翡翠の瞳に浮かぶ理知の光に、浩瀚は安堵と、そしてほんの僅かな失望を覚えた。

「浩瀚」

名を呼ばれ、優雅に一揖する。

「順調なご回復、何よりでございます」
「浩瀚と景麒には、随分と迷惑をかけた」
「もったいないお言葉でございます。……手足の痺れは、もう?」
「ああ。ほとんど無くなったよ」

陽子はひらひらと手を振った。

少女に盛られた薬は、対・神仙用としてもかなり強力なものだった。
瘍医の早期の処置により意識はすぐに回復したのだが、手足の痺れが抜けず、世話係の女御や報告を聞く浩瀚等を心配させていた。

「だから、もう政務に戻れるんだけどね。玉葉達が許してくれないんだ」

そう言って、陽子は傍らに控える老年の女御を見上げた。
玉葉は、穏やかな、しかし揺るがぬ表情で、年若い主を諭した。

「お体にあれだけのご負担があった後です。表面的には治っても、まだ『気』が回復なさっておられないはず。今しばらくご静養なさいませ」
「……と、この調子なんだ」

陽子は苦笑して肩を竦めた。
今日の彼女が官服ではなく緩やかな房室着を纏っているのは、あるいは主に対する女御達の戒めなのかもしれない。
浩瀚は微笑と共に答えた。

「恐れながら、玉葉の申す通りかと。政務も特に急を要するものはございません。念を入れてあと数日はご静養を」
「何だ、浩瀚まで玉葉の味方をするのか」

子供のように拗ねた口調で訴えた陽子は、次の瞬間、つと王の顔になった。

「それで?浩瀚がここに来たということは、首謀者が分かったんだな」
「御意」

王の居所を隠すため、この五日間、冢宰はおろか景麒もこの太師邸には近寄らず、陽子の身は大僕の虎嘯と使令によってのみ護られていた。
その浩瀚が堂々とここにやってきたということは、すでに陽子の身を脅かす危険は排除されたことを意味する。

気を利かせた玉葉が、さらりと一礼して退出していく。
その姿が見えなくなるのを待って、浩瀚は続けた。

「冬官府の下官で、半塑はんそと申す者の仕業でした」
「冬官の半塑……」

記憶を辿るように宙を見上げた陽子は、しばらくして首を振った。

「覚えがないな。……彼は何故こんなことを?」
「主上にお心辺りがないのも当然でございましょう。一言で申し上げるなら……これは、予王への恋慕が生んだ凶行でございます」
「恋慕?」

予想外の答えに陽子は目を見張った。

「はい。半塑はかつて一度だけ、予王より直接お言葉を賜ったことがあったそうです。それ以来、かの君をお慕いするようになったと」

   

***


『心の奥深い所を、掴まれた気がしました』

捕縛された時もその後の調べでも、半塑は従順だった。
その様子は、王の弑逆という大それた事を試みた人物とはとても思えなかった。

『あの時思ったのです。この方の為なら、命を捨てても惜しくはないと』

半塑は目を上げて、直接尋問に当たっていた浩瀚を見た。

『冢宰には、この気持ちがお分かりになりますか?』

   

***


「予王がお斃れになり、半塑はひどく衝撃を受けたそうでございます。ただ日々を過ごすのみで、今ふり返ってもどう暮らしどう働いていたのか、よく思い出せないと。……そして、新王が践祚なさった」
「………」
「半塑には、主上が予王から全てを奪ったように見えたそうでございます。国も、麒麟も……予王の寿命でさえ」
「………!」
「もちろん、これは半塑の勝手な思い込みでございます。そもそも先王がお斃れにならなければ、恐れながら主上がご即位なさることはなかったのですから。… …予王への強い思いを持ちながら、かの方のために何もできなかった。その自分への憤りを、主上に転化したのでしょう。薬を使い、玉体を害そうと」
「……そうか」

陽子はしばらく考えていたが、やがて、「半塑も、心の中では分かっていたのかもしれないな」と呟いた。

「分かっていて、それでも私を恨まずにはおれなかったのかも」

浩瀚は、そっと目を伏せた。

――お優しい方だ。

自分に害をなした者にまで御心を傾ける様は、まるで麒麟のようだった。
この女王の資質の中で、最も尊く、そして最も危うい部分。

『何故、媚薬を使った?』

浩瀚がそう問うと、表情の乏しかった半塑の顔に初めて笑みが浮かんだ。

『御名を地に落としたかったんですよ』

くつくつと、男は歪んだ笑い声を上げた。

『昼日中から男を連れ込むどうしようもない女王だと、評判を作ってやりたかった。本当は朝議の時に合わせて薬を仕込めると、一番良かったんですがね』
『――何故、そこまで主上を恨むのだ』
『……巷では、今度の女王は今までの女王とは違う、達王の再来だなどと勝手に噂されているようで』

かっと目を見開いて、半塑ははき捨てるように言った。

『本来なら、そう称えられるのは舒覚様のはずだったのに!それをあの胎果が、横からかっさらって行ったのだ!あの胎果さえ居なければ……っ!』


ぱあんと、半塑の頬が鳴った。

『浩瀚様!』

付き添いの秋官が、慌てて浩瀚の手を止めた。

『……先王がお斃れになったのは、我等全ての官吏の責任である』

倒れ付した男を見下ろして、浩瀚は静かに告げた。

『だが、今の主上には一片の咎もない』

半塑は呆然と浩瀚を見上げていた。
だがやがてくしゃりと顔を歪めると、声を振り絞るようにして泣き出した。

   

***


「……昨日、彼女が挨拶に来たよ。引き止めたけど、決意は変わらないって」

少女の言葉で、浩瀚の意識は現実に戻った。

「……そうですか」

窓の外に向けられていた緑の瞳が、強い光を宿す。

「半塑には同情もしよう。だが他人を……彼女を巻き込んだことは許せない」
「……御意」

半塑は、蓬莱でいうところの催眠術のような呪に秀でていた。
それを利用して内殿付きの女御を篭絡し、陽子に薬を盛らせたのだ。
意識を取り戻した女御は事態を知り、金波宮を辞する覚悟をした。

半塑の身分では直接王に近付くのは難しい。
ゆえに内殿か正殿に入れて、王に接する人物であれば誰でも良かったと供述していた。
そして、たまたま近づく機会のあった彼女を利用したのだと。
その時点で、女御に対する疑いは晴れたも同然だった。

だが、残留を勧めた陽子に、女御は首を振った。

「つけこまれたは、私に隙があった証でございましょう。それに……己の意思ではなかったとは言え、玉体に害をなしたは事実。どうかけじめをつけさせて下さいませ……」
震える声で、だがきっぱりと告げた彼女に、陽子はそれ以上何も言えなかった。

外見三十半ばのたおやかな風貌のこの女御は、慶の五代の王に仕えた古株だった。
国中の女を追放しようとした予王が、ついに手放さなかった数少ない女御でもある。
実直な働きぶりで知られ、陽子が即位した時も、程なく内殿付きを命じられた。
その後は正寝の玉葉と同様、こちらの理に疎い陽子をよく支えてくれた。
だが今は、その実直さ義理堅さが逆に悲しかった。

数日の内に今回の事件は公にされる。
浩瀚と諮り、彼女が巻き込まれぬように先に金波宮から出すことくらいしか、もう陽子にできることはなかった。

「彼女には、麦州の一隅に住み処を用意いたしました。生活に困らないよう手配もいたしましたので、ご安心を」
「……うん。宜しく頼む」
「半塑の処分に関しては、取調べが終わり次第ご報告し、改めてご裁可を仰ぎます」
「分かった。だが、その前に彼に会いたい。出来るか?」
「御意」

事務的な打ち合わせが終わると、室内につと沈黙が広がった。

再び窓の外に目をやり何事か考え込んだ陽子を見て、浩瀚が退出しようと思った時。

「そういえば」

物思いから覚めた顔で、陽子が振り返った。

「薬を盛られた時、私は暴れて随分浩瀚に随分迷惑をかけたみたいだな。すまなかった」

決まり悪そうにぺこりと頭を下げる少女に、浩瀚は一瞬息を詰めた。

「……覚えていらっしゃるのですか?」

ふるふると紅い髪が揺れた。

「それが……殆ど覚えていないんだ」

分かっていた。
意識が戻った後で、瘍医を介して確認していたし、鈴には口止めをしていた。
使われた薬が媚薬であったことも、今はまだ伏せてある。
何よりあの時の状況を覚えていたら、陽子がこのように平静に浩瀚と話をしてくれることはないだろう。

あの時。

縋り付いてくる彼女を引き離すために、口付けをした。
だがそれだけではないことを、誰より浩瀚自身が分かっていた。

結局、理由が欲しかっただけなのだ。
この少女に触れる為の理由が。

――何と浅ましい……。

自分がこのように醜い欲望を持っていると知ったら、この清廉な少女はどう思うだろう。

「鈴もあまり詳しくは教えてくれなかったけど、暴れる私を押えてここに運び込んでくれたの、浩瀚なんだろう?ありがとう」

見上げてくる、無垢な瞳が痛かった。

浩瀚は、冢宰に相応しい表情をあえて作って答えた。

「いえ、それほど大した事ではございませんでした。どうぞ、お気になさらず」
「……あの場に居たのが浩瀚で、本当に良かったよ」

心から信頼しているようなその言葉は、浩瀚の心にきりきりとした痛みを与えた。

己の醜さを曝け出されたゆえなのか、男として意識されていないことに対する落胆だったのか……自分でも分からなかった。

ただ、主のその真っ直ぐな視線を避けるために、浩瀚は一礼して面を伏せた。







 

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