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やがてあふれ出ずるもの<3>
魅入られたように動けなかった。
熱い少女の首筋に当てられた、自分の手。
その肌の感触は、最上級の絹のように滑らかだった。
「……主上、手をお放し下さい」
掠れた声が自分のものとは思えなかった。
だが、それは少女の耳には届いていないようだった。
浩瀚の手を、更に下の方へと導こうとする。
「主……っ!」
慌てて引き戻すが、少女は彼の手を離さなかった。
そのまま抱きつくような格好になった陽子を受け止めかねて、浩瀚は背後に倒れこんだ。
背が書卓に当たり、積み上げていた書類がばらばらと周囲に飛び散る。
少女はそこでやっと浩瀚の手を離し、代わりに首へと腕を回した。
「……とても、熱いんだ」
衣越しに感じる少女の柔らかな感触。
どくんと心の臓が跳ね上がった。
冷たいところを探す猫のように浩瀚の頬へと擦り寄り、陽子は男の耳朶に囁いた。
「……お願い。鎮めて」
***
既に、少女の意識が常のものでないことは分かっていた。
媚薬に浮かされ、彼を本能で求めている。
いや、もう浩瀚を浩瀚として認識しているかどうかも怪しい。
「お戯れは……お止し下さい」
崩れ落ちそうな理性をかき集めて、浩瀚は少女の腕に手をかけた。
だが絡みついた少女の腕は存外強く、解けない。
ここで、彼女の願いを聞くのは簡単だった。
そうしろと……こんな好機は二度とないと、頭の隅で囁く声も聞こえた。
だが、正気でない今の状態の彼女を抱くことは、無理矢理犯すのと大差なかった。
どちらも少女の本当の意思ではないのだから。
自分を取り戻した時、彼女はきっと後悔する。
その結果、疎まれ遠ざけられる事だけは耐えられなかった。
浩瀚は小さく息を吸うと、陽子の背後に目を向けた。
「……班渠、いるか?」
『ここに』
王の影に潜みその身を護る使令は、声だけの
「主上を離してくれ」
だが。
『できぬ。なぜか主上の中に入れぬ』
使令の答えに、浩瀚は眉を顰めた。
全てが仕組まれているような気がしてならない。
「では、急ぎ台輔と……鈴を呼んで来て欲しい。玉葉にも知らせて、瘍医に連絡を。主上には早急な処置が必要だ」
『……』
使令から、逡巡するような沈黙が伝わってきた。
主たる麒麟の許可無く王の側を離れる事への戸惑いだと分かる。
浩瀚は声に力を込めた。
「台輔達がお越しになるまで、この堂室に不可視の結界を。……お前が居ない間、主上の御身は私が命を懸けてお守りする」
『それは冢宰、貴方自身からもか』
使令の問いに、浩瀚は苦笑した。
主の麒麟以上に、人心に通じた使令だと思った。
「ああ。例外は、無い」
『……諾』
一瞬にして、班渠の気配が去った。
堂室には、浩瀚と陽子の二人が残された。
***
「主上……手をお放し下さい」
浩瀚は首に回った少女の腕を外そうと、再度試みた。
台輔達が到着した時にこの格好では、さすがにまずい。
いや、誰に見られても大変困る。
着衣の乱れた若い女王が、男である自分に抱きついている状況は、人目につけば単なる醜聞だけでは収まらない。
咄嗟に使令にこの堂室が人の目につかないよう、入ろうと思わないよう不可視の結界を張ってもらったのはそのせいでもある。
だが陽子は、
「いやっ!」
甘えた声を上げると、いっそう強く浩瀚の首筋へと顔を埋めてきた。
少女の髪の香りがふわりと鼻先に広がった。
浩瀚のなけなしの配慮も理性も全て打ち壊すようなその行為に、彼は苦笑をしかけて、失敗した。
「……私の限界を試しておられるのですか?」
もしも……相手が彼女でなければ、このような誘惑は何ほどのものでもなかったのに。
――どくん
自分の心音が、やけに大きく脳裏に響いた。
握り締めていた拳は、気付くと少女の髪の中へと伸びていた。
――どくん
理性が、けたたましく警鐘を鳴らす。
台輔の使令に約した、その舌の根も乾かぬ間に。
波打つ強い感情は、理性の壁をあっさりと乗り越えようとしていた。
「主上」
呼びかける声に、少女がゆっくりと顔を上げた。
初めて至近距離で見る、翡翠の瞳。
国が王のものであると同時に、王は等しく民のもの。
だが今だけは……この視線は他の誰でもない、浩瀚ただ一人のものだった。
そう思うだけで沸き起こる、無常の幸福感。
既に思考は停止し……浩瀚の意識は唯一つ、見上げてくる少女の瞳に占領された。
柔らかく輝く緑の光に惹かれるように。
浩瀚はゆっくりと少女に口付けた。