やがてあふれ出ずるもの<2>



陽子は首筋に張り付く髪を払った。

――暑い。

急に気温が上昇したような気がする。
さっきまでは爽やかに感じていたのに。
じわりと、額に汗がにじみ出てきた。

顔を上げて堂室の中を見回してみる。
だが周りの景色は先刻と全く変わらない。

開け放たれた窓。
時折気まぐれに頬を撫でていく微風。
窓と反対側の斜め向かいに目をやれば、浩瀚が自身の書卓に補佐の官を呼び寄せ、先程陽子が出した裁可の書類を、春官府へ届けるよう指示しているところだった。
その様子は常と変わらぬ怜悧な冢宰のもの。
きっちり着込んだ官服には、乱れも緩みもない。
視線を感じたのか、官吏を送り出した浩瀚が振り返った。

「主上、何か?」
「うん……。少し暑くないか?」

冢宰は確認するように窓に目を向けて、首を振る。

「いいえ、私は。…お暑いのですか?」
「少しね。気にしないでほしい」

こちらの人々に比べて自分が暑がり寒がりだという自覚はある。
蓬莱では全く普通の範囲だったのだが。

――これって『現代病』だよな。

小さくため息をついて、陽子は再び手元の書類に目を落とした。
集中すれば、気にならなくなるはずだ。

だが。

一度切れた集中力はなかなか戻ってこなかった。
目で文字を追うが、内容が全く頭に入ってこない。
そして、肌に触れる衣の感触がやけに気になりだした。

――何だ?

「主上」

すぐそばから聞こえた声に、陽子はぴくりと震えた。
いつの間にか書卓を廻りこんだ浩瀚が、横に立っていた。
琥珀色の瞳が心配気に曇っている。

「具合がお悪いのですか?」

陽子が答える前に、失礼します、との声と共に額に冷たい指が触れた。

その瞬間。

「あっ……!」

ざわりと背中を這い上がる感覚があった。
その色めいた声に、浩瀚はもとより陽子自身も驚いた。

「主上?」

そっと手を引いた浩瀚の訝しげな声。
陽子は初めて自分の変調を自覚した。

恐ろしく敏感になった肌。
熱く火照る身体。

周囲の温度が上がったのではなかった。
自分の身体が熱いのだ。

「浩瀚……私、身体がおかしい」

両の腕を掴むが、それすら妙な痺れと快感を誘う。

浩瀚は軽く目を見張った。
膝を折り、椅子に腰かけた少女の視線に合わせる。
翡翠の瞳はぼんやりと潤んでいた。

「確かに、熱がおありのようですね。他にはどこか?」
「……触られると、ぞくぞくする。何か頭もぼーっとして……さっきまで何ともなかったのに……」

言い募る口調も呂律が回っていない。
浩瀚は冷水を浴びせられた気がした。

――これは、もしや。

「……主上。今朝起きてから、何をお召し上がりになられましたか?」

鋭さを増した口調に、陽子は驚いたように目を上げた。

「えっ……別に、いつも通りだ。朝食の粥と果物だけ」
「その後は何もお口になさいませんでしたか?」
「ここに来る前に、書房でお茶を飲んできたけど…」

きりっと唇を噛む。

――おそらく、そのどちらかで。

「……主上、今一度失礼いたします」

浩瀚は少女の小さな顎をそっと掴んだ。
びくりと陽子が身を震わせるのが分かったが、構わず引き寄せる。

「舌をお見せ下さい」

素直に差し出された舌に、浩瀚は恐れていた印を見つけた。
微かに感じる甘い香りと、うっすらと黄色に変じた舌。

――毒だ。


それも、浩瀚の知識が正しければ……それは遅効性の、強力な媚薬だった。

   

***


――誰が、何のために、なぜ今の時期に――

一瞬の内に、脳裏を様々な疑問が巡った。
だがすぐに頭を一振りしてそれを封じる。

原因の究明は後回しだ。
今はこれ以上少女の症状が悪化する前に、解毒の処置をしなくてはならない。
強すぎる媚薬は麻薬と同じ。
下手をすれば神仙でも命を落とす。

「浩……瀚?」

今や焦点の合わなくなってきた少女の様子に、焦りと不安をかき立てられる。

「主上、どうやら毒を盛られたようです。今瘍医をお呼びしますので、しばらくご辛抱を」

誰か、と声を上げかけた浩瀚は、しかしそれを果たせなかった。

右手を掴まれていた。
少女はそれをゆっくりと引き寄せ、自身の首筋に押し当てた。
いつの間にか女王の官服は緩められ、はだけた襟元からは細い鎖骨が覗いていた。

「冷たくて、気持ちいい……」

うっとりとした口調で呟いて、少女は視線を上げた。
濡れた翡翠が、彼を捉え、笑んだ。
いとけなく、妖艶に。

「浩瀚……」と。

   

***


『毒を盛られたようです』

顎に添えられた手が離れると同時に告げられた言葉は、他人事のように遠いところに落ちた。

――熱い。

頭の中に紗が下りてきたように、全てが曖昧になる。

――熱い。

浩瀚が何か言っている。
聞かなくてはと思うのに、言葉は頭の中を素通りしていく。

ふと、浩瀚の手が目に入った。
文官らしい、白くて長い指。
先程触れられた時の、冷たい心地良さを思い出す。
そして身体を貫いた快感も。

――熱い。

何も考えられなかった。
そっとその手を掴み首筋に当てると、思った通りそれはひんやりと冷たく、陽子はうっとりと目を細めた。

身の内に燻る熱の下げ方が、分かった気がした。

陽子は目を開き、男に呼びかけた。


「浩瀚」と。







 

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