――私のすべての始まりは、あの御方
あの御方が、私に生の意味を与え、喜びをもたらし……
最後に、絶望を教えて去っていったのだ――

やがてあふれ出ずるもの<1>



女御は花を摘んでいた。

庭師の許可を得て、内殿の堂室に飾る生け花を見繕う。
各堂室に花を生けるのは、本来げじょの仕事だった。
だが、彼女は今の仕事に慣れた頃からずっとその役割を自ら担ってきた。

初めは偶然だった。
花が足らぬと困っていた奚を見かねて、その仕事を引き受けたのだ。
いつもより質素ながら何とか形をつけた生け花に、堂室に入ってきた主がふと目を留め、微笑んだ。

「ああ、綺麗だね」

その時、彼女は主の好みを理解した。

――この方は、華美な花々よりも簡素で素朴な花を好まれるのだ。

それ以降、内殿の王のよく使う堂室の花々は、彼女自身が生けるようになった。
花はあまり仰々しくならないように、注意して選んだ。
忙しい王の気が少しでも休まるように。
そう思ったのだ。

内殿の園林を管理する庭師も、やがて彼女のその地道な尽力を認めるようになり、
『今日は、あそことあの辺りなら好きに取って構わない』
と、彼女自ら園林の花を摘む事を許すようになった。

だが、今日彼女が立っているのは内殿の園林ではなかった。
『正殿の芙蓉がちょうど盛りだそうだよ。欲しければあちらの庭師に頼んでおくが、どうするね?』
庭師の好意で、彼女は正殿の園林に降りていた。

彼の言う通りだった。
真っ直ぐに伸びた枝に咲き誇る芙蓉は、開き切る直前の最も美しい姿で、初夏の微風にたおやかに揺れていた。
彼女は嬉しそうに微笑んで、一枝ずつ鋏を入れだした。
あの堂室に、あの花器に、どのように生けよう……そう考えながら。

その男に声を掛けられたのは、そんな時だった。    

   

***


庭院で、女御が一人花を摘んでいた。

それを見た時沸き上がった感情を、どう表現すればよいだろうか。
心の底で、秘かに練ってきた計画。
それを実現に移す機会がとうとう訪れた、その瞬間を。

突き上げてくる高揚感。
そしてわずかな恐れ。

恐れといっても、これから成すことを恐れた訳ではない。
自分の、いわば全てを賭けたこの計画が達成できなかったら……その時感じるであろう深い絶望を想像したのだ。

だが、男は軽く頭を振ってその考えを払った。
恐れることはない。
目の前に転がった好機。
これこそが、成功の何よりの証。

――天は我の味方をしている。

男はそっと回廊を見渡し人気がないことを確かめると、使いの文箱を持ったまま静かに庭院へと降り立った。
花を摘んでいた女が、気配を感じたのかふと顔を上げて彼を見た。
男は痩せた顔に微笑を浮かべ、彼女の方へと歩み寄った。

その内殿付きの女御の方へと。

   

***


初夏の瑞々しい風が、開け放たれた窓から流れ込んでくる。
窓の下に据えられた榻に腰掛けて、陽子は風に顔を当てるように外を眺めた。
微かに火照った頬が、心地良く冷やされていく。

朝議が終わり午前の政務を始める前に、この内殿の書房の一室でしばし休息を取るのが、陽子の日課となっていた。
その日の朝議を振り返るためであり、またこれからの慶について思いを巡らす一時でもあった。

程なく女御が茶の用意を運んできた。
彼女らも心得ており、考えに耽る女王にみだりに声を掛けることはない。
茶を準備すると、静かに一礼して退室していく。

「ありがとう」

気配に気付いた陽子が振り返った。
視界の隅に、形よく生けられた芙蓉の花が映る。
見慣れた女御は、もう一度深く礼をして下がっていった。
その動きは、常よりも緩慢で目はひどくうつろだったが、考え事をしていた陽子が気付くことはなかった。

芳しい茶の香りが、風に乗りふわりと辺りに広がる。

少女は茶器に手を伸ばした。

   

***


赤い後れ毛が、はらりと風に揺れた。
それを見つめ、微かに目を細める。

景王陽子は奏上書に目を通していた。
真剣な表情で書状を読み進める女王の傍らに端然と立ち、冢宰浩瀚は彼女からの下問と裁可を待っていた。
時折訪れるこの短い時間を、浩瀚は何よりも好んでいた。
それは彼が端近で少女を見つめることのできる、唯一の機会だった。

もちろん冢宰として、常に王の様子には目を配っている。
十七まで異世界の蓬莱で育った少女は、慣れたとはいえ未だこちらの理に疎い。
そんな彼女が政務において戸惑わぬよう補佐するのが己の役目だと、浩瀚は心得ていた。
だから、女王が困っていることはないか常にさりげなく見守っている訳だが、それはあくまで『さりげなく』が鉄則だった。
成長しようとする少女の自負心を挫かぬよう、また『女王』を軽視したがる官吏に、王が冢宰の庇護を受けているなどど思わせぬよう、細心の注意を払う必要があったのだ。

だがこの時だけは別だった。
彼がどれほど熱心に陽子を見つめようと、周囲が不審に思うことはない。
せいぜい気を詰めて、難しい案件の裁可を待っているようにしか見えないだろう。
また陽子も、最近は王として四六時中視線を向けられることに慣れ、浩瀚ら身近な者の視線に意識を乱すことは無かった。

だから彼女は気付かなかった。
それが臣下がただ王を見るにしては、余りに熱が籠っている事に。

何時からだろう、彼女をただ『王』としてのみ、見れなくなったのは。
朗らかなその笑い声を聞くたび、肩にかかった緋色の髪がさらりと胸に落ちるのを見るたび、翡翠の瞳が自分に向けられるたびに……波立つ心。

その感情につける名前を、浩瀚は知っていた。
だが、それは決して周囲に気取らせてはならない想いだった。
麒麟に恋着し道を踏み外した前王の記憶は、未だ人々の心に色濃く残っている。
それを誰より理解しているのは、現王である陽子だった。

『国が……景麒が落ち着くまで、私は恋をしない』

その言葉を聞いた時、浩瀚は鈍い痛みを感じると共に、ほんの少しの安堵を覚えた。

――このお方はきっと、今まで恋をなさった事が無いのだ……。

囚われたことがある者なら、分かるはずだ。
恋は『する』ものではなく、ある日突然理屈抜きで『落ちる』ものだと。
まさに、この自分のように。
ざわつく心を落ち着かせるように、浩瀚は静かに目を閉じた。

――大丈夫だ。

呪を唱えるように心の中で呟く。

まだ封じることができる。
秘すことができる。
日に日に気持ちは膨れ、心という器からあふれ出そうとしていたが。

――まだ、私は大丈夫だ。

陽子が眉根を寄せて顔を上げた。

「浩瀚、この部分なんだが…」
「はい」

冢宰の顔で、浩瀚は指された料紙に目を落とした。


そこに内面の揺らぎを示すものは、寸分もなかった。







 

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