藍蓉は捏造地名です。
この四季の話の中では、最も年数の経った二人、という設定です。
(どこら辺がと言うと、陽子の浩瀚に対する態度の余裕度が…笑)
常世は中国(崑崙)寄りだというイメージがあるので、花見は本来桃か梅だろうと想像しました。
延王や陽子が観桜の風習を広めてくれると嬉しい。
白い景色の中を、淡い桜の花びらが限りなく舞い散る夢を見た…
桜霞
「主上、そろそろお目覚め下さい」
低く柔らかい声が耳朶をくすぐる。
「……ん……」
いまだ冴え切らぬ意識の中で返事をすれば、両の瞼にぬくもりが落ちる。
「主上」
「……こう、かん……?」
「そろそろ
促すように接吻され、陽子はようやく目が覚めた。
覗き込んでくる恋人に、微笑む。
「うん、行く。……おはよう、浩瀚」
「おはようございます」
臥牀に起き上がれば、すぐ目に入るのは足元の方向にある大きな波璃の窓だった。
その向こうに広がる庭院に、太い一本の桜の木が枝を広げている。
薄紅色の花は今まさに満開を迎えようとしており、時折風に枝を揺らす様は、さながら桃色の雲がかかったように見えた。
陽子は臥牀から降り立つと、誘われたように窓辺に寄った。
「昨夜も思ったけど、この桜凄いな。…とっても綺麗」
ここは堯天にある、浩瀚の私邸だった。
半年ぶりにまる一日の休みが取れると聞いて、陽子が真っ先に願ったのが、浩瀚との桜の花見だった。
こちらでは一般的に『花見』と言えば、桃の花を愛でる事を言う。
だが蓬来生まれの陽子にとっては、春の花見の一番はやはり桜だ。
密かに、これに勝る樹木はないと思っていた。
そんな王の好みがどこから伝わったのか、最近慶国では桜を愛でる風習が広まりつつある。
中には桜を大量に植えて、名所とする地方も出てきた。
藍蓉もそんな街のひとつだった。
噂を聞いた時から、陽子はいつか行ってみたいと思っていたのだが、今回の休みはまさに実行するにうってつけの機会だった。
問題は、冢宰の地位にある恋人が王の不在の日に休めるかどうかという点だったが、恐る恐る誘ってみると、微笑と共に「喜んで」と即答された。
どうやら、もとより自分も休むべく根回ししていたらしい。
そのせいか、陽子が心配していた景麒の許可も意外とすんなり取り付けられた。
……勿論、嫌味とお小言は付いていたが。
そうして昨日、遅くまで政務をこなした後、浩瀚に誘われてこの私邸に来たのだった。
『一本だけですが、私の邸にも桜の木があるのですよ。藍蓉に行く前に観てみませんか?』
……そう誘われて。
「主上が桜を好きだとお聞きして、植えたのです。冢宰を拝命した翌年に」
陽子は近付いてくる浩瀚を振り返り、悪戯っぽい口調で尋ねる。
「私のために?」
「そうだともそうでないとも言えますね。あの頃はとにかく新しい主となられた貴女の事を、少しでも理解したいと思っていたのです。貴女のお考え、貴女のお好み。公的な事も私的な事もすべて……」
ですが……と言葉を切って、陽子の背後で足を止めた浩瀚は、小さく首を傾げた。
「ですが、なに?」
「今振り返れば、私は最初から主上に恋をしていただけなのかもしれません。愛しい方の好きなものを、単に知りたがっていただけなのでしょう」
さらりと告げられて、陽子はくすぐったそうな表情になった。
「いずれにしてもあの頃は、こうして貴女と共にこの桜を観れようとは思っていませんでした」
元より叶うとは思っていなかった、恋心。
「私も……」
陽子は振り向くと、浩瀚の首に両腕を回した。
「私も、浩瀚とこの桜が観れて、嬉しい」
微笑んだ少女を、浩瀚は優しく抱きしめた。
***
「……では主上、そろそろお召し替えを」
「うん」
頷いて改めて見れば、浩瀚はすでに夜着から私服の袍に着替えている。
普段見慣れた官服と異なるせいか、随分若々しく見える。
いや、普段と違うのは服だけではなくて…
「……髪」
「何か?」
「浩瀚の髪形がいつもと違う」
常ならば頭上に結い上げ冠を付けている髪は、今日は襟足で一括りにされているだけだ。
長いというにはためらうが、短いとも言えなくなった付き合いの中で、これは初めての事だった。
「ああ……」
陽子の疑問に気付いて、浩瀚が答える。
「官吏が髪を結い上げ冠を付けるのは、主に出仕の…仕事の時です。私は普段も嗜好的につける事が多いのですが、時にはこうして括るだけの事もあります。……おかしいですか?」
じっと自分を見上げる陽子の様子に、微苦笑を浮かべる。
「いや」
こっちの髪型だと、浩瀚の端整な顔立ちは更に引き立つようだ。
冢宰としての威厳が減る代わりに、男としての色気が増したような気がする。
見つめていると、なぜか頬が熱くなってきた。
「主上?」
訝しげな浩瀚に、慌てて首を振る。
「何でもない。今日の髪形も好きだ。何か、普段と違ってて」
――素の浩瀚に近い気がして。
言葉にしなかった気持ちは伝わったらしい。
浩瀚はかすかに目を細めて、陽子を見つめた。
「お言葉、ありがたく存じます。時に主上、本日は貴女にも少し普段と違うお姿をしていただきたく」
そう言って浩瀚が次の間から持ってきたのは、緑の女物の襦裙だった。
一瞬怯んだ表情を見せた陽子に、浩瀚は優しく告げた。
「普段の凛々しいお姿もお似合いですが、今日は休日です。貴女の違う顔を見てみたい。そう思って作らせたものです」
「浩瀚が?私のために?」
「はい」
極上の笑顔で肯定されて、陽子は反論の言葉を失った。
「……我が国の冢宰は、相変わらず手回しと説得が上手い」
ため息を付いて、降参する。
「お褒め頂き、恐悦に存じます。では、早速お願いいたします。……お一人でお召しになれますか?」
「うーん、多分……」
「手伝いを呼びましょう」
陽子の不安そうな返答に、浩瀚は玲鈴を鳴らして
「浩瀚が手伝ってくれるんじゃないの?」
何事にも器用な男は、女官の居ない場所では陽子の着替えを手伝ったり、髪を結ってくれる事も多い。
浩瀚は苦笑を浮かべると、無邪気に自分を見上げる主の耳に唇を寄せた。
「私がお着せしておりますと、つい脱がせてしまいたくなりますので。そうなりますと、藍蓉に着くのが夜になってしまいます」
囁くついでに軽く耳朶を啄むと、陽子の頬にさっと赤みが注した。
「ばっ……!浩瀚!」
耳を押さえて飛びすさる主の反応を楽しそうに眺め、浩瀚は丁度入ってきた老いた奚に陽子の着替えを指示した。
老女は衣装を受け取ると、しゃがれ声で少女を隣室へ誘った。
「では若奥様、どうぞこちらへ」
「若奥様!?」
予想外の呼び掛けに、思わず陽子の声が裏返る。
浩瀚は苦笑して、奚を
「これ、失礼ではないか。この方はそのようなご身分の方ではないぞ」
老女はからからと笑い声を上げて、答えた。
「例え景王様だろうと玄君だろうと、若様の奥様なら若奥様に違いないでしょうが」
「……お許し下さい。私が子供の頃から親子二代で仕えてくれている信頼できる奚なのですが、万事この調子で」
道理で浩瀚が『若様』な訳だ。
陽子は笑って浩瀚の謝罪を退けた。
「構わない。それに、彼女の言う事は正しい。確かに、浩瀚の奥さんならどんな人であろうと『若奥様』だ」
機嫌よく「着替えてくる」と告げて、陽子は老女の後に付いて房室を出て行った。
***
着替え終わった陽子が隣の房室から出てきたのは、四半刻後の事だった。
「……どう?」
近付いてきた少女がおずおずと尋ねるまで、浩瀚はその姿に釘付けになっていた。
「……とてもお美しい」
呟く様に答えれば、少女は嬉しそうに微笑んだ。
浩瀚が彼女の瞳を思い出しながら選んだ、翡翠色の襦裙。
細い絹糸で織られた裙は、裾に近付くほど青味を帯びて広がる。
そして、襦裙の上には深緑の布に金糸で刺繍をほどこした丈の短い上着。
その背には、いつもは括られている緋色の髪が緩く波を打って流れている。
それで髪のほんの一部を結わえている。
「着心地はいかがです?」
「うん。動きやすいし、いつも着せられる襦裙みたいにあちこち締め付けられてもいないし、とってもいい」
――こんな襦裙だったら、毎日着てもいいんだけどな。
くるりと回って、陽子は笑った。
格好としては、裕福な家庭の子女といったところだ。
襦裙を嫌うこの主を思い、布には思い切り凝ったが、形はあえて簡素に仕立てさせた。
その方が彼女の美しさも引き立つだろうと。
浩瀚の読みは見事に当たった。
「なんだか、質素に過ぎませんかねぇ」
老女は不服そうであったが。
「いや、この方らしくていい」
「私もそう思う」
二人の唱和に、しゃがれ声で笑うと退出していった。
「ありがとう、浩瀚。服も、藍蓉も、すごく嬉しい」
薄くほどこされた化粧のせいか、浩瀚を見上げる少女は驚くほどの色香を漂わせて、彼の男心をくすぐる。
「私の方こそ、お礼を申し上げねば。この様に美しい貴女を、一日独占できるのですから」
「では……」
艶やかな笑顔と共に、陽子が浩瀚の腕に己の腕を絡ませる。
「藍蓉に参りましょうか、『
かすかに目を見張った浩瀚だったが、すぐに陽子の笑顔に引き込まれたように、微笑んだ。
「『奥方様』の仰せのままに」
仮初の夫婦を演じながら。
恋人達は甘い休日を満喫すべく、桜見物へと繰り出した。
<終>
2007.05.01