*藍蓉は、捏造地名です
一周年記念としてフリー配布していたSSでした。
一年前にUPした『桜霞』の続きになります。
テーマはずばり『桜デート』。
割と年数の経った二人(つまり、浩瀚に大分耐性を付けた陽子)、というMY設定があったのですが……
書き上げてみると、とてもそうは思えない話になりました。
最後閣下が暴走して、船頭さんの出てくるシーンをひとつ削った事は内緒です(笑)。
BGM:宇多田ヒカル『SAKURAドロップス』
宵桜
「うわあ、すごい!」
大路に沿ってずらりと植えられた柳桜。
暖かい春の微風が、長く垂れたその枝を揺らしていく。
その下では、少女と同じように桜を見上げながら歩く人々の姿が絶えない。
ここは堯天より騎獣で半刻ほど北に駆けた街、藍蓉郷。
数十年前、郷長の提案で街中に多数の桜の木が植えられた。
民の心に潤いをもたせようと郷長が自らの財を放出して植えさせただの、現景王が桜をこよなく愛すると聞き及び、胡麻を擦ったのだとか、その理由は様々推測された。
だが、とにもかくにも、今やその木々は大きく育ち、藍蓉は桜の名所として広く知られるようになった。
毎年、桃色の蕾が綻び出すと、国内だけでなく他国からも見物人がやってくる。
藍蓉の街の人々はその美しさ賑やかさを自慢する時に、『何と言っても、あの延王様までがお忍びでお越しになったんだから!』と、胸を張る。
勿論それは単なる噂で、実際『延王』なる人物を見た者はいないはずなのだが……噂というのは、時に恐ろしいほど真実を突くもので、 陽子は他ならぬ本人の口から、藍蓉の感想を聞いていたりする。
「……綺麗だな」
「はい」
足を止め、揺れる桜の枝を嬉しそうに眺める少女の頬を、散り急いだ花びらが一枚掠めていく。
その美しい光景を、浩瀚は微笑を浮かべて眺めていた。
と、途端に、陽子がくるりと振り返った。
「浩瀚、屋台だ!屋台を見よう!」
翡翠の瞳を輝かせて前方に見えた市を指差す少女は、外見の年齢以下の子供のようだ。
だがそんな無邪気とも呼べる姿は、雲上では滅多に見れないものだけに、浩瀚の笑みは一層柔らかくなる。
「浩瀚!早く!」
「かしこまりました。ですがお気をつけ下さい。あまり急ぐと転びますよ」
「大丈夫!」
袖を引っ張る少女に合わせて、浩瀚は歩き出した。
***
飯屋、駄菓子屋、玩具屋、小物屋、装身具屋。
市は、普段の倍の店と人出で賑わっていた。
人込みに押されながら、陽子は珍しいものや綺麗なものを見つけては感嘆の声を上げて浩瀚の袖を引いた。
襦裙に刀を差した少女の珍しい姿に、すれ違う人々の多くが振り返った。
振り返り、そして一瞬、繋がれたように視線を留める。
その一風変わった姿は、彼女の中性的な美しさを損なう事なく絶妙に引き立てていた。
だが当の陽子は、周りの注目を集めている事に全く気づいていない。
それを危なかしくも愛おしく思いながら、浩瀚はさり気なく彼女を人混みから守るように寄り添った。
友人へお土産を買いたいという少女に付いて市を歩き、紫紺の髪に似合う髪飾りと、癖毛の黒髪をとかすのに適した櫛を買い求める。
「こちらなど、お嬢様ご自身にいかがです?」
店々でそう声をかけられたが、その度に陽子は、店主と、問うように彼女を見つめる浩瀚に、笑って首を振った。
「もう欲しいものは貰ったから、いいんだ」
――この襦裙も、今日という休日も。
土産を手に歩き出しながら嬉しそうに告げる少女に、浩瀚は苦笑した。
「少々、残念でございます」
「何が?」
「今日は貴女様の我儘をめいっぱいお聞きできると楽しみにしておりましたのに、ご自分の事には本当に無欲でいらっしゃる。私としては、少々張り合いがございません」
わざと拗ねたような物言いをする男を、陽子は面白そうに見上げた。
「……私も、私欲がない訳じゃない」
そう言って、ちらりと笑む。
「聞いて後悔しないなら、言うけど」
「無論。何なりと」
じっと浩瀚を見つめ、陽子は口を開いた。
「来年も、ここにこうして花見に来たい」
予想外の言葉に、浩瀚は軽く目を見張った。
「もちろん、私だけが来るというのではだめだからな」
相手の腕に自分のそれを絡ませて、少女は悪戯っぽく付け加えた。
「供は家宰に申し付ける。――どうだ、凄い我儘だろう」
胸を張る少女に、浩瀚は思わず笑みを零した。
二人揃ってのこの休みが、浩瀚の数ヶ月にわたる細かい調整と根回しの結果だと、分かっているのだ。
だがこのようにねだられれば、その程度の骨折りなどいかほどのものかと思う。
何より、また自分と共に来たいと言ってくれるのが嬉しくて……浩瀚は少女の耳元に顔を寄せた。
「我が君の、仰せのままに」
囁かれた言葉に、陽子はくすぐったそうな笑顔を返した。
***
市を出た二人は、西へと歩き出した。
藍容を桜の景勝地として著名にしたのは、大路の桜並木とともに、街の西側を流れる川に沿って植えられた、百本以上の桜だ。
成長が早い品種として知られる、淡い薄桃色の桜。
それらが土手から川面へ重なるように枝を差し伸べる様子は、大路の可憐な柳桜とはまた別の、圧巻とも呼べる景色を作り出していた。
暮れ出した空を背景に、世話役達が木々に吊された灯籠と、川岸に一定の間隔で据えられた篝火に、一つ一つ灯を入れていく。
下から照らし出された桜は、微風に揺れ、見る者を幽玄の世界へと
二人は上を見上げながら、蛇行した川に沿ってゆるゆると歩を進めた。
「あ、浩瀚、あそこ!」
目的のものを見付けて、陽子ははしゃいだ声を上げた。
少女の指差す先には、小さな船着場があった。
自分達で漕ぐ小船から、船頭付きの大船まで、様々な船が
集まった人々は、人数や懐具合に合わせて、それぞれ選んだ船の持ち主と交渉しては借り受けているようだった。
『あれはなかなか良かったぞ』
藍蓉の話題が出た折、隣国の王と麒麟が口を揃えて褒めたのが、この観桜の川下りだった。
「では早速借り受けてきましょう」
期待に顔を輝かせる少女に笑んで、浩瀚は川岸へと降りた。
***
浩瀚が借りてきたのは、船の上に柱を立て屋根をかけた、中型の船だった。
船頭の他に、舟漕ぎが二人付いている。
「へぇ……」
目隠しの薄絹をめくって船内に入った陽子は、珍しそうに周りを見回した。
船室には敷物が敷き詰められ、中央には小卓も据えられている。
左右には船縁との段差を生かした腰掛があり、その上には幾つもの色鮮やかな詰め枕が置かれていた。
適度な広さと密閉性が居心地いい。
まるでどこかの邸の一室のようだった。
「随分立派な船を借りたな」
「中の上といったところですよ。両岸の桜をゆっくりご覧になるには、ちょうどよろしいかと」
浩瀚の言葉が終わるか終わらないかの内に、薄絹の向こうで船頭の声がした。
「
「ああ。頼む」
ゆっくりと、船が動き出した。
「わぁ……」
船縁の腰掛に座り外の景色を眺めていた陽子は、この日何度目かの歓声を上げた。
振り仰げば宵の空を覆いつくすかのように桜の枝々が広がり、下を見れば篝火の光を受けた桜が、揺れる水面に映り込んでいる。
「……何だか」
「はい?」
「何だか、夢の世界のようだな」
向かいで、外を見ながらうっとりと呟く少女に、そうですね、と笑んで、浩瀚は両手を広げた。
外の景色に心を奪われていた陽子は、誘われるままに身体をずらし、浩瀚の膝に腰を下ろした。
大勢の家生を引き連れ酒宴に興じる、万賈相家の大船。
楽しそうにお喋りしながら漕いでいる、親子連れの小船。
それらの間を縫いながら、陽子達の船はゆらりゆらりと進んでいく。
「賑やかですね」
触れた背中越しに響く浩瀚の声に、頷く。
「うん。嬉しいな」
花見に興じる事ができるのは、生活と気持ちに、余裕がある証だ。
彼らの笑い声一つ一つが、陽子への褒美であり、励ましだった。
その時、一瞬、船が大きく
「おっと、すいやせん」
船頭の声に、陽子は夢見心地からはっと覚めた。
途端に、今の自分の状況に思い至る。
「……ちょっと、浩瀚」
「いかがなさいました?」
「この体勢は、ちょっと……」
薄絹で隔てられているとはいえ、声の届く距離に船頭達がいる。
そんな状況で、浩瀚の膝に乗ってもたれかかるというのは……気付いてしまうとかなり恥ずかしい。
しかし、慌てて立ち上がろうとした少女の身体を、浩瀚は離さなかった。
「こら、浩瀚!」
腰に回された手を解こうともがく陽子の耳に、浩瀚は唇を寄せた。
「――恐れながら」
色を含んだ低い声に、少女の身体がびくりと跳ね上がった。
「出発前に仰せになりましたね。今日は夫婦のふりをしようと。妻が夫の膝に座るのは、自然な事かと存じますが?」
「……確かに、確かにそうは言ったけど……っ!」
頬を染め顔を逸らせる可愛らしい恋人に、そっと囁く。
「――主上」
宥めるように、促すように。
「――主上」
甘えるように。請うように。
繰り返し囁かれる男の声に根負けしたように、溜息をついて少女が振り向いた。
恥ずかしさを押し殺したような表情。
浩瀚は柔らかく目を細めて、熱の引かないその頬に手を伸ばした。
微かに潤んだ翡翠の双眸を、想いを込めじっと見つめる。
やがて。
彼の意を受け止めた少女が瞼を閉じるのを待って、浩瀚はそっと華奢な肩を引き寄せた――。
<終>
2008.05.09
2014.04.10【改】