月並みですが、『嫉妬する浩瀚』を書いてみたくてできた話です。
嫉妬する対象として延王にお出まし願った訳ですが、ちょっといい人過ぎました、尚隆。
私の中の延王は、本当はもっと喰えなくて掴めない雰囲気の人です。
ところで、雲海の上で雪って降るんでしょうか(爆)。
冬花<後>
延王・延麒と、内々の酒宴に花を咲かせていた陽子に、女史が就寝を告げに来たのは、半刻程後の事であった。
陽子は顔を顰めた。
「まだ一刻も経ってないじゃないか。せっかくお二人がいらっしゃっているんだ。もう少しいいだろう」
女王の言に、女史は引かなかった。
「恐れながら、主上におかれましては先日も過労によりお倒れになったばかり。延王・延台輔には失礼ながら、我らが主上には、本日はもうご就寝して頂きたく女官一同意見が一致いたしましたので、お迎えに参りました」
「ちょっ……何を……!」
「陽子、倒れたのか!?」
「それはいかんな。いくら神仙とは言え、無茶をしてはどこかに皺寄せが来る。今日はもう休め」
「いえ、延王、あの……」
「そうそう。どうせ俺達は二三日ここに世話になるつもりだし、話はまたできる。陽子に必要以上の負担をかけちゃ、俺達の寝覚めが悪いからな」
「延王・延台輔には寛容なお言葉、ありがとうございます。のちほど景台輔が参りますので、それまでごゆるりとお過ごし下さい」
「分かった。陽子、ゆっくり休めよ」
心配そうな口調で次々畳みかけてくる延主従に言葉を返す間も与えられず、気付けば陽子は女史に引っ張られて、堂室を後にしていた。
***
「ちょっと祥瓊!いつ私が過労で倒れたって?まったく身に覚えがないぞ!」
問答無用で連れ出された陽子が我に返って女史……祥瓊を問い詰めたのは、堂室を後にして大分経ってからだった。
「ああいうのを『方便』と言うのよ。陽子も使い方を覚えなさいね」
「そういうことではなくて!」
言い募る陽子の袖を引いて身を寄せると、祥瓊は囁いた。
「正寝の貴方の私室に、浩瀚様がお越しになってるわよ」
「……浩瀚が?」
本来王の生活の場である正寝は、臣下の立ち入る場所ではない。
だが陽子は初勅直後から、景麒と浩瀚、そして遠甫には、無断での正寝への出入りを許可していた。
それは落ち着かない朝を慮っての処置だったが、実際彼等がその権を行使する事は滅多に無かった。
浩瀚にしても、お互い想いを交わしあった後も、正寝を訪う際はほとんどの場合、律義に先に知らせてきた。
彼が前ぶれもなく来るのは、かなり珍しい。
「そうなの。もう四半刻ばかり待っていらっしゃるんだけど……」
「どうかしたのか?」
祥瓊は問い掛ける陽子を、近くの無人の房室に引っ張り込んだ。
「祥瓊?」
「陽子、しゃんと立って」
言うなり、陽子の官服の乱れを手早く直していく。
されるがままになりながら、陽子はため息をついた。
「……祥瓊、話がさっぱり見えない。分かるように説明して」
「だから、浩瀚様がさっきからお待ちになってるんだけど、様子がおかしいのよ。貴方、心当たりあって?」
陽子の顔に当惑の表情が浮かぶ。
「……全然無い。だって浩瀚、全くいつもと変わらなかったし……」
少女の目が心配そうに正寝の方へ向かう。
「どんな風におかしいんだ?」
「どんなって言われると困るんだけど……雰囲気が怖いわ。物騒というか」
実を言えば、そんな浩瀚の様子に気付いたのは、正寝に居た女官の中でも祥瓊だけだった。
突然現れた冢宰は、一見いつもと変わらぬ穏やかな物腰であった。
だが祥瓊はその表情の下に、普段の彼にはない、触れると切られそうな冷たい塊が見えた気がしたのだ。
それを感じたのは、かつて祥瓊も同じ塊を抱いた事があったせいかもしれない。
『祥瓊、私の頼みをきいてもらえないか』
彼女が気付いたのを見透かしたように、浩瀚はついと近寄り、そう告げた。
その整った顔に浮かんだ淡い微笑みは、なぜか祥瓊の背筋を凍らせた。
『主上を連れ戻して来て欲しい』
祥瓊は、一瞬礼をとるのを忘れるほど驚いた。
隣国の貴人の来訪を、彼女は友人の女御から聞いていた。
当然、陽子が彼等を接待している事も想像がつく。
そこから陽子を連れ戻せというのだ。
しかも、浩瀚が冢宰の名で以てそれをしないという事は、浩瀚個人の要望なのだ。
大それた、と言えば、これ以上無いほど大それた事だ。
一瞬の内にそこまで考えたというのに……。
『畏まりましたわ』
気付けば祥瓊は承諾していた。
自分でも不思議に思ったが、気を変えようとは思わなかった。
それは、決して浩瀚の為ではなかった。
あえて言うなら、この友人の為。
あの冷たい塊は、放っておけばどんどん膨らむだろう。
そして公的にも私的にも彼と深く関わる少女は、必ず巻き込まれる。
それなら早目に処置するに限るのだ。
そうして、祥瓊は陽子を迎えに来た。
戸惑う陽子の髪を直しながら、祥瓊は問い掛けた。
「ねぇ。今日浩瀚様は、延王と何かお話になっていなかった?」
「延王と?そう言えば禁門でお迎えした時に、歩きながら話していた気がするけど……それきりだったな」
「多分それね」
「は?」
「はい、出来た」
ぽん、と陽子の肩を叩くと、促した。
「じゃあ急ぎましょう」
「ありがと。……でも、何でわざわざ衣を直すんだ?それに延王と浩瀚と、どう関係する?」
疑問一杯といった表情を浮かべる鈍い友人に、祥瓊は一瞬浩瀚が気の毒になった。
「衣を直したのは、これ以上浩瀚様を刺激しないためよ。後は……浩瀚様に直接お聞きなさいな」
あの冷静で限り無く完璧に近い冢宰が、以前から延王を意識していたのは何となく察知していた。
それも官吏としてではなく、陽子を挟んで一人の男として、だ。
登極以前から彼女を援助してきた延王と延麒に、陽子はとても打ち解けた顔を見せる。
己の権も目も届かぬ他国の男にそのような気安さを見せられては、恋人として不安になって当然だろう。
それがとうとう表面化したのだろうという祥瓊の読みは、どうやら当たっているようだった。
いずれにしても、あの浩瀚を最終的に押さえられるのは、陽子だけだ。
男の愛情と独占欲。
それをこの少女がもっと理解してくれるといいのだけど。
こっそりため息を付きながら祥瓊は思ったが……その願いが叶うのは、まだまだ先のようだった。
***
陽子の足音が堂室から遠ざかると、尚隆はそれまで押さえていた笑声を上げた。
「とうとう我慢の緒が切れたか?随分露骨にさらっていったものだ」
なあ、と振り返られ、六太は主を睨み付けた。
「お前なぁ……浩瀚を敵に回すのは止めてくれ。俺までここに出入り禁止になるだろ」
「さて、何の事だ?」
「とぼけるな!必要以上に陽子にくっつきやがって」
二人共これが浩瀚の差し金であると、信じて疑わなかった。
最初に陽子と浩瀚の関係に気が付いたのは、慶にちょくちょく出入りしていた六太だった。
意外にそうした勘が鋭い彼は、その後渋る景麒から無理矢理裏付けを取っていた。
陽子の話題が出た折りに、尚隆にもふと話を漏らしていたのだが……。
「水を向けたのに白を切られてな。腹が立ったんで、からかってみた」
「趣味の悪い事するな!……あ、もしかして今回急に付いて来るって言ったのも、浩瀚をからかうためだったのか?」
「人聞きの悪い。陽子の為に、改めて浩瀚の
六太は肩を竦めた。
「孫娘を心配する、お節介なじいさんみたい」
半身の言葉に、尚隆は顔をしかめた。
「せめて、妹を心配する兄と言わんか」
「おこがましいや。実年齢から言ったら、ひいひいひいひいひーじいさんよりもっと年寄りのくせに」
「お前に言われたくないぞ」
「俺はお前より多少若いからな。それに……」
にやにや笑って、六太には続けた。
「実際、陽子のお前に対する認識もそんなもんかもしんないぞ。お前があれだけくっついても、見事に気付かなかったもんな、陽子。ありゃあ男として意識されてないんだよ」
「……それは陽子が女としてまだまだ未熟だからだ」
「どうだかな」
面白そうな六太に、ふんと鼻を鳴らして、尚隆はぐいっと杯を呷った。
***
雪は、相変わらずはらはらと降り続いていた。
積もるほど強くもならないかわりに、止む気配もない。
草木に触れ、庭院の灯明に近付いては消えてゆく。
「……浩瀚?」
背後で衣擦れの音がし、振り返るとこの堂室の主が立っていた。
「……勝手にお邪魔しておりました」
「それは構わないけど……」
人払いをして、陽子は礼をとった浩瀚に近付く。
顔を上げさせ、自分のそれより高い位置にある浩瀚の頬に手を伸ばすと、心配そうにその目を見上げた。
「祥瓊が、浩瀚の様子がおかしいと言っていた。どうかしたのか?」
酒のせいか、常より潤んだ翡翠の双眸と、ほてった頬。
かすかに開いた紅唇に、心の底に澱んでいたものがぞろりと鎌首を持ち上げるのが分かった。
「……その無防備なお顔を、延王にもお見せになったのですか」
「えっ?」
問い返す陽子の腰を、浩瀚はぐいと引き寄せ、唇を塞いだ。
反射的に逃れようとする少女の体をやすやすと腕に封じ込めると、柔らかい唇とその内奥を思うままに蹂躙する。
「……こうっ……かっ……!」
いやいやをするように身を捩っていた少女の抵抗が、徐々に弱くなっていく。
かわりに荒くなっていく息遣いと共に、足元がよろめいた。
そしてまさに崩れ落ちる瞬間、浩瀚は少女の体を抱き上げた。
「貴女は無防備過ぎるのです」
そのまま臥室へ入ると、牀の上に陽子を押さえ付けた。
縫い止めるように。
「今宵は主上の警護に参りました。延王が夜這いに来るやもしれませんので」
押し倒された陽子は、目を見張って浩瀚を仰ぎ見た。
「延王が……どうして」
「相変わらず鈍くていらっしゃる。貴女に対するあの視線を感じなかったのですか?だから無防備だというのです」
「浩瀚……」
見下ろす浩瀚の瞳は感情を映さぬ鏡のようで……陽子は、初めて彼を怖いと思った。
そこにいるのは、彼女の知る静かで優しいいつもの浩瀚ではなかった。
触れると切られそうな刃の感情を持った、見知らぬ男、だった。
ぎしりと牀が鳴り、更に強く腕を押さえこまれる。
「浩瀚……腕、痛い……」
陽子の顔に浮かんだ怯えを、浩瀚は冷たい表情で見下ろした。
「……貴女を、延王には渡せない」
延王だけではない。他の誰にも渡せないと思った。
例えそれが麒麟だろうと……民だろうと。
官吏にあるまじき考えだと、分かっていた。
まして慶の朝を束ねる冢宰としては、言語道断。
だが、それでも。
心の中にくっきりと形を取った気持ちは、もう誤魔化す事が出来なかった。
凍りそうな冷たい微笑を浮かべ、浩瀚は少女に顔を寄せ、告げた。
「今日は手加減できません。お覚悟下さい」
一瞬、緑の双眸が見開かれ、やがて震えるように閉じた。
だがしばらくして再び開いた時、そこから恐れの色は消えていた。
「……いいよ」
至近に迫る浩瀚の琥珀の目を正面から受け止めて、静かに陽子は言った。
「浩瀚にだったら、何をされてもいい。快楽だろうと傷だろうと、浩瀚がくれるものは全て私の宝だ」
見下ろす瞳が、微かにたじろいだ。
「……私は、延王のものにはならない。もうすでに慶の民のものだから。浩瀚は慶の民だが……私は、浩瀚だけのものにもなれない」
だけど……僅かに緩んだ拘束を抜け出して、陽子は浩瀚の頬にそっと手を伸ばした。
「この身に触れるを許すも、痕を付けることが出来るのも、浩瀚、貴方だけだ」
――それでは駄目か?
真摯に問い掛ける、翡翠の瞳。
「……貴女は」
引き込まれそうなそのまなざしからやっとの思いで顔を反らし、浩瀚は呟いた。
――貴女は、一体、何者なのだ。
たった一言で、この胸にはびこっていた妬心も昏い思惑も、消し去ってしまった少女。
思わず苦笑が浮かぶ。
いや、本当はとっくに分かっていた筈だ。
初めて出会った時から、この少女は慶国だけでなく、己にとっての神だった。
浩瀚の、心も身も全て鷲掴みにして離さない、緋の女神……。
「本当に……主上には
「浩瀚……」
陽子に目を戻して微笑んだ浩瀚は、いつも通りの彼で……陽子はそっと安堵した。
男は、そんな少女の耳元に唇を寄せる。
「……やはり主上には、今宵はお覚悟して頂かなければ」
「なに?」
色を含んだ低い声で囁かれ、陽子は身震いした。
「そのように愛らしい事をおっしゃって拙を喜ばせておきながら……無事にすむとお思いか?」
夜目にも、女王の頬が赤く染まるのが分かった。
「……わが国の冢宰は、本当に意地が悪い」
拗ねた口調でそう呟いた陽子の唇に、浩瀚は優しく接吻した。
***
翌朝。
払暁の光が仄かに差し始めた時刻。
衣の擦れ合う密やかな音で、陽子は覚醒した。
「ん……浩瀚?」
反射的に恋人の名を呼べば、衣擦れの音が近付いてきた。
「お起こししてしまいましたか?」
醒めやらぬ意識の中、無理矢理に目を開けると既に衣を着込んだ浩瀚が覗きこんでいた。
「……もう、行っちゃう?」
「ええ」
未だ夢うつつの少女の瞼に接吻を落とし、囁く。
「主上はまだお時間がございます。もう少しお休みなさいませ」
「ん……」
「そうそう、今日はお
「ん……分かった……」
再び眠りに落ちた少女が浩瀚の言葉の意味を真に理解したのは、女御が起こしに来た半刻後の事であった。
昨夜ちらついた雪は、日が昇りしばらくすると溶けるように消えた。
昨日の雪模様が嘘のように、金波宮の上には抜けるような青空が広がっている。
だが冷え込みは厳しく、慶に本格的な冬がやって来た事を告げていた。
午前の政務が終わった陽子は、延主従の滞在する花容殿へと向かっていた。
吹き抜けの回廊を足早に進んでいた陽子は、周りに人がいなくなったのを見計らって数歩後を付いてくる浩瀚を振り返った。
「……やり過ぎだぞっ!」
「さて、何の事でしょう?」
少女の言いたい事を百も承知で首を傾げてみせれば、
「とぼけるな」
若い女王は不機嫌な顔で睨み返してきた。
だが、それは本人が思うほど効果は無かった。
冷気と、恐らく羞恥心で紅く染まった頬。
上目遣いで睨んでくる様は、朝議などで見せる毅然とした表情と違い、ひどく愛らしい。
自然微笑を浮かべる浩瀚を見て、陽子はますます憮然とする。
「浩瀚のせいで、今日は襦裙を着る羽目になったんだぞ」
確かに今日の陽子は、珍しい襦裙姿だった。
常になく華やかないでたちに、朝議に集った官の中には、しばし呆然と主を見つめる者が少なからずいた。
「お
「世辞はきかない」
頬を膨らます少女の方に微かに身を屈めて、浩瀚は笑みを含んだ声で告げる。
「主上にお認め頂いた、私の『権利』というものを行使させていただいたのですが?」
「だからって……!」
――何もあんな目立つ所にっ!
回廊の先から官がやってくるのを見て、陽子は慌てて台詞の後半を飲み込んだ。
「おや」
秀麗な顔に微笑を浮かべたまま、浩瀚はさらりと問うた。
「主上におかれましては、もっと際どい場所をお望みでしたか?」
「ばかっ!」
陽子は人目を忘れて思わず叫んだ。
跪礼して王と冢宰に道を譲ろうしていた官が、驚いて目を見張った。
西園の一隅にある花容殿は、延主従が金波宮に滞在する時好んで使う宮だった。
陽子と浩瀚が入っていくと、客人達はそれぞれ榻に寝そべり娯楽本を片手に寛いでいた。
尚隆の隣にはちゃっかり波璃の酒器も置かれている。
まさしく、『休暇』を絵にしたような光景だった。
「おはよう! 陽子」
陽子の姿を認め、六太がひょいっと起き上がる。
「おはようございます。昼餉のお誘いに参りました」
「もうそんな時間かぁ。休みだと時の経つのが早いな」
そう言うと、少年の麒麟は陽子に近付きまじまじと見上げる。
「珍しいな。陽子が襦裙を着てるなんて」
「あ……ええ。たまには着飾らせろと、女御逹に迫られまして……」
動揺を押さえ咄嗟にそう言い繕えたのは、陽子にしては上出来だった。
「あはは。陽子もまだまだ苦労してるなぁ。でもとっても綺麗だぞ」
なあ?と、背後を振り返り、己が主に問えば。
「ああ、よく似合う。今度俺からも一揃贈ってやろう」
本から顔を上げて、尚隆はおおらかに笑んだ。
「いいえ! お気持ちだけで十分です!」
慌ててぶるぶると首を振るが、尚隆は屈託がない。
「俺とお前の仲ではないか。変な遠慮はするな」
「遠慮ではなく……」
背後に控える浩瀚から冷気を感じるのは気のせいだろうか?
昨日は気付かなかったが、今なら分かる。
延王のこうした態度が、いたずらに浩瀚の嫉妬心を煽っていたのだと。
――あまり刺激しないで欲しい……。
昨夜の浩瀚の様子を思い出して、陽子はそう願ったが、どうやら延王はわざと浩瀚を刺激しているようにも見える。
今も陽子に笑いかけながら、半分は浩瀚の様子を伺っているような……。
「……主上」
「はいっ!」
低い声で呼ばれ、陽子は思わず飛び上がりそうになった。
恐る恐る振り向けば、端整な顔にいつも通りの微笑を浮かべた浩瀚が書状を差し出す。
「こちらをお二方に」
「あ……ああ、そうだったな」
冢宰がここまで連いて来た理由を思い出した。
思ったより穏やかな様子の浩瀚にほっとしながら、陽子は受け取った書状を六太に渡す。
「昨夜のお話の、正式な依頼書です」
「おう、早いな。確かに受け取った」
書状が延台輔に渡ったのを見届けたところで、浩瀚は退室の意を示した。
「では、私はこれで」
「うん。ありがとう、浩瀚」
「ご苦労さん」
労いの言葉を受け、男が身を翻した瞬間。
――ちゃりーん……
陽子と浩瀚の間で、澄んだ音が響いた。
「えっ?」
「
浩瀚は屈みこんで、小さな簪釵を拾い上げた。
「主上のお髪から落ちたようですね」
「えっ、本当?」
そんな感じしなかったけど……。
疑問を口にするより早く、浩瀚が傍らに立つ。
「畏れながら、少々横をお向き頂けますか」
「あ……うん」
簪釵を挿し直そうとしてくれているのだと気付いて、陽子は素直に横を向く。
浩瀚は慣れた手付きで簪釵を挿すと、手早く緋色の髪を整えた。
「よろしゅうございますよ」
「ありがとう」
冢宰はその場の貴人逹に一礼すると、静かに退室していった。
「それで、お二人共……」
陽子が雁の主従を振り返ると、二人は奇妙な表情でこちらを見ていた。
「どうかなさいましたか?」
首を傾げて問いかければ、
「……やるなぁ、浩瀚」
呆れた顔で、六太が呟く。
「はい?」
不思議そうな陽子を面白そうに見やり、尚隆は片眉を上げた。
「いや、何。陽子はどうやら昨夜はゆっくり休んだようだな、という話だ」
含みを感じるその言葉の意味を悟り、陽子の顔がみるみる赤く染まる。
慌てて両手で首を押さえたが、既に遅かった。
簪釵と髪を直しながら、さりげなく露にされた首筋には、いくつもの花びらが散っていた。
それは所有印。
少女が自らの手の中にある事を示す、刻印。
明らかに、昨日の延王に対する浩瀚の挑戦状だった。
尚隆は声を上げて笑った。
「全く、慶はいい性格の冢宰を持ったものだ。それに陽子、お前も良い男を得たな」
あの時。
『花自身が盗まれるのを望んだら、その時はそなた、どうする?』
冷静な仮面を崩したくて戯れに放った問いに、
『有り得ません』
真っ直ぐな視線を向けて、即座にそう答えた男。
『今のあの方が慶以外を望む事など、有り得ません』
例えそれが彼の真の望みとは、異なるものだったとしても。
自分に向かってそう言い切れる男の存在が、心地好かった。
「延王、これはその……」
慌てて誤魔化そうとする陽子の眼前で、六太が笑顔でちっちっちっと指を振る。
「とっくにネタは上がってるから。言い訳しようとしても、無駄無駄」
「ついでにな、陽子。その簪釵、先刻は確かに挿していなかったぞ」
延王に駄目押しされて、慶の女王はがくりと肩を落とした。
「……浩瀚め」
「愛されてるなぁ、陽子」
「……うーっ」
六太に冷やかされながら、陽子は嫉妬深くて切れ者の恋人を呪った。
……その後の昼餉の席で、陽子が浩瀚との事を喋らされたのは言うまでもない。
<終>
2007.05.01