冬花<前>



陽子の元へ鸞が飛来したのは、午前の政務を終え、休息のため内殿の私室に戻った時だった。


銀の粒を与え軽く頭を撫でてやれば、鳥は馴染み深い明朗な男の声で簡素に用件を告げた。
曰く、夕方、申の刻に禁門を開けるよう――。

陽子は苦笑し、急ぎ宰輔と冢宰へ使いを走らせた。

   

***


一月前に一年の最後の大きな行事・収穫祭の終わった金波宮は、のんびりとした空気に包まれていた。
今年は気候も安定し、作柄も上々。
この分だと、問題なく冬を越せそうだった。

その報告を誰よりも嬉しく、またほっとした気持ちで聞いたのは陽子だった。
巷ではここ数年、景王赤子を称える声が徐々に高まってきている。

「……雪が降りそうだな」

薄暮の中、景麒と浩瀚を従え禁門への長い階段を降りながら、陽子は空を仰いだ。
どんよりした灰色の雲と、日が暮れはじめたばかりだというのに手先が凍るほどの冷気。
初雪が舞いそうだった。

「冬に備えた各地の義倉への食料と燃料の補給も、先日終了しました。雪が降る前でようございました」

浩瀚の言葉に、陽子はそうだな、と笑顔で頷いた。

「それにしても、主上」

景麒は、少し先を歩く主の背中に問いかける。

「今回の延王のご来訪の目的は、何でしょう?」
「さあ?」

陽子は、顔半分で振り返って苦笑する。

「またいつもの羽根伸ばしじゃないかと思うけど。……私も五百年治世を敷けば、頻繁に宮を出奔できる余裕ができるかな?」
「そんな所ばかり見習っていただいては、困ります」

景麒のしかめ面に、陽子は藪蛇とばかりに首を竦めた。

「だが、丁度良い時期ではあったな。先日議題に上がっていた、雁に在住する慶の荒民なんみんの件を、直接お尋ねできる」

再び浩瀚を振り返れば、冢宰は頷いて答えた。

「左様でございますね。お越しと伺い、急ぎ正式な要請の書類を作成させております。延王がお帰りの際にお持ち頂きましょう」

陽子は驚いて目を見張った。

「相変わらず、手回しがいいな」
「恐れ入ります」

慶国一冷静で有能な男は、端整な顔に微笑を浮かべ、さらりと答えた。

   

***


待ち人は、ぽつりぽつりと降り出した雪を背景にやってきた。


「よう!今日は冷えるなぁ」
「急にすまんな」

陽子は苦笑して、趨虞から降り立った大小二つの人物に軽く頭を下げた。

「ご無沙汰しております。延王、延台輔」
「半年ぶりか?尚隆とは一年半ぶり位だろ?」
「そうですね。ところで、今日はどんなご用向きで?」

寒い寒いと騒ぐ六太を先導しつつ陽子が尋ねれば、

「遊びに来た」

あっさりと、予想通りの答えが返ってきた。
雁の麒麟ははやおら指を二本立てて、陽子に示す。

「二か月だぞ?」
「はい?」
「二か月間、閉じ込められていたんだ。玄英宮に、じゃない。私室と執務室とその間の廊下以外、足を踏み入れる事すら出来なかったんだ。それもこれも、このバカ殿がっ!」

六太は振り返って、己の主を睨みつけた。

「『馬鹿』はお前の字だと思ったが?」

それまで黙って後ろを歩いていた尚隆が、面白そうに言う。

「うるさい!お前が黙ってひと月も宮を空けやがるからだっ!お陰で仕事はたまるし、俺までグルだと思われて、こいつ帰って来た後は、官達に軟禁されて仕事を手伝わされるし。言っとくけど、俺は自分の仕事はそこそここなしてたんだぜ?」
「……それはお気の毒でした」


それ以上何も言えない。
言う言葉がない。

それにしても、ひと月も行方不明になる王も王なら、仕事をさせるためとはいえ王や台輔を軟禁する官も官だ。
……やはり、玄英宮の官吏は恐ろしい。

「陽子は絶対、こんな奴の真似すんなよ」

六太が言えば、彼の隣を歩く景麒も無言で同意を示す。
陽子は苦笑するしかなかった。

「そんなこんなで、昨日やっとたまってた仕事が全部終わったんだ。で、久しぶりにここに遊びに来ようかと思ったら、こいつに見つかって付いてきちまった。ごめんな」

自国の王を犬か何かのように言う隣国の麒麟に、陽子は振り返って彼の主に問いかける。


「延王、反論なさらないんですか?」
「まあ、全て本当の事だからな」

大国の王は悪びれもせず、そうのたまった。

「六太に逃げられれば、今度は俺が同じ目に遭うからな。陽子に会うのも久しぶりだし、付いて来た」
「俺はお前みたいに、ひと月もほっつき回ったりしねーよ!」

噛みつく六太に、尚隆はただ大きく笑った。

   

***


「慶も今年は豊作だったようだな」

はらりはらりと降る雪の中、陽子、六太、景麒に遅れゆっくり階段を登りながら、尚隆は更に数歩後ろを歩く慶国の冢宰に話しかけた。

「はい。ここ数年の気候の安定が、ようやく作物の実りに結びついてきました」
「お前達も苦労が報われたな。陽子もさぞかし安堵した事だろう」
「恐れ入ります」

階段の所々には、明かり取りの灯明が据えられている。
その光に揺らぐ陽子の背を目で追いながら、尚隆は独り言のように呟いた。

「……しばらく見ない内に、随分と女らしくなった」

浩瀚は尚隆の横顔を仰ぎ見た。

「雁で拾った時には、痩せっぽちの少年にしか見えなかったが……」

凛とした立ち居は変わらないものの、纏う雰囲気にどことなくあの頃にはなかった円やかさを感じる。

「やっと心に余裕ができたのか、或いは……」

顔だけで振り返り、浩瀚を見下ろす。

「蕾を咲かせた者が、いるのか」

浩瀚は微笑みを浮かべたまま、何も答えない。
尚隆はそんな男をしばらく見つめ、やがて笑って前を向いた。

「何にせよ、咲き初めの花というのは初々しさがあって、美しいものだな。……だが困ったものだ。昔からの気性でな、他人が活けた花を見ると……」

低い、だがよく通る声が、浩瀚の耳朶を打つ。

「おのれの好みに、活け直してみたくなる」

一瞬、周りの音が途絶えた気がした。

「……お戯れを」
「さて。戯れと思うか?」

口元に浮かんだ笑みはそのまま。
だが視線は、前を行く少女に強く絡んでいる。
それを見る浩瀚の心の底に、ざらりとした不快感が広がった。

「……かの緋色の花は、慶が待ち望んだ至宝でございます。無粋な花盗人は、慶国中の怨嗟を買いましょう」
「ほう、民の為と抜かすか」
「御意」

顔色一つ変えずに言い切った男に、尚隆は肩を竦めた。

「慶国の冢宰は、五百歳過ぎのうちの官と同じ位、面の皮が厚い」
「恐れ入ります」
「だが……」

再び面白そうな声音になって、延王は問うた。

「花自身が盗まれるのを望んだら……その時はお前、どうする?」

   

***


部屋に落ち着き湯茶で体を暖めると、まず慶が懸案としていた荒民問題が話し合われた。
雁慶両首脳の間であらかた合意が纏まったのは、半刻ほど後だった。

その間、浩瀚は表にこそ出さなかったが、かなり苦々しい思いを味わっていた。

原因は、言わずと知れた延王だった。
彼の陽子に対する視線、さりげなく衣や手の甲に触れる様、全てが浩瀚の神経を逆撫でした。
しまいには、彼の戯れ言に笑い声を上げる陽子にすら苛立った。

――一体、どうして分かったのか……。

陽子が『少女』から『女』になった事。
それ自体は、気付く者がいてもおかしくない。
姿形は変わらねど、少女は近頃所作の端々に、以前には無かった艶を纏うようになった。
分かる者には一目で分かるだろう。

だが……その恋の相手が冢宰であることは、金波宮でもほんの一握りの人間しか知らない。

しかし、延王はその事実をはっきり知っているらしい。
知った上で、浩瀚に対して宣戦布告をしてるのだ。
浩瀚の表に出さない苛立ちにも、かの王は間違いなく気付いているだろう。

「よし、じゃあこれで堅苦しい話は終りだな!」

うーん、と伸びをしながら六太が話を締めくくった。

「ありがとうございました。骨休めにいらしたのに、無粋な話を申し訳ありませんでした」

陽子は女御を呼ぶと、酒宴の用意を命じた。

「なに、急に押しかけて来たのはこっちだからな。滞在費と思えば安いものだ。それに、これでここに来た事がばれても、もっともそうな理由が付く」

尚隆の答えに、陽子は呆れた。

「悪戯をごまかそうとする子供みたいですね」
「うちの官は、とにかく怒ると怖いからなぁ」

脇から六太が真面目な顔で同意した。
その時、女御の一人が浩瀚に言伝を持ってきた。
春官長が彼を探していると言う。

「……では、私はこれで」

いつになく後ろ髪を引かれる思いで、浩瀚は立ち上がった。

「うん、ありがとう浩瀚。では後の手続きを宜しく頼む」
「畏まりました」

彼の気持ちを知らぬ主は、笑顔で告げる。
それが、限られた人にしか見せない柔らかい笑顔……例えば、友人の女御や女史と話す時や、浩瀚と二人きりで過ごす時の、おそらく陽子の素に近い表情だという事に、彼女自身気付いているのだろうか?

心の中で、昏い感情が、ぞろりとざわめく。

浩瀚が立ち上がると同時に、景麒も暇乞いを求めた。
州宰府に仕事を残していると言う。
面白そうに自分を見つめている延王の視線を感じる。

――私は……。

かの王の視線を避けるように跪礼して身を翻すと、浩瀚は微かに唇を噛んだ。

――私は、延王に嫉妬している。

陽子と同じ立場で助言できる彼に。
蓬莱という共通の世界を持っている彼に。
いとも容易く陽子の笑顔を引き出す、彼に。

――何と浅ましい…。

だが、一度意識した妬心は容易には消えず、常と変わらぬ怜悧な仮面の下で、浩瀚の心を荒れさせたのだった。




                                                                            <続>


 

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