逢引



蒼く澄んだ空に、細い細い半月が掛かっている。

深夜。
金波宮の奥深く、王の寝起きする正寝は、静寂に包まれていた。
主に仕える女御逹も寝静まり、時折聞こえてくるのはか細い秋の虫の音のみ。
明かりも、警護のために回廊と園林に所々点されてはいるが、それだけであった。

――いや、それだけである筈だった。

目指した場所に、あるべきではない、だが思った通りの明かりを見つけ、男は小さくため息をついた……。

   

***


「こんな時間まで、何をしておいでですか」
「……っ!浩瀚」

突然背後からかけられた声に、陽子は文字通り飛び上がった。

「主上におかれましては、ただ今のお時間はご就寝なさっておられる筈では?」

書庫の入り口に立ってこちらを見ていたのは、この慶東国の冢宰・浩瀚。
一度邸に下がったのか、見慣れた官服ではなく朽葉色の私服を纏ったその姿は、常よりも華やかで若々しく見える。

が、しかし。

――怒っている……。

口元に微笑をたたえてはいるが、目が笑っていない。
それを見て取って、陽子は読んでいた冊子を無意識に夜着の後ろに隠した。

「その……今日の太師の講義で、ちょっと分からないところがあって、調べていたんだ。あと、文字の勉強を少し……」
老師せんせいに叱られた従弟でしのように身を縮めて告げる陽子に、浩瀚は今度は心からの苦笑を浮かべると、側へと歩み寄った。

「分からない事をご自分でお調べになる心掛けはご立派ですが、それは日課の勉学のお時間になさいませ。文字の勉強もです。例え神籍にあろうとも、毎晩このように過ごされてはお体に障ります」

陽子は近付いてくる冢宰を見つめ、目を見張った。

「……気付いてたのか?」
「ここひと月余り、少々お元気がないとは思っておりました。そこへ側付きの女御が心配して報告に来たのですよ」
「……鈴だな。口止めしたのに」
「焦る必要はございません」

ついと陽子が目を上げた。
その翡翠の双眸を静かに受け止めて、浩瀚は続けた。

「主上には、これからまだたくさんのお時間がございます。じっくりお進めなさいませ。心配なさらずとも、主上は確実に進歩なさっておられますよ」

陽子は知っている。
この冢宰は、主に対して心にもない世辞など言わない人物だ。
だからこそ、彼の言葉は信用できた。
その賛辞が嬉しかった。
陽子の不安と焦りを理解してくれているのが、心強かった。

「ありがとう」

陽子の顔に、花が綻ぶような鮮やかな笑みが広がった。
一瞬、周りの空気までもが色付いた気がした。

――これが王気か。

実際麒麟の見る王気がどのようなものなのか、浩瀚には分からない。
だが、時折触れる陽子の美しく圧倒的な『気』に、もしかしたらこのようなものかもしれないと思う。

目の前の少女にあって、自分には無いもの。
それゆえに、惹かれずにはいられないもの。

浩瀚は、朽葉の薄衣の下に重ねた鈍青の衣を抜き取ると、陽子の両肩に掛けた。

「すっかり冷えておられますね」

浩瀚の言葉で、陽子は今更ながら薄い夜着一枚の自分の格好に気付いた。
異性の前に立つには、かなり問題のある姿だ。
彼にはもっとあられもない姿も見られてはいるが……それとこれとは別である。
陽子の頬に、羞恥の色が昇った。

「……ありがと」

俯いて羽織った衣をかき合わせると、浩瀚の香の匂いがした。
そんな陽子の動揺を知ってか知らずか……いや、間違いなく知った上でだろうが……浩瀚は、彼女の手を取りそっと口付けた。

「手足もこんなに……。お風邪を召されては大事。ふつつかながら、拙めが暖めましょう」
「ちょっ……!浩瀚!」

抵抗する間もなかった。
ひょいっと膝裏をすくわれ、気付けば陽子は浩瀚に抱え上げられていた。

「浩瀚!」

恥ずかしがって暴れる少女に頓着せず、浩瀚は書庫の灯を消し、王の臥室へ向かって歩き出した。

「主上。あまり大声を出されますと、女御達が目を覚ましますよ」

耳元で囁かれたその一言で、陽子はぴたりと動きを止めた。

「主上の事を相談に来た時、鈴が申しておりました」
「……何て?」

至近距離に迫った浩瀚の瞳にどぎまぎしながら、陽子は尋ねた。

鈴は、にっこり笑って言ったそうだ。

『これ以上、夜に書庫に籠って体を壊される位なら、浩瀚様が毎晩陽子の元へ通って下さった方がマシですわ。浩瀚様がお越しになると、陽子はよく眠れるようですから』

陽子の頬が、夜目にも分かるくらい赤く染まった。
そんな主の顔を引き寄せ、素早く唇を盗むと、浩瀚はさらりと告げた。

「最近はお疲れのご様子でしたのでご遠慮申し上げておりましたが、鈴の言葉もございますし、これからは毎晩お伺いいたしましょうか」
「浩瀚何を……!…んっ…!」

抗議の声は、浩瀚の降らす甘やかな接吻の嵐の中で徐々に弱まっていく。

「これは、主上への罰でございますよ」

臥室の扉を開け中へ入りながら、浩瀚は腕の中の少女に囁いた。

「……罰?」

潤んだ瞳を開いて、陽子が問い返す。

「そうです。私ではなく、書庫と逢引した罰です」



夜の静寂に陽子の小さな笑いが広がり……臥室の扉は、二人の姿を飲み込みゆっくりと閉まった。




                                                                          <終>

                                                                             2007.05.01

初書きの浩陽でした。
今読み返すと設定としておかしな所も多々あるのですが
いじると収拾つかなくなりそうだったので(汗)、殆どそのままでUPしています。
主上が随分可愛い性格になってます…。

 

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