- *
- 12kingdomes
- *
- 秋・逢引 >>
夏至祭
先刻後にした正殿から、またひときわ大きな歓声が上がった。
それらの賑やかな声に顔を綻ばせながら、陽子はほろ酔い加減で正寝へ向かっていた。
今日は夏至。
一年で一番長い太陽を迎える祭祀を執り行なう事から、陽子の一日は始まった。
その後、各地から来る諸侯との面談、堯天での行事への臨席、そして沈みゆく太陽を前に行う日没の祭祀と、とかく目が回るほど忙しかった。
そうして、最後の日の光が消えると共に始まるのが夏至の宴だ。
開放的な季節のためか、雲上でも地上でも一年の内で一番賑やかに盛り上がるのが、この宴だった。
陽子は半刻ほど宴に臨席した後、景麒と共に退席してきた。
王と台輔が居なくなり、宴は今から本当の無礼講になるのだ。
正寝へ戻り、女御達の介添えで盛装を脱ぎ捨てると、陽子は彼女達に声を掛けた。
「私は寝る。今日はもうみんな下がっていいよ」
「ですが……」
戸惑う女御達に、陽子は微笑んだ。
「せっかくの夏至なんだから。お前達も楽しんでおいで」
夏至は、恋人や家族など大切な人達と祝う日でもある。
蓬莱のクリスマスのような側面もあるのだ。
主の言葉に、女御達は迷うように顔を見合わせていたが、やがて
――彼は……無理だろうな。
明かりの消えた臥室の中で、脳裏に浮かぶのはすらりとした痩身の恋人の姿。
だが、彼はこの慶国で一番忙しい人物だ。
特に、今日は。
現に陽子が退出する時も、彼は杯を傾けながら、間断なく指示を仰ぎに来る下官達をさばいていた。
本当は今日、彼を誘って行きたい所があったのだけど……。
――仕方がない。一人で行こう。
四半刻後、陽子は臥室を抜け出し、こっそりと園林へ降り立った。
***
いくつかの
草をかき分け目的地に向かう彼女を避けるように、蛍が淡い光を放ちながらふわりふわりと飛んでゆく。
その数は歩を進めるごとに増えてゆき、中空から照らす宵待月の明かりと相まって、辺りは夜とは思えないほど明るかった。
目指す小川のほとりまで来て、陽子は足を止めた。
群舞となって飛び交う光の中、佇む人影があった。
「相変わらず、ここは大変な蛍の数ですね」
「……浩瀚」
「そろそろおいでになる頃かと」
目を見張る主に、浩瀚は微笑を浮かべて手を差しのべた。
自然にその手を取り近寄れば、浩瀚は先の宴の盛装のままであった。
「驚いた。仕事はもう終わったのか?」
「はい。後は下官達に任せてきました。折角の無礼講の宴、いつまでも冢宰が顔を出していては、他の官も羽を伸ばしにくいでしょう」
「違いない。特に、いくら呑んでも酔いも乱れもしない冢宰となればな」
陽子の明るい笑い声に驚いたように、蛍が方々に散ってゆく。
浩瀚は握った手を更に引き寄せ陽子を座らせると、背後から抱きしめた。
「浩瀚……」
戸惑った声を上げたのも束の間。
すぐに体の力を抜くと、包まれた腕に身を任せる。
柔らかな布の感触と浩瀚の体温、そして香の香りに、心がじわじわと満たされていく。
「本日は朝早くから大変でいらしたでしょう。お疲れではないですか?」
「少しだけ。でも苦にはならなかった。嬉しかったから」
「と、おっしゃると?」
「民が……皆が喜んでいるのを間近で見れたから」
目の前の蛍の群舞に目を細めながら、少女は答える。
確かに、為政者にとって民の笑顔は何にも勝る報酬だ。
浩瀚は、王という務めに対する少女の真摯な気持ちに、微笑ましさを感じた。
「夏至祭も年々賑やかになって参りました。秋の収穫も、主上の登極直後に比べれば飛躍的な伸びよう。全て主上のご尽力の賜物でございましょう」
「そして、冢宰閣下はじめ有能な官達のお陰だ」
くすくすと笑いながら、陽子が続ける。
「ここの蛍も、去年より数が多いような気がするな」
「左様ですね」
「そう言えば……どうして私がここに来ると分かったんだ?」
半身をひねって背後の男を仰ぎ見れば、
「王気が指し示しておりましたから」
さらりと答えられて、陽子は目を丸くする。
浩瀚は微笑を浮かべた。
「冗談ですよ」
「……びっくりした。浩瀚が言うと、本当に見えているんじゃないかと思ってしまう」
腕の中に収まった緋色の髪を梳きながら、浩瀚は種明かしをした。
「今日宴の中で、春官長と蛍の話をしておられましたね?その後しばらく宙を御覧になって、最後に私の方へ目を向けられた。それでこの場所を思い出されているのだろうと」
「……それだけで?」
唖然として、陽子は思わず聞き返した。
確かに、この蛍の群生地は去年偶然陽子が見つけて、浩瀚を連れてきた場所だ。
春官長との会話の中でこの場所を思い出したのも事実。
だが。
あの時、陽子の記憶が正しければ、浩瀚は少し離れた場所で下官に何やら指示を出していた筈だ。
そんな中、陽子と春官長の会話を拾い、なおかつその後の陽子の様子を見ていたなんて……。
それも、陽子自身全く覚えがない行動まで。
……やはりただ者ではない。
だが当のご本人は当然とばかりに頷いた。
「主上はお考えになる事がすぐお顔に出ますゆえ、それだけで十分でございました。更に申し上げれば、思い付かれたら恐らく今夜の内に実行なさるだろうと」
「うーっ……」
全く、返す言葉がない。
それが悔しくて、恥ずかしくて、陽子は俯いて唸り声を上げた。
頬が心なし熱くなる。
そんな主の様子に、浩瀚の微笑が深くなった。
「私は主上の事は何一つ見逃しません。ただ……」
「ただ?」
耳元でため息を漏らされ、陽子は顔を上げた。
「今日、一つだけ目測違いだったのは、この蛍見にお誘い頂けなかった事です。きっとお声が掛かると自惚れていたのですが。こうして図々しく押しかけてしまいましたが、やはりお邪魔でございましたか?」
「そんな事、あるわけないだろう!」
くるりと振り返り男を睨みつければ、相手は涼しい顔で微笑んでいる。
嵌められた……と思った時には、既に遅く。
続きを促す瞳に抗い切れず、陽子は上気した頬を隠すようにそっぽを向いた。
「本当は、浩瀚とこうして二人で見たかったんだ。でもお前は忙しそうだったし、疲れてもいるだろうと思って……誘えなかったんだ」
言い募る少女の頬にそっと触れ、浩瀚は囁く。
「主上にお付き合いする時間がないほど忙しかった事など、ございませんよ」
「嘘つけ。今日だって、一日中呑まず食わず休息なしだったくせに」
陽子ですら、今日はほとんど休む間がなかったのだ。
夏至祭の実質の采配者である浩瀚がそれ以上に忙しかったのは、火を見るより明らかだった。
「さて。元々食欲はあまり感じない質ですので、苦にはなりませんが……。そうですね、そう言われれば小腹が空いているような……」
「やっぱり!女御をつかまえて、何か作ってもらおうか?」
「いいえ」
今にも駆け出して行きそうな少女を引き寄せると、浩瀚は素早くその体を草の上に横たえた。
「えっ……ちょっ、浩瀚!」
慌てる主を見下ろし、冢宰は端整な顔に微笑みを浮かべた。
「それよりも主上を頂ければ、身も心も満たされるのですが」
「お前は、いつもそんな事ばかり言って……!」
腕の中から逃れようとしたが、遅過ぎた。
優しい、だが有無を言わせぬ深い接吻をされ、更に耳を咬まれ、首筋を舐められる頃には、陽子の体から抵抗する力は抜け落ち、すっかり弛緩していた。
「どうやらお許し頂けたようで。恐悦至極でございます」
「……許して……ないっ!」
しれっと告げた浩瀚を睨み付け、頬を染め涙ぐんだ陽子が、弱々しい抗議の声を上げる。
「おや、そうですか?」
「そうだ!浩瀚の馬鹿……意地悪……」
言葉と裏腹に、すがりついてくる少女が愛しくて。
浩瀚は赤い睫毛に縁取られた目尻の涙を舐め取ると、月と蛍の光に照らされた少女の首筋に、ゆっくりと顔を埋めた……。
***
夏至の翌日。
前日の祭気分の抜け切らぬ金波宮は、どこか気怠い雰囲気に包まれていた。
その中を一人、常と変わらぬ爽やかな気配をまとった冢宰が進む。
いつも通りに朝議に出席し、冢宰府で急ぎの事務処理をこなし、まったくいつも通りに主の待つ内殿の執務室へ伺候する所であった。
冢宰府の諸官や廊下で擦れ違う官は皆、そんな冢宰の様子を感嘆と尊敬の念をもって見つめ、やがて自身も背筋を伸ばすと各々の仕事へと戻っていった。
執務室の前に到着すると、ちょうど中から出てきた女史の祥瓊と行き会った。
供手する祥瓊の傍らを通り過ぎようとした浩瀚は、控え目な声で呼び止められた。
「閣下、小官よりひとつお願いの儀がございます」
「何だね、祥瓊」
「外でお休みになる時は、主上のお召し物に注意を払って下さいませ。衣に付いた草の汁は、案外落ちないものですので」
「………気をつけよう」
動揺の欠片もない、平静な声。
祥瓊も至って真面目な顔で「お願いします」とだけ告げ、冢宰の前を辞した。
慶国随一の切れ者を数瞬絶句させたことに、内心勝利の喝采を上げながら…。
祥瓊の上機嫌は、その日一日中続いた。
<終>
2007.05.01