桜花惜別 <中>
禅譲の報を、浩瀚は獄中で聞いた。
王の不興を買い、官位剥奪の上、投獄されて半年。
あの時から……いや、それより以前から、この日が近付いている事は分かっていた。
だがそれでも、衝撃は思った以上に浩瀚の心を揺らした。
辛うじて表情を保ち、視線を伏せる事で動揺を隠した彼に、報せを運んできた大司寇は続けた。
「禅譲前に勅命がございました。『白雉が鳴いたら、浩瀚に渡せ』と……」
目の前に差し出された文書箱。
王にしか許されぬ結び目で封印されたそれを、肉の落ちた手で愛しげに一撫でし、浩瀚は静かに飾り紐を引いた。
納められていた詔は、半ば覚悟していた、だが最も浩瀚が望まぬものだった。
冢宰への復位と、仮朝の統率。
「お引き受けいただけましょうか」
静かな大司寇の声に、浩瀚は顔を上げた。
「中身を知っていたのか」
「主上が……前王が、これをお渡しになる時に仰せになりました」
そして、深く頭を下げた。
「前王のみならず、これは六官全ての意志でございます……浩瀚様、どうか復廷を。仮朝を支えていくには、浩瀚様のお力が必要なのです」
浩瀚は大司寇から詔に目を戻した。
女性にしてはやや骨太の、懐かしい手跡。
それを丁寧に畳むと、浩瀚は静かに立ち上がった。
「主上が、それをお望みならば」
***
カタン―――。
そばで聞こえた物音に、浩瀚は淀みなく走らせていた筆を止めた。
顔を上げると、灯りを提げた下官が気付き、一揖する。
薄暗くなっていた堂内に、火を入れに来たのだ。
――そういえば、先刻入室を許可したのだったか。
以前には考えられぬ自身の記憶の欠落ぶりに、思わず失笑が洩れた。
浩瀚は再び筆を進め始めたが、一度途切れてしまった集中力はなかなか戻らなかった。
それでも暫く苦闘したが、やがてため息を付いて諦めると、席を立った。
堂室と回廊を区切る衝立を回り込むと、眼前に暮れかけた冢宰府の園林が広がった。
日がそろそろ落ちようとしている時刻。
それでも一瞬眩しさを感じたのは、一日中執務室に篭っていたせいだ。
王が斃れ、台輔が床に伏している今、仮朝を支える浩瀚の仕事量は半端ではなかった。
だがその忙しさを、浩瀚は進んで受け入れていた。
半端な空白の時間は、浩瀚にとりとめのない悔恨と慕情の波を突き付けるものでしかなかった。
視線を投げた先、薄灰色に沈む園林の一角に、桜の古木があった。
満開を過ぎた桜は、そよ風にも反応し、はらはらと花びらを散らしていた。
――蓬莱ではね、桜は満開だけではなくて散り際も愛でられていた。
幹に手を当て、嬉しそうにその木を仰いでいた少女の姿が甦る。
――散り際の潔さと切なさが、武士……武官に好まれていたらしい。私も、散る時はこの桜のようにありたいものだ。
――主上……。
――ああ、冗談だ。そんなに睨まないでくれ。
――例えご冗談でも、そのような事、お口になさらないで下さい。
――判った判った。だが……理由や理屈は抜きにしても、とにかく綺麗だと思わないか。
あの時の、穏やかな少女の顔。
そのように寛いだ表情を見なくなったのは。
彼女が、進んで城下に降りようとしなくなったのは。
親しい友人達と、微妙に距離を置き始めたのは。
共寝の時、夜中に目を開け、じっと宙を見つめるようになったのは。
こみ上げてくる想いに、浩瀚は顔を覆った。
気付いていた。
分かっていた。
手をこまねいていた訳ではない。
彼も周囲の人々も、あらゆる手段を講じたのだ。
だが、それでも。
止める事は出来なかった。
彼女の心に巣食った空虚な闇に、自分は勝てなかったのだ……。
顔を覆った手の甲に、さらっと何かが触れた。
一瞬吹いた強い風に飛ばされた桜の花びらが一枚、掠めて落ちたのだ。
その感触に、浩瀚の意識は立ち戻った。
――ああ……。
呼吸を整え、浩瀚は顔を上げた。
少しでも気を抜けば、心は直ぐに過去へと飛ぶ。
だが今はまだ、後悔に浸り現実を放棄する訳にはいかなかった。
仮朝を支え、次王に継ぐ事。
それが彼女の最後の命だというなら、自分はそれを成し遂げねばならない。
――ですが『次王を支えよ』とは、仰いませんでしたね。
分かっておられたのかもしれない。
例え勅命であっても、自分がそれだけは受け入れぬだろうと。
次の景王が立ったら、野に下ると決めていた。
それが、王を支えきれなかった冢宰としての、また情人としての引き際だと思っていた。
――それとも……次王には渡せぬと、そう思って下さったのですか。
投げかけた問いに答えてくれる人は、もういない。
さらさらと雪のように散る桜に背を向け、浩瀚は堂室へと戻った。
下官が台輔の命を携えて来たのは、それから間もなくの事だった。