桜花惜別おうかせきべつ<後>



仁重殿の台輔の私室の前で、浩瀚は参上を告げた。
短い許可の言葉に従い入室すると、そのまま深く一揖する。

人払いされた堂室。
臥牀に半身を起こしていた景麒が、浩瀚の方へ顔を向ける気配がした。

「忙しい中、呼び立てて済まぬ」
「いえ」

面を上げよ――静かな声に、浩瀚は溜めていた息をそっと吐き出すと、礼を解いた。

王が斃れてから、景麒と会うのは初めてだった。
お痩せになった、と思う。
元々色白の肌は、傍らに点された明かりをもってしてもなお青白く、 体の周りに散った白金の鬣には、艶が無かった。
仁重殿からの報告で、景麒が意識を取り戻したのは知っていた。
だが同時に、あと数日は心身共絶対の安静が必要だという黄医の診断ももたらされており、浩瀚は仁重殿への参内を控えていた。

――いや、そうではない。

己の心の内を鑑みて、思う。
本当は、この神獣に会いたくなかったのだ。

女王の半身であった麒麟。
彼と自分の間には、常に彼女が居た。
互いの存在は、彼女の不在を否が応なく突きつける。
そしてそれは、彼にとっても同様の筈だった。

「お加減は……如何でございますか?」
「大事ない、とは言えぬ。だが、少しずつ回復している」

淡々とした口調で、景麒は続けた。

「望まぬとはいえ、あの方に生かされた命だ。養生せねばなるまい」
「台輔……」
「主上は……」

景麒が宙を仰いだ。

「主上は、麦のようなお方だと思っていた」
「………」
「大地に根を張り、踏まれても自力で起き上がって天へ伸びる……そんな、しなやかな強さを持った方だと」

だが、と言って、景麒は唇を湿らせた。

「その強さに……私は甘え過ぎていたのかもしれない……」

景麒の独白に、浩瀚はそっと目を伏せた。

「……それは、台輔ばかりではございません」

晩年の彼女は、朝を導く牽引力と柔軟な精神を併せもった、正に理想の王であった。
国内は安定し、慶は達王以来と言われる安寧を得た。
だが……傍目に全くの順風満帆であったがゆえに、彼女の内奥を、疑いを持って推し量る者は居なかったのだ。
最も近しい筈の――半身と、情人でさえ。

彼等がそれに気付いた時、 既に事態は、取り返しのつかないところまで進んでいた……。

「……我々は、同じ過ちを犯した」

呟いた景麒の声は、僅かに掠れていた。

「その過ちゆえに、何より大切な、かけがえのないお方を失ってしまった……」
「……はい」

振り向いた紫の瞳が、浩瀚を捉える。
そこに浮かぶ、痛みを堪えるような、何かに耐えているような気配に、浩瀚は驚いた。

「台輔?」
「……これは、愚かな我々へ突きつけられた、贖罪なのかもしれない」

さらりと衣擦れの音がして。
臥牀から降り立った景麒は、浩瀚の前に崩れるように叩頭した。

***


「……何、を……」

床に散らばった金髪。
僅かに覗いた白いうなじ

目の前の光景が、理解できなかった。

「……台輔。何をなさっておいでです。たちの悪い冗談は、お止め下さい」

遠くから聞こえる男の声。
これは本当に、自分の声なのだろうか。

「冗談ではない。天命は下された。そなたが次の景王だ、浩瀚……いえ、浩瀚様」
「台輔っ!」

叫ぶように遮る。

「私は官吏です。示されたものを実現させる能力はあっても、新たなものを生み出すことは出来ません!そのような王がおりましょうか」
「だが天帝は……そんな貴方をお選びになったのだ」
「馬鹿な!」

かつて無いほど乱暴に、浩瀚は吐き捨てた。

「前王の踏襲しか出来ない新王に、何の価値があるというのです!?」
「……それでも」

景麒の頭が、のろのろと上がる。

「それでも、貴方が新王なのだ」

無慈悲な宣告と共に、紫の瞳から涙が零れ落ちる。

「天に向け、何故だと……大声で叫んで問い糾したいのは、私も同じだ。だが、天がそれに答えることは無い。ならば……」

床に付いた両手が、ぎゅっと握られた。

「ならばせめて……私は、新王と共にあの方が築いたものを守りたい」
「台輔……」

縋る様に見上げてくる紫の瞳の中に、男が映っている。
震える手を必死に押さえる、哀れな男の姿。

「どうか、天意をお受け下さい。民と……あの方のお心を、救うために」

視線が緩み、金の頭が再び床に沈む。

「……ここに、天命をもって主上にお迎えいたします」

***


叩頭する麒麟から目をそらし、浩瀚は宙を仰いだ。

幹に寄り添い、桜を見上げていた彼女。
緋色の髪を揺らし、笑顔で大きく手を振っていた姿。
凛とした目線。
怒った顔、照れた顔、泣きそうな顔。
預けられた身体の重み。
柔らかな頬……。

瞼を閉じればいとも容易く思い描ける、その鮮やかで愛おしい姿。

そして……。

――なぁ、浩瀚。ここは……慶は、美しいな。

さざなみのように青い稲が揺れる中。
沈んでいく夕日を魅入られたように眺めながら、かつて告げられた言葉。

――この景色を、私はずっと守っていきたい。

光に陰影を付けられた横顔に、笑みを刻んで。

――浩瀚、覚えていてくれ。私がそう願った事を。いつか私がそれを忘れる日がきても、お前が……。

耳に残る彼女の声。
女王としての命ではなく、 己が全てを捧げ、また求めた少女が、ただ一途に願ったもの。

――主上……。

宙を見上げ、そっと目を開く。
こらえ切れなかった涙が一筋、頬を伝って落ちた。

――それが、貴方の望みなのですか……?

嬉しそうな笑い声が、聞こえた気がした。

足元に蹲る景麒に視線を戻して。
浩瀚は小さく息を吸い込んだ―――。




                                                                          <終>


                                                                      2009.03.31

今回のお話は、
『浩陽前提で、浩瀚にとって一番辛い状況とはどんなものか?』と考えた結果出来たお話です。
(我ながら酷い命題・笑)
閣下の場合、もちろん陽子に先立たれるのが何より辛いと思うのですが、
更に『追う事を許されない』のが一番堪えるのかなぁと。

 

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