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- 桜花惜別・中 >>
注:
末世物です。自己責任でご覧下さい。
桜花惜別 <前>
うす暗い荒野の中を、さ迷っていた。
***
――ここは、どこだ。
周囲を見回して、ふと記憶を刺激される。
かつて見た事のある風景だった。
崩れた家屋。
荒れ果てた田畑。
木の幹に残った、妖獣の爪跡……。
――黄海?いや……。
短い思考の末に答えを引き出し、背筋が凍った。
黄海ではなかった。
――ここは……慶、だ。
「主上……」
思わず声が出た。
「主上!皆も……何処にいる?民はっ、慶の民は何処へ行った!?」
一度口を開くと止まらなかった。
震える声を張り上げて、闇雲に荒野を駆け出す。
「主上!主上っ!」
駆けながら、縋るように主を呼んだ。
体の均衡を失ったような、不安定さと心細さ。
ひりひりした焦燥に駆り立てられるように、ただひたすら駆けた。
そうして――どれほど走っただろう。
息が上がり、足を緩めた時だった。
『………き』
遠くから、微かな呼び声がした。
「主上!」
聞き間違える筈が無かった。
それは確かに、唯一の主の声だった。
「主上!
『こっちだ……』
女にしては低音の、柔らかな声。
長く馴染んだその声が聞こえてくる方に首を巡らせれば、そこには深い森が現出していた。
「ああ……」
重なった木々の奥で揺らめく、暖かな光。
「主上……そこにおられたのですね」
仄かに赤い光の中に王の存在を感じ、身の内が歓喜に満たされる。
『そのような所で迷っていてはいけないよ……おいで…こっちだ』
「はい」
先刻までの心の渇きは消えていた。
浮き立つような気持ちを抑えて、光の方へと踏み出す。
『さあ、おいで……』
「はい、主上。今、お側に」
周りが、光に満たされた。
***
ゆらりと、空気が動いた。
それを感じると同時に、水底から掬い取られるように意識が覚醒する。
――暗い……。
夢の残滓に捕らわれていた景麒は、目を開き、まずそう思った。
先刻まで、眩しいほどの光に包まれていたというのに。
ぼんやりと宙を見上げていると、自分を覗き込む一対の目に気付いた。
「――台輔」
呼ばれて、焦点を合わせる。
皺に埋もれた小さな目。
景麒の侍医だった。
「お気づきになられましたか」
嗄れた呟きに、彼の背後がざわめいた。
安堵のため息。
女達のすすり泣き。
囁き声。
常ならば静かな私室に、何故こんなにも人がいるのか。
景麒の疑問を読み取ったように、黄医はゆっくりと言った。
「台輔は……失道の病に臥しておられました。特にこの三日は、意識の無い状態であらせられ……」
老人の言葉に、景麒は目を見張った。
それと同時に、くっきりと記憶が立ち戻る。
「……ああ……」
地上から感じる、民の呻き。
官の、暗く怯えた顔。
病からくる体の痛み。
そして何より……苦しげに歪んだ、主の顔……。
「……主上、は」
黄医は目を伏せ、首を振った。
確かめるまでもない。
主の魂が既にこの世に存在せぬ事は、誰より景麒が分かっていた。
「……私は、また遺されたのか……」
景麒の呟きに、堂室内のすすり泣きが一層大きくなった。
この喪失感。
病とは違う、身を、心を、無理矢理もがれたような鈍い痛み。
こんなものを味わうのは二度とごめんだと、そう思っていたのに。
「台輔」
脈を取っていた黄医の手が、そっと離れた。
「主上……先王より、お言葉を預かっております」
景麒はゆっくりと首を倒し、臥牀から一歩下がり深く頭を垂れた黄医を見下ろした。
「蓬山に赴かれる前、王はこちらにお寄りになりました。お側に控えていた拙に、台輔がお目覚めになったら伝えるように、と」
「……主上は、何と仰せになったのだ」
「『生きよ』と。『生きて必ず次王を選べ』と……」
黄医の言葉に、景麒は堪らず目を閉じた。
瞼の裏が熱くなる。
「………最期まで、何と残酷なお方か……」
そんな半端な理性など捨てて、いっそ自分を連れて行ってくれたらどんなに幸せだったろう。
「恐れながら申し上げます」
黄医の背後、居並んだ官の一人が声を発した。
景麒も知る、赤楽王朝初期からの官の一人だった。
「どうかこの慶に……新たな王をお授け下さい」
震えを帯びた言葉に、景麒の頬がぴくりと動いた。
――私には、主上を偲ぶ僅かな時間も与えられぬのか。
一瞬膨らんだ怒りは、だが次の言葉で萎んだ。
「天命を失ったは、主上だけの咎ではございません。お止め出来なかった拙等にも責がございます。どうか 新王と共に慶を建て直す機会を。それこそが……長く治世を敷かれた主上へ、せめて報いる道……」
広がる嗚咽。
景麒は改めて、跪いた人々を見やった。
かつて麒麟に対しての礼は、叩頭礼と決まっていた。
だが今の慶において、それは史実として語られるのみ。
初勅で伏礼を廃した当初、戸惑いぎこちなく跪拝していた官吏達は、今や景麒に対しても躊躇い無く跪拝の
染み付いた習慣が抜け、新たな常識が根付く程の長い長い間、かの王はこの国を治めていた。
そう、何も残らなかった訳ではない。
無駄であった訳ではない。
王朝の末期は荒れる事が多く、王はすべからく民の怨嗟の中で斃れる。
主においても、それは例外ではなかった。
だがそれでも。
俯き、肩を震わせる人々に、景麒は思う。
彼女は確かに、深く慕われていたのだ……。
「……天命がいつ下るかは判らぬ。だが、新王が判れば直ぐ伝えよう。それまで仮朝をしっかり支えるよう」
「はっ……!」
「……少し、休みたい」
人々が下がっていく気配を感じながら、景麒は天蓋を見上げた。
――主上。
脳裏に浮かぶのは、鮮やかな緋色の王気を纏った少女。
――貴女の為に己を責める官がまだ身近に居るというのに……何故、蓬山になど向かわれたのですか。
近年は諍いを繰り返し、最後は彼女の身から漂う恨みと血臭に、近寄る事すら出来なかった。
だがそれでも、景麒にとっては大切な慕わしい主だった。
禅譲より、改めて民意を汲み取り、やり直して欲しかった。
しかし一方で、判ってもいた。
熟れた果実が、ゆっくりと腐乱していくように、 いつからか身の内に宿った暗く凝った何かに、彼女が侵されてしまっている事を。
そして彼女自身、それを自覚していた事も……。
国も己も、もう元には戻れない――そう見切りをつけたから、彼女は蓬山に向かったのだろう。
これ以上、国を、民を、傷付ける前に。
まだ良官が残っている、今の内に、と。
――そういう大胆な決断力だけは、昔から変わっておられない。
思わず浮かんだ苦笑は、すぐに歪んだ。
――主上……。
痩せた手を上げ、顔を覆う。
もう二度と……いくら望んでも、もう二度と……その姿を目にすることも、王気に触れることも叶わないのだ……。
指の間を伝い落ちた涙が、臥牀に触れたその時だった。
じんと頭の奥が痺れたかと思うと、一瞬で脳裏が白く焼けた。
びくりと体が跳ね、景麒は、かっと目を見開いた。
「……馬鹿な」
この感覚……この気配は……。
手が、震える。
涙が、とめどなく溢れてくる。
「……天帝よ。これが、貴方のご意思だと仰るのですか……?」
押し出すような切ない呟きに応える者は無く。
景麒は唇を噛み締め、洩れそうになる嗚咽を必死に堪えた……。