邂逅<中>



役第やくしょに突き出されたくなくば、このまま去れ」

突如現れた若い男に、文姫を囲んだ男達はいきり立った。

「手前には関係ねぇ。すっこんでろ!」

残りの二人も、懐から小刀を抜いて、闖入者を睨み付ける。
男達の注意が完全に逸れた一瞬を、文姫は見逃さなかった。
背後の壁を蹴る勢いで駆け出して、男達の囲いをすり抜ける。

「あっ!待て!」

彼らが気付いて声を上げた時には、既に彼女は助けに入った男の元へと辿り着いていた。

「さて」

文姫を背中に庇い、男はにやりと笑った。
ゆっくりと抜かれた剣が、きらりと陽光に反射する。

「これからどうする?このまま去るか?それとも……力尽くで奪い返すか?」

先程までの面倒臭そうな態度は霧散していた。
代わりに、その場を圧するような覇気が広がる。
眠っていた虎が目を覚ました――そんな迫力に、男達はもちろん文姫すら、気圧されて無意識に一歩下がった。

――この人、何?

ただ、抜いただけなのに。
なまじ剣を遣えるだけに、文姫には判ってしまう。
自分との、圧倒的な力量の差。
相対したら、絶対に勝てないだろう。

「……っ!」

男達も、相手を睨み付けたままその場に固まった。
喧嘩慣れした無頼漢だ。
本能的に相手の力を推し量る術を知っている筈だった。
しばし続いた無言のやりとりに先に音を上げたのは、男達の方だった。

「くそっ……!」

悔しそうに相手を睨み付けたまま、じりっと後ずさる。

「畜生。覚えてやがれっ!」

いつの時代も変わりばえのしない捨て台詞を残し、男達はとうとう身を翻した。
去っていく派手な着物の背中に向かい、男は肩を竦めて呟いた。

「悪いな。覚えておれる自信は、ちょっと無いぞ」



「ありがとうございました」

男達の姿が消えたところで、文姫は目の前に立つ広い背中に向かって礼を言った。
剣を納めた男は、振り返ると面白そうな表情で文姫を見下ろした。
先程垣間見せた恐ろしいほどの覇気は、消えていた。

「どうやら、余計な手出しだったようだがな」

そう言った男の視線は、真っ直ぐに文姫の袖口に向けられていた。
正確には、袖口に仕込んである小刀のある辺りだ。
男達を引き寄せ不意を突こうとしていた文姫の作戦は、どうやら見抜かれているようだった。

「いいえ。大ごとにしたくなかったから、助かりました」

一時、軍にまで所属していた酔狂な兄ほどではないが、文姫も剣や護身の術にはそれなりに長けていて、大概の危険は自力で排除できる。
だが、相手が多くなればなるほど、また腕が立てば立つほど、余裕がなくなり相手を傷付ける可能性が高くなるのも事実だ。
人は、殺したくなかった。

「供はつけておらんのか」

袖から目を離して文姫の全身を一瞥し、男が言った。

「見たところ地元の人間ではないようだが。多少腕が立つにしても、見知らぬ土地で女一人とは、無用心だな」
「全く知らない街じゃないから、少し油断したみたい」

にこりと笑んで、文姫は男を見上げた。

「私は文姫。貴方は?」
「風漢だ。言ったそばから無用心な奴だな。初めて会った男には、もっと警戒するものだぞ」

呆れた口調の相手に、文姫は小首を傾げて告げた。

「花街の白粉おしろいの残り香をぷんぷんさせている男の人が凶暴になる事って、あまり無いかなって思って」

緑柱の館にいた事を指摘され、風漢と名乗った男は微かに目を見張った後、笑い出した。

「なるほどな。だが、老婆心ついでにもうひとつ言わせてもらうと、さっきみたいな時は、反対側に走るべきだと思うぞ」
「反対側?」
「連中から逃れて、なぜ俺の方に来た?ああいう時はさっさとこの場から逃げるべきだろうが」

今度は文姫が目を見張った。

「助けてくれた人にお礼も言わずに?そんなのおかしいわ」

心底不思議そうな少女に、風漢は再びくつくつと笑った。

「世間慣れしているのかしていないのか分からん奴だな。……まあ、いい」

歩き出した男は、笑みの残る顔で文姫を振り返った。

「街へ戻るのだろう?まだ連中がその辺りにいるやもしれん。乗りかかった船だ。舎館やどまで、用心棒の真似事をしてやろう」

だが少女は、ちょっと困った顔をして首を振った。

「ご親切はありがたいんだけど……実は舎館に戻る前に、行きたい所があって」

風漢は片眉を上げた。

「もしや、例の泉か?」
「ええ、そう。……って、あら?もしかして風漢も泉を見に来た口?」
「まあな」
「じゃあちょうど良かったわ!」

目を輝かせて、文姫は手を打った。

「今から一緒に見に行きましょうよ!」
「いや、俺は明日にでものんびり行くつもりでな……」
「まだ日は高いし、善は急げって言うじゃない。さあさあ、行きましょ!」

黒髪を揺らし既に歩き出した少女の背中に、風漢は苦笑した。
彼が付いて来ない事など、考えてもいないらしい。

「……これはさっきの連中より性質たちの悪いものに捕まったやもしれんな……」

ぼやきに被さるように、少女の声が彼を呼ぶ。

「風漢、早くー!」
「やれやれ……」

肩を竦めると、風漢は仕方なく歩き出した。

***


二人は大路に戻り、そこから申門へと向かった。
門をくぐり暫く進むと、由鏡をぐるりと囲む山々の麓に辿り着く。
そこから四半刻も山道を登った所に、噂の泉があるという。
騎獣を連れた者は、門を出る際、一人一人門卒もんばんに呼び止められていた。
道幅の関係で、泉に行く者はここから先、騎獣を連れて行く事は出来ないそうだ。

「風漢は、どこから来たの?」

山に続くだけの街道でもない道は、確かに広くはなかった。
三々五々、同じ目的地に向かう人々に続いて歩きながら、文姫は隣の偉丈夫に問いかけた。
どこか只者ではない匂いのするこの男に、非常に興味があった。

「雁だ」
「雁!私も何度か関弓に行ったことがあるわ。とっても活気があって良い街よね。胎果の王様が治めていらっしゃるだけあって、どこか蓬莱風で」
「……そうか?」
「そうよ。住んでる人には、案外分からないかもしれないけれど」

北の大国・雁は、先年現王在位四百年を祝う式典が行われたばかりだった。
稀代の名君と名高い延王の治世はますますの安定を見せ、更に百年は保つだろうと噂されている。

「それにしても、変わった泉があるってだけで、雁からわざわざ見物に来るなんて……風漢も物好きなのね」

遠慮のないもの言いに、風漢は苦笑した。
だが、不思議と悪い気はしない。

「好奇心が強くてな。あちこちの国を見聞しているんだ」
「……それって、ただの風来坊じゃない?」
「まあ、そう言う奴もいる」

悪びれもせずのたまった男を、文姫はじっと見上げた。

「何だ?」
「…あまり、おうちの人を心配させちゃ駄目よ」
「うちの連中はあまり心配したりはせんだろうが……まぁ、忘れられる前には、帰るようにしている」

どうした、と問い返した風漢に、文姫は首を振った。

「ちょっと、人ごととは思えなかったから、つい」
「ほう?」

風漢は自分の肩ほどまでしかない少女を、興味深そうに見下ろした。

「で、お前はどうなんだ、文姫」
「私?」
「湯の湧く泉は確かに珍しいが、わざわざ遠方から一人で見に来るほど、若い女の興味を引くとは思えんのだが」

風漢の方も、このどこか訳ありな少女に興味を持っていた。
見たところ、やっと正丁になったばかりという年頃か。
手入れされた髪や指先、服装から、それなりにいい暮らしをしていることは察せられる。
だが、世知を知らぬ箱入りという訳でもないらしい。

最初に見た時は、商家のむすめかと思った。
だが、玄人の様に袖の内に刀を仕込んだ商人というのは、聞いたことがない。
また、先刻無頼漢に囲まれた時も、普通だったらとにかく逃げる事を考えるのではなかろうか。
だが彼女は、あえて男達を刀の届く間合いに引き寄せて隙を突こうとしていた。
片手間に護身を習った素人では、出来ない判断だ。
さりとて武人と断ずるには、警戒心が無さ過ぎる。
つまり、印象がひどくちぐはぐなのだ。

――面白い。

だから、彼にしては珍しく少女の提案に乗って、泉に付き合う事にしたのだ。

「……ああ」

男の問いに、文姫は小首を傾げて言葉を捜した。

「前回のお上の調査で、例の泉の周りにちょっと変わった薬草が生えてるって噂で聞いたから、見に来たの」
「ほう。お前の家は薬屋か?」
「いいえ。家業に全く関係ないとも言えないけど……これは私の趣味よ」

冬官の報告書を読んだ時から、文姫はこの泉にひどく興味をそそられていた。
泉そのものは元より、近辺の植物に関する報告に引っかかったのだ。
いずれ直接見に行こうと思っている、と父母に告げたところ、じゃあついでにと、市場や泉の管理状態の視察を頼まれた。
それが今回の微行おしのびなのだ。

「そう言えば…」

前方に視線を投げて、風漢が呟いた。

「奏は医術と薬草研究が発達しているのだったな。何でも、宗王の公主が薬草に非常に詳しいとか」
「そうね」

表情も歩調も変えぬまま、文姫はさらりと同意した。
だが、内心、隣の男に対する疑問がますます深まった。

奏の医療の分野で、文姫の存在は割と有名だ。
朝が落ち着いた頃から趣味で始めた薬草の採集と研究だが、四百年以上に渡ってこつこつと蓄積された研究成果は、奏の瘍医達の間でそれなりに役立っていると自負している。
だが、それでも国外に伝わる程の名声がある訳ではない。
なのに……医術と関係なさそうなこの雁の風来坊が、なぜそんな事を知っているのだろう?
出会って初めて、文姫はこの風漢という男に、警戒心を持った。

だが。

彼女の歩調に合わせて歩く男の横顔を横目で見上げた途端、何だか一気に馬鹿らしくなった。
時折欠伸をしたり、伸びてきた髭を引っ張っりながらだらだらと歩く男は、先刻の身の竦むような覇気を漂わせた人物と同一とは、とても思えなかった。

そうだ、文姫を害するつもりなら、もうとっくにそうしているはずだ。

「何だ?」

少女がくすりと笑ったのに気付き、風漢は振り返った。

「ううん。ただ、風漢って変わってるなって思って」
「何だそれは」

何でもない、と答えながら、文姫はしばらく一人で笑い続けた。



山道にさしかかった途端、ひやりと空気が冷える。
木の生い茂った登りの道は、平地の明るさに慣れた目には少し暗かった。
ところどころ木や石で補強されている他は、手を加えられていない山道。
元来は地元の民が猟や山菜の採集でしか使っていない道だったのだろう。
道幅も、人二人がやっと並べる程しかない。
そこを今、泉見物の老若男女がぞろぞろと登っていく。
時折、上から降りてくる人もいるので、自然に人々は一列になって歩くことになる。

文姫が小さく『あら?』と声を上げたのは、何人目かの降りてくる人とすれ違った時だった。

「どうした?」

文姫の前を歩いていた風漢が振り返る。

「今の人……何か変わった匂いが……」
「ああ……中にはそういうのもあるな」

事も無げに放たれた言葉を理解するのに、しばらくかかった。

「…風漢。『中には』って……他にも知ってるの?こういう、湯の湧く泉の事」
「ああ」

風漢が答えるのと、文姫が彼の袖を掴んだのは同時だった。
突然背後に引っ張られる形となった風漢は、危うく均衡を崩しかけた。

「おい、急に引っ張るな。危ないだろう」

だが文姫は、それに構っている余裕は無かった。

「知ってるなら教えて!何で水じゃなくて湯が湧くの?天変地異の前触れ?それとも失道と関係があるの?」
「落ち着け、文姫」

胸倉を掴んで迫る少女を抱きとめて、風漢は苦笑した。

「ほれ、後ろが詰まっている」

二人が立ち止まったせいで、後に続く人々が進むに進めなくなっていた。
風漢は文姫ごと山よりに身を寄せて、後ろの男に身振りで先に行くよう伝えた。
すれ違いざま、笑いながらぴゅっと口笛を鳴らされる。
その音で、文姫は我に返った。

「あ、ごめんなさい、風漢」

そう謝って、慌てて男から体を離す。

「どうも誤解されちゃったようね、私達」
「まあ、さっきのあの体勢ではな」

女に抱きつかれるのはいつでも大歓迎だがな、と笑った男に、文姫はため息を付いた。

「……何か風漢って……」
「ん?」
「時々、本当にあの人に似てるのよね……」
「ほう、誰だ。お前のいい人か?」
「いいえ。どうしようもなく困った、家族の一人よ。……って、それはいいとして、風漢!さっきの話!」
「ああ……」

再び登りの列に混ざりながら、風漢は続けた。

「焦らす訳ではないがな。それに答えるのは、実物を見てからにしたい。俺が知っているものと同じかどうか、この目で見てみないと確信できんのだ。何せ本物なら……こちらでは初めてお目にかかるものだからな」
「えっ?」

最後の一言は、風漢の足音に紛れて、聞き取れなかった。

「いや、何でもない。……ああ、もう少しのようだ」

文姫は顔を上げ、男の指差す先を見上げた。
山道の遥か先、木々の間から、白い煙が立ち上っていた。




 

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