由鏡は捏造地名です。
――ちょっと、まずい事になったわね……。
人気のない、細い路地。
周りを取り囲んだ男達を見回して、少女は冷静に考えた。
――久しぶりの下界で、少し油断したかしら。
さて、どうしよう。
自分に伸びてくる手を見ながら、少女は決断を迫られていた――。
邂逅<前>
現宗王の治世五百年を誇る南の大国・奏。
赤海に張り出すように広がるその街は、残る三方をぐるりと緑の山々で取り囲まれていた。
その山肌に沿うように、今、一頭の騎獣が緩やかに街に向かって降りていく。
海からの潮風を受けて飛ぶ吉量を操るのは、一人の小柄な少女だった。
「
乱れる黒髪を押さえながら、少女は眼下に見える山の麓……由鏡の門前の広場を指差した。
吉量は彼女の言葉を理解したらしい。
小さく一度羽ばたくと、広場を目指して降下の速度を増した。
「すごい賑いねぇ……」
卯門の外、煉瓦の敷き詰められた広場の隅で吉量から降りた少女は、感心したように周りを見回した。
隣国・才への定期便が出入りするここ由鏡は、奏の中でも古くから栄えた港町だ。
一日の決まった場所代さえ納めれば、門が閉じるまでの間、誰でも簡易の店が構えられるこの門外の屋台群も、近隣の港町に比べ、賑やかな事で知られる。
だがそれでも、ここまで店が並んだのを見たのは初めてだった。
広場の四分の三程を占める、様々な屋台。
それを覗き込みながら歩く、老若男女の群れ。
地元の人間や行商人ももちろんいるが、中には明らかに観光と思しき人々も混じっている。
「まるでお祭り騒ぎね」
旅芸人の一座が奏でる音曲を聞きながら、少女は苦笑した。
彼女の名は、文姫。
またの名を、奏南国文姫公主という。
だが、今の彼女のいでたちから、その正体を見抜くのは難しいだろう。
長い黒髪はひとくくりにしただけで簪一つ付けておらず、身に纏った旅装束は、物は良いものの、ひどく簡素だった。
傍目には、せいぜい少し良い商家の
そして、何より昔、市井で育った文姫は、周りの人々から浮かない術を心得ていた。
「先に街に寄って正解だったわね。これじゃ、今晩泊まる舎館が埋まっちゃいそうだわ」
身を摺り寄せてくる吉量に『行こうか』と声をかけ、文姫は門に向かって歩き出した。
街の西にある贔屓の舎館は、まだ空いていた。
とりたてて上等ではないものの、房室は常に掃除が行き届き、代々厩と厩番がしっかりしているので、櫨一家がお忍びの際、愛用している舎館だった。
吉量を預ける時、並んだ厩の一つをふと覗くと、虎に似た白い巨体が寝そべっていた。
――趨虞を飼ってるような人も来ているのね……。
本当にお祭り騒ぎだ。
文姫は房室に荷物を置くと、舎館を出た。
***
『熱い泉が湧いた』
奏国は宗王が居城・清漢宮にそう報告が上がってきたのは、今から三月前の事だった。
報告を受けた清漢宮は、前代未聞の事象に色めき立った。
天変地異の前触れか、宗麟失道の兆しかと、穏かならぬ噂も飛び交う中、宗王は調査隊を編成し、由鏡へ派遣した。
冬官を中心とした調査隊は、現地に十日間滞在し泉を調べたが、その結果分かった事は、さほど多くなかった。
これがまやかしや呪の類ではなく自然現象であるらしい事、また、泉の湯が人や動物の傷などに効くらしいという事が判明したくらいだった。
『怪我をした動物達が、泉に浸かって傷を治していた』
『毎日ここで顔を洗っていた女人が、きめの細かい艶のある肌になった』
調査隊が到着した時、街では既に泉に関する様々な噂が飛び交っていた。
清漢宮の懸念とは逆に、泉を縁起よいものと捉える声が多く、中には、『王の長命を祝い、天帝が下賜なさったものに違いない』と、したり顔で言いふらす者までいた。
それらの報告を苦笑と共に受けた宗王は、特に害になるものではないと判断した。
地元の民からの要望もあり、最低限の管理を州候に一任し、当面は泉を民間に開放する事にしたのだった。
『湯の湧く泉』の噂は、瞬く間に近隣に広がり、奏国内だけではなく、近隣諸国からも見物人がやってくるようになった。
いずれ本格的な調査隊が派遣され、王の直轄地になるかもしれないとの噂もあり、『訪れるなら、今』と押しかけた人々で、現在、由鏡はこの騒ぎなのだ。
人が集まれば、物流が盛んになり、経済は活性化する。
元々由鏡は奏国の中でも交易が盛んな土地だったが、今は街全体が賑わっていた。
それが一番分かるのが、市場だった。
「お嬢ちゃん、果物を買わないかい!今朝才国から届いたばかりの甘い
「慶の一番茶、慶の一番茶だよ!今年は飛び切りの良い出来だ。買わなきゃあんた、損するよ!」
泉に向かう前に街の様子を見ようと市場に一歩踏み入れた途端、左右から一斉に威勢のいい客引きにあう。
それらを笑顔でかわし、時に値を確認しながら、文姫は市場を歩き廻った。
――品物が随分増えたわね。
市井では珍しい北の国からの輸入品も、以前よりずっと多い。
商人達がここぞとばかりに輸入を強化した結果だろう。
一方で、『物の値段が上がった』とぼやく声もあちこちで耳にした。
このままこの騒ぎが続くようなら、価格の調整が必要かもしれない。
――父様に報告しなくちゃ。
考えながら歩いていた文姫は、ふと、一軒の店先に目を留めた。
気付けば、市の中でも装飾品や骨董を扱う店が集まる一角に来ていた。
文姫の目を引いたのは、綺麗な緑の玉を連ねた
「これはお嬢様、お目が高い。こちらの連珠は範国製でございまして」
彼女が足を止めたのに気付いた店主が、揉み手をしながら近付いてきた。
「そちらも上物でございますが……連珠をお探しでしたら、お嬢様のような方には、こちらの方がよろしいかもしれません」
文姫の着物の質から上客と見抜いた店主はすかさずそう言うと、彼女を店に招じ入れ、奥から盆に乗せた連珠を持ってきた。
それは、平たく削った翡翠の表面に精緻な彫刻を施し、縒り合わせた同色の絹糸に通したものだった。
「ほら、この細かい細工をご覧下さいまし。範の本国でも滅多にお目にかかれぬ極上品ですよ」
「そうねぇ……」
文姫は店主に断って連珠を手に取り、裏にし表にし、じっくりと眺めた。
確かに、先程の連珠とは段違いに素晴らしかった。
もちろん清漢宮の御物とは比べ物にならないが、普段使う分には十分の見栄え、質がある。
買い物を目的に降りてきたわけではなかったが、正直、少し心が魅かれた。
――値段次第では、買ってもいいかも。
「昨夜入荷したばかりなのですが、ご購入をお考えの方が既に五人はいらっしゃいまして……特に、先程お越しなった方は、かなり真剣に検討しておいででした」
店主の自信に満ちた言葉も頷ける。
範国製だというのも、嘘ではないだろう。
「まあ、そう。それで、おいくらなの?」
煽り文句に乗せられた風を装って、尋ねる。
返ってきたのは、首都の隆洽で中流の堅実な商家が二月は暮らせるほどの金額だった。
――ま、大きく出たわね。
内心で文姫は苦笑した。
確かに掘り出し物だとは思うが、いくら何でもそこまで価値がある筈はない。
それでも売れると自信があるのか……或いは文姫を世間知らずと見て、吹っかけているのか。
――どちらもあるだろうけど……敢えて言うなら後者かしら。
店主の表情からそう判断すると、文姫はにっこり笑んだ。
他人から見れば邪気のかけらも無いように見える、笑顔。
だが、彼女をよく知る家族等から見れば、それは非常に危険な表情だった。
何せ、彼女が喧嘩を売る前によくする顔だったからだ。
その笑顔のまま、文姫は店主に言葉を返した。
「おじさん、それはちょっと高すぎじゃないかしら?」
戦いは、開始された。
四半刻後、
二人の喧々囂々たる値段交渉に、いつの間にか店の外には大勢の野次馬が集まっていた。
文姫と言葉を交わす度に、店主の顔は赤くなり青くなり七変化を繰り返し……最後にがくりと肩を落とした。
文姫の圧勝だった。
何も売る相手は彼女だけではない訳で、店主が『そんな値では売れない』と言えば、その時点でこの交渉は終わる筈だった。
が、それが出来なかったのは、少女の巧みな誘導に乗って、交渉の初期段階で、仕入れ値から流通経路、購入のいわくから他の購入希望者の事まで全て聞き出されていたからだった。
その上で、彼女は店主にも益の出るぎりぎりの値を提示していた。
店主はここで店を張って三十年。
商いは決して下手では無く、むしろ上手い方だと自負してた。
だが……官吏相手に五百年がかりで磨かれた文姫の交渉能力は、その比ではなかった。
「……分かった。あんたの言い値で売ろうじゃないか」
一気に老け込んだ顔でため息をつくと、店主はとうとうそう言った。
途端に店の外から、『どうした、親父!』『情けないぞー!』と野次が飛ぶ。
それを振り向きざま『うるさい!』と一喝し、もう一つ大きなため息をつく。
「全く……。顔に似合わず、怖いお嬢さんだ」
ぼそりと付け加えられた言葉に、文姫はにこりと笑って言い返した。
「人を見かけで判断すると痛い目にあうって分かって、良かったわね」
十七・八にしか見えない少女が口にすれば、ひどく生意気に聞こえる台詞だった。
だが、彼女の場合、陰にこもらないせいか多少きつい事を言っても相手から反感を買わない。
それどころか、一度争った相手も気付けばそのあと味方に変じていたりする。
兄達に、『櫨家一番の交渉上手は、文姫』と言わしめる所以だった。
今もそうだった。
交渉の時の勢いはどこへやら、店主は文姫の辛辣な言葉にも苦笑したのみで、品物を丁寧に包むと、釣銭と共に彼女に手渡した。
「はいよ。大事に使ってくれよ」
「そうするわ。ありがとう」
「お嬢さん、あんたどっから来たんだい?」
「隆洽だけど……何故?」
いつの間にか商売用の口調が解けた店主に、文姫は小首を傾げて問い返した。
「あんたが息子の嫁に来てくれたら、この店も安泰だろうと思ってね」
真面目な顔で言われ、文姫はぷっと吹き出した。
「ごめんなさい。うちも結構大きな家業があってね。私も、父様と母様のお手伝いをしているから」
「ああ、やっぱりそうかい」
「家が潰れた時は、おじさんの事を思い出すわ」
「お嬢さんなら大歓迎だ。いつでも来てくれ」
名残惜しそうな店主に笑顔で手を振って、店の前に群がった野次馬の間をすり抜け外に出ると、文姫は歩き出した。
***
違和感を感じたのは、市を出た頃だった。
誰かに見られている気がして、文姫はさりげなく背後を伺った。
だが、行き交う人々の中にそれらしき者は見当たらず、文姫は首を傾げた。
――試してみようか。
暫く同じ速度で歩いていた彼女は、突然すっと脇道に入った。
入った途端、全力で走る。
遥か後方で、慌しい足音と怒鳴り声が聞こえた気がした。
由鏡には、多少土地勘がある。
家々がせめぎ合う路地を駆け抜けて、文姫は息が続く限り走った。
やがて――完全に背後の気配が消えたのを確認して、足を緩めた。
文姫は、石壁にもたれ、荒くなった息を整えた。
「何だったのかしら……」
最初に感じた通り、どうやら尾けられていたようだ。
だが、理由が分からない。
いや、正確に言えば、尾けられる理由など、心当たりが多すぎて絞り切れなかった。
本当は、このまま例の泉に行ってみようと思っていたのだが……。
「今日は大人しく舎館に戻った方がいいかしら」
そう呟いた時だった。
突然、ばたばたっと足音がしたかと思うと、路地の先に男が一人現れた。
「いたぞ!」
まずいと思い身を翻した途端、行く手に別の男が二人、立ちふさがる。
人気の無い細い路地裏で。
文姫は男達に挟まれた。
***
石造りの大きな邸宅が左右に迫る路地。
賑やかな港から離れたこの場所は、由鏡の商人達が好んで別宅を構える一角だった。
つまり、普段人が住んでいない場合も多い訳で、現に文姫が背にした石壁からは人の暮らす気配が全く伝わってこない。
ここで叫んでみても、助けが来る確率は限りなく低そうだった。
「ねえちゃん、随分足が速いな」
文姫を追い詰めたと悟った男達は、笑みを浮かべてゆっくりと近付いてきた。
若い男達だった。
着崩れた派手な着物と、揃って放つ退廃的な雰囲気は、彼らがまともに働く人種では無い事を示していた。
「だが悪ぃな。ここいらは俺達の縄張りだ。どこに逃げようと、直ぐに分かる」
「……貴方達、誰?私に何の用かしら?」
「ねえちゃんが懐に入れてるモンにご用があるのさ。さっき、随分いい買物をしていただろう?」
――なるほど。物盗りね。
男達の目的が知れて、文姫はほっとした。
彼等の風体から、多分そうだろうとは思ってはいたが……彼女を公主と知って追って来た可能性も考えていたのだ。
その場合、無傷でこの場を切り抜けられる確率は、かなり低くなる。
だが、単なる物盗りなら話は簡単だ。
男の一人が、背後に回していた手を、ゆっくりと出す。
握られていたのは、鈍い光を放つ小刀だった。
「素直に差し出せば、命までは取らねぇよ」
「おっと、ついでに懐の残りの金子も置いてってもらおうか」
揃って笑い声を上げながら、男達は文姫を囲むように、更に近付いてきた。
――けど、ちょっとまずい事になったわね。
男達を見つめながら、文姫は冷静に考えた。
――久しぶりの下界で、少し浮かれていたかしら。
市で目立ち過ぎ、挙句、こんな所で囲まれてしまうとは。
「さあ、ねえちゃん、素直に連珠を出しな」
手の平を上下させて促す男を、文姫は睨み付けてぎゅっと身を縮めた。
その抵抗とも取れる態度に、男達の目に剣呑な光が宿る。
「……おい。あんた、痛い目をみてぇのか」
凄む男に、文姫はきっぱりと言った。
「これは、私のお金で買った私のものよ。貴方達に渡す理由はないわ」
それが彼らを挑発する事になると、分かった上での行為だった。
「この
一番近くに迫った男の手が、文姫の喉元に向かって伸ばされる。
――あと、一歩。
心の中でそっと数えた瞬間だった。
「そこまでだ」
その場に朗と響いた声に、文姫も男達も一斉に振り向いた。
彼らから少し離れた先の辻に、男が一人立っていた。
黒い髪に黒い瞳。
腰に剣を佩いた、侠客を思わせる若い偉丈夫だった。
「何だ、手前は!」
「物盗りとは、あまり感心できん商売だな」
文姫に向かって伸ばしていた手を止めて凄んだ男達に、男は無造作に結った髪を背に払いながら、面倒臭そうに言い放った。
「
と――。