邂逅<後>



白い煙に近付くにつれ、独特な匂いは徐々に強くなっていった。
霧のような煙がたなびいてくる中を更に進むと、簡易の柵と小さな小屋が見えてきた。

「あそこが入り口みたいね」
「ああ」

小屋の前には州兵が男女一人ずつ立ち、簡単な身体検査をしていた。
文姫は護身用の小刀を、風漢も腰に差していた剣を彼らに預け、柵の中へと入った。

「うわぁ……!」

立ち込める湯煙が風に流れた途端見えた景色に、文姫は思わず声を上げた。
木々が途切れてひらけた場所に、幾つもの泉が湧いていた。
大人二人が両手を繋いだ中に納まりそうなものから、十人で円を作っても足りないのではないかと思われる大きなものまで、その数、約十五。
湯の色も、透明に近かったり白く濁っていたり、様々だった。
見物の人々は、泉の縁に足を浸けたり顔を洗ったりして、それぞれ寛いでいる。

「やはり温泉だな」
「温泉?」

不思議な光景に魅入っていた文姫は、聞き慣れない言葉に首を傾げた。

「ああ。水源が地の底で熱せられて湧いてくるものでな、蓬莱では温泉と呼ばれていた。浸かったり飲用すれば、人の体にも良い」
「蓬莱……」

鸚鵡返しに呟いて、その意味に気付く。

「って……えっ?風漢、もしかして海客なの?」
「まあ、そのようなものだ」

驚く文姫を尻目に、風漢はしゃがみ込んで片手を湯にくぐらせた。

「もっとも、これだけ色々な湯質が一か所に沸いているというのは、向こうでは考えられんがな。例えばこの色と匂いなら、皮膚の病に効く筈だ。痛風にも良い。……ふむ、湯温も丁度良いか……」

言いながら立ち上がると、やおら袍を脱ぎ出した。

「風漢、ちょっ……!何してるのよ!」
「言っただろう?『浸かれば体に良い』と」

ためらいなく下履きに手をかけた男を見て、文姫は短い悲鳴を上げて背を向けた。
くつくつと低い笑い声が上がる。

「おかしな奴だな。緑の柱の意味を知っているくせに、今更男の裸のひとつやふたつ、騒ぐ事でもあるまい」
「それとこれとは別でしょう!?」

恥ずかしさに怒鳴るように返すと、笑いは更に大きくなった。
次いで、ぱしゃんと、水音がする。

「ほれ、気持ちがいいぞ。文姫も一緒にどうだ?」
「結構よっ!」
「皆も入ってみるといい」

二人の派手なやりとりを遠巻きに見ている人々に、風漢は胸まで湯に浸かりながら、上機嫌で手を振った。

「……まったく。風漢ったら信じられない!」

小さく毒づいて、文姫は気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐き出した。

――何て自由奔放に振舞う人なのかしら。

人目を憚らないにも程がある。
だが、と、文姫は思う。
彼の発する言葉は、どこか人の心に響き、それを動かす。
現に、今までせいぜい足を浸けるだけだった人々は、彼の言葉を聞いておっかなびっくり泉に入り始めた。

―――海客だからかしら。本当に変な人。

周囲を見回し肩を竦めると、文姫はゆっくりと歩き出した。

「何処へ行く?」

途端に呼び止められ、彼女は仕方なく顔半分だけ振り返った。

「周りの林の様子を見てくるわ」

元々、文姫の目的はそちらが主だ。

「そうか。俺はしばらくここに居る。あまり遠くへ行くなよ」
「分かったわ」

寛いだ様子で軽く手を上げた男に頷いて、文姫は再び歩き出した。
そして、ふと可笑しくなった。
『あまり遠くへ行くな』とは…… そんな風に言われたのは、一体何百年振りだろう?
何だか子供に戻ったようだ。
だが……不思議と嫌な気はしなかった。



湯の中で、風漢はゆっくりと四肢を伸ばした。
温泉に入った最後の記憶は、まだあの島国で『若』と呼ばれていた頃だった。
その時の記憶を思い出そうと宙を仰ぎ……やがて苦笑した。

行った事は覚えているのに、それがどういう状況でどのような場所だったのか、思い出せない。
百年、四百年といった節目の式典に臨む時より、こういう何気ない記憶の欠落を自覚する時こそ、過ぎた年月の長さが身に染みる。

――それにしても、あのむすめ……。

熱がじんわりと体に馴染んでくるのを心地よく感じながら、風漢の思考は連れとなった少女の上へと移った。
彼女と話していると、時折何かが頭の片隅を過ぎる。
何か……或いは誰か、だろうか?

――さて、それは何だろうか?

湯煙の間から日が傾きだした空を仰ぎ、風漢はゆっくりと目を閉じた。



林の中に入った途端、文姫は先刻までの一切を忘れた。

「ふうん。面白いわね……」

研究者の顔になり、周囲を見回す。
調査隊に同行した瘍医いしゃは、元々漣の生まれだった。
その彼の報告書が、文姫の目を引いたのだ。
『泉の周りで、漣でしか見かけたことのない薬草が生えていた』と。
腰を屈め、木々の根元を丹念に観察していた文姫は、瘍医の報告が間違いない事を確かめた。
奏全域でよく見かける一般的な植物に混じって、ここ南国の奏でも育たぬ筈の、極々寒さに弱い植物が自生している。
文姫は手の平を土に付けてみた。
風漢は、『水源が地の底で熱せらて湧いたもの』が『温泉』だと言っていた。

――そんなに温かくは感じないけれど……。

人間より自然に敏感な植物には、この土の下に宿っている熱が分かるのかもしれない。
文姫は懐から小さな皮の小袋を取り出すと、薬草と土を採集し始めた。



「文姫」

不意に背後から呼ばれ、文姫は飛び上がった。

「あ……風漢」

振り返ればすぐ後ろに、今日知り合ったばかりの偉丈夫が立っていた。
軽く結んだだけの黒髪からは、まだ水が滴り落ちている。
全身から、あの温泉の独特の匂いがした。

「そろそろ戻らんと、街の閉門に間に合わんぞ」
「えっ?もうそんな時刻?」

慌てて周りを見回す。
日は、最後に見た時より随分と傾き、木々に光を遮られるこの林の中では、既に目を凝らさないと手元が見えない程、暗くなっていた。
採集に夢中になっていて、全く気付かなかった。

「お前がここに来てから、優に半刻は経っているぞ」

そう笑って、風漢は文姫の手元を覗き込んだ。

「どうだ。何か見つかったか?」
「ええ。寒さに弱くて、漣でしか育たないって言われている植物や薬草をいくつか見つけたわ」
「ほう。温泉の熱源で、地中が温まっているのだな」

風漢も、文姫と同じ事を考えているようだった。

「今まで漣でしか採れなかった薬草ものだから、貴重なの。ここで採れるようになればすごく助かるわ。まあ、量は知れているでしょうけど」
「栽培すればいいだろう」

薬草を眺め、風漢は事も無げに言った。

「もう少し地の熱を得られるように、地面を掘って三方を土の壁にし、そこに植えればいい。日光を得られて、熱を逃がさないような薄布で上を覆えば、中は温暖になる。水やりの加減が難しいかもしれんが」

すらすら答える男を、文姫は驚いて見上げた。

「……農業に詳しいのね」
「北の方では、似たような事をやっているからな」
「そうなの?」

文姫も、父王をたすけて国政に五百年以上携わってきた身だ。
国の礎となる農業や工業・商業には、ある程度の知識がある。
だが、他国の事となると話は別だ。
持ち前の好奇心が疼いた。

「風漢」

街へ戻るべく歩き出しながら、文姫はにっこりと笑って促した。

「その話、もっと詳しく聞かせて」



山道を辿り由鏡の卯門へと続く平坦な道へ戻った頃には、空は青と赤の交じり合った綺麗な夕暮れ色に染まっていた。

山を降りながら、文姫は先刻の『温室栽培』――と、風漢が言っていた――について、色々と尋ねた。

「専門ではないから、あまり詳しくは知らんぞ」

矢継ぎ早な問いに苦笑しながら、それでも風漢は彼女の問いに全て答えてくれた。

「風漢って……」

ひと通りの好奇心が満たされたところで、文姫は隣を歩く背の高い男を改めて見上げた。

「ただの風来坊かと思っていたけど、案外物知りなのね」

褒められているのか貶されているのか分からない言葉に、男はくっと面白そうに口の端を上げた。

「見直して頂けたようで、恐縮する」

だが、と言って、風漢は少女の黒い瞳を見下ろした。

「ここまで言っておいて何だがな。あの辺りは宗王の直轄地になるやもしれんという話だぞ?」
「……知ってるわ。そうなったら伝手つてがあるから、役第おかみにこういう活用法があるって進言してみるつもり」
「それはまた、かなりご執心だな」

――多分。

男の低く心地よい笑い声を聞きながら、文姫はそっと思った。

風漢は、『仙』だ。

最初は、ただの海客だと思った。
彼等の保護に厚いという雁国には、多数の海客・山客が住んでおり、中にはそれぞれの知識や技を市井で教えることで生活している人も居ると聞いていた。
彼もそんな一人なのだろうと思ったのだ。

だが、話している内に気付いた。
彼の視線は、文姫のそれとよく似ている。
地にって横を眺めるものではなく、上から見渡し把握する者の、目。
仙……それも、恐らくかなり高位にいる地官とみた。

――腕が立つと言っても軍人っぽくないし。かといって侠客のように他国をうろつく地官っていうのも、変だけど。

直接聞いてみたい気もあったが、文姫自身、正直に明かせないものを抱えている身だ。
下手に突くと藪蛇になりそうだった。

幸い雁と奏は長寿国同士。
積極的に外交を行っている訳ではないが、国交状態は悪くない。
雁の官吏が一人ふらついていたかといって、特に問題視する必要もあるまい。

そう割り切って。
文姫は、風漢の正体についてそれ以上追求するのを放棄した。



「文姫」

街に戻ったら舎館やどまで送ろうと、風漢は隣を歩く小柄な少女に声をかけた。
だが、先程まで彼を質問攻めにしていた文姫は、今は何やら考えている風で、風漢の呼びかけに反応しなかった。
間近に迫った門より遥か先を眺めている無表情な横顔は、笑いながら賑やかに話していた先刻までと、ひどく異なる印象を放っていた。
子供のようでいて、そのくせ老成した大人ようにも見える顔。
それを、風漢はよく見知っていた。

――こいつは……もしかして仙なのか?

そう思い至った途端、すっと目の前の霧が晴れた気がした。

「……そうか」

そうだったのか。
見た目にそぐわぬ肝の座り方も、玄人はだしの武芸も。
仙だとすれば、全て説明が付く。
そしてその仮説は、風漢にもう一つの可能性をも気付かせた。

「何が可笑しいの?」

突然笑い出した風漢を、文姫はびっくりした目で見上げた。
その顔から、先刻一瞬だけ垣間見えた不可思議な印象は消えていた。

「いや、何でもない」

門をくぐったところで、風漢は笑いを納め、少女を振り返った。

「文姫、さっきの奴らがまだうろついているやもしれん。舎館まで送ろう。どこに取っている?」

問われた文姫は、ああ、と呟いた。

「すっかり忘れていたわ。えーっと、あっちの方の、『福楽館』っていう所なんだけど」

『奏のあの辺りで泊まるのにいい所?そうだなぁ……由鏡の『福楽館』かなぁ』
『袖にこう、薄い小刀を何本か仕込んで、投げたり接近戦で使ったりするんだ。奏では昔から女の子の護身術として使われているんだけど。うちの妹は、これの達人でね……』

名前など、当てにはならないと思っていた。
王族や有名な仙にあやかって字や名を付ける事など、良くある事だ。
だが……。

「……どうやら、相当縁がありそうだな」
「風漢?」

小さく呟いた風漢の声が聞こえたのか、少女は首を傾げた。

「……いや。奇遇だな、俺も同じ舎館だ」

言うと文姫は大きく目を見張り、 やがて嬉しそうに破顔した。

「そうね。私達、本当に縁があるみたいね」



舎館に戻り、厩の横を通った時だった。
文姫を見付け頭をすり寄せてきた吉量の頭を軽く撫でてやると、風漢が短く口笛を鳴らした。
途端に、隣の厩で白い巨体が動いた。
文姫が昼間見た趨虞だった。
風漢は懐から赤い玉を一つ取り出し、それに向けぽんと放った。
趨虞は首を廻らし宙で受け止めると、目を細め、上手そうに食べた。
気配を察した厩番が顔を出す。
が、二人を見ると肩を竦めてまた引っ込んだ。

「……あの子は風漢の趨虞?」
「そうだ」
「名前、何ていうの?」
「たまという」
「たま?変わった名前ねぇ」

その綺麗な毛並みを眺めながら、やはり彼は一介の仙ではないのだと知る。
個人で趨虞を購える者など、限られている。
だが、既に詮索する気は失せていた。
奏と雁がこれからも長生きすれば………何れ自然と判る時が来るに違いない。



その後、二人は舎館の食堂で食事を共にした。
酒盃を傾けながら、風漢は請われるままに蓬莱の話をし、文姫は薬草の変わった効能や使い方などを面白おかしく話した。
酒と食事と話を交わしながら一刻程楽しんだ後、文姫は立ち上がった。

「さて、っと。私はもう寝るわ。――今日はありがとう、風漢」
「ああ」

まだ飲む気らしい風漢は、卓に頬杖を付いたまま片手を上げた。

「また縁があれば会おう」

にっと笑った男に、文姫も笑顔で頷いた。

「そうね。おやすみなさい、風漢」

翌朝。
文姫が厩に寄ると、そこには既に『たま』の姿は無かった。

***


奏国首都隆洽山の頂点に広がる清漢宮。
その中でも、特に奥まった位置に広がる後宮の中心、典章殿。
下界から戻った文姫は、着替えを済ませると母親の堂室を訪れた。

「おや、文姫。お帰り」
「お帰りなさいませ」

顔を上げ、掛けられた声は二人分。
宗后妃明嬉と宗宰輔昭彰だった。
二人はちょうど午後のお茶を楽しんでいたようだった。

「ただいま、母様、昭彰」
「どうだったい、由鏡は?」

空いた床几に座った文姫へ、明嬉は菓子を勧めながら尋ねた。

「行った甲斐があったわ。色々分かったし、楽しかった」

生き生きと答える娘に、明嬉は笑んだ。

「そりゃあ良かった。じゃあお茶を飲みながら土産話を聞こうかね」

そう言うと、新たなお茶を淹れる為に席を立った。

「……文姫様」
「なあに、昭彰」

菓子に手を伸ばしながら目を向ければ、昭彰は銀色がかった金髪を僅かに傾げ、じっと文姫を見ていた。

「……やだ。もしかして私、昭彰に悪いものを背負ってきちゃった?」

文姫は、慌ててここ数日の己が行動を思い返した。
殺生はしていないし、恨みを買った覚えもない……多分。
由鏡の街で絡まれたあの事くらいなら、特に影響は無い筈なのだが。

「いいえ、そうではなく……」

昭彰は緩く首を振った。
次の瞬間、昭彰の口から出た言葉に、文姫は目を丸くした。

「文姫様、麒麟にお会いになりまして?」
「え?」
「ほんの微かなのですが……文姫様から麒麟の残り香を感じましたの」

その瞬間。
脳裏で、全ての歯車がかちりと音を立てて嵌った気がした。

『風漢はどこから来たの?』
『雁だ』

『もしかして、海客?』
『まあ、そんなようなものだな』

『専門ではないからな。詳しくは知らんぞ』

尋ねた事、交わした言葉が甦る。
彼は、確かに嘘を付いてはいなかった。
だが、本当の事を話してもいなかったのだ――文姫と同じように。

「昭彰」
「はい」

返事をする神獣に、文姫はにっこりと笑った。

「今の話、他の人には内緒ね?」

昭彰は不思議そうな顔をしたが、素直に『はい』と頷いた。

***


「皆に、驚く報せがある」

宗王櫨先新が家族を前にそう切り出したのは、何時ものように一家揃っての夕食を終えた後だった。
卓を囲むのは、宗麟昭彰を含め六人。
年の半分は行方知れずだと家族全員のため息と心配の種となっている卓朗君利広も、ここ数ヶ月は珍しく清漢宮を出ていない。

「驚く報せですか?一体何です?」

先新の隣で、英清君利達が首を傾げて問うた。
先新は手づから家族の茶を淹れ皆に回すと、脇の小卓に置いた封書を取り上げた。

「来年の建国を祝う式典に、延王自らお出まし下さるそうだ」

その言葉に、卓を囲む全員が目を見張った。

「……これは驚いたねぇ。今までは経費がかかるからって、お互い簡単な使節のやりとりだけで済ませていたのに」

梨剥きを再開しながら、宗后妃明嬉が言った。
先新は頷いて、湯飲みを卓に置いた。

「この度は、奏にとって特別な祝いの年だからと仰ってな」

次の年が明ければ、櫨王朝は十二国の歴史上最も長い王朝としての一歩を踏み出す。

「お父さん、この内容ですけど……」

親書に目を通していた利達は、困惑したように顔を上げた。

「おお、そうだ。わしもそれを聞こうと思っておったのだ」

利達の目が、向かいに座る弟妹に向けられる。

「お前達の事だ」
「「私?」」

利広と文姫は揃って声を上げ、顔を見合わせた。

「これに書いてあるんだ。『……わけても、卓朗君の諸国見聞の広さと、文公主の薬草への造詣の深さには、我、かねてより感心するものなり。訪朝の折には、是非再び膝を交え教えを請いたく候』と」
「『再び』って……。お前達、延王に会った事があるのかい?」

驚いた様子の明嬉に問われ、利広は、『参ったなぁ』と苦笑した。

「実は、旅先で何度か、ね。彼も腰が座らない人のようで、しょっちゅう出歩いているんですよ。最後に見たのはいつだったかなぁ。前の劉王の時、芝草で会ったのは覚えているんだけど」

利達は宙を仰いだ。

「……雁の俊敏さの理由はそこか」

先新も苦笑を洩らした。

「確かに、王自らが動いていればな」

でも、と言って、利広は隣の妹を振り返った。

「私はともかくとして、文姫まで彼を知っているとは驚いたな。どこで知り合ったんだい?」
「由鏡で」

にこにこと面白そうにこちらを見てくる次兄に、文姫は肩を竦めた。

「風漢、よね?」
「そうだよ」
「昔、初めて由鏡で温泉が湧いた時、私が見に行った事があったでしょう?あそこで会ったの。あれが『温泉』だって教えてくれたのも、実は彼なの」

その後、由鏡の温泉の半分は宗王の直轄地になり、周囲の林の一部は薬草園に改造された。

「あの時はお前、確か海客に教えてもらったと言ってなかったかい?」
「ええ、そうよ。その海客が延王だったの。……後で考えるとね」

身分についてはお互い明かさなかったのだと言った文姫に、利広が笑って頷いた。

「彼らしいね。私も、こんなにあちこちで何度も会っているのに、未だに本人から本当の名を教えてもらっていないよ」

話を聞いていた利達は首を振った。

「……何とも、破天荒なお人だな」
「いいじゃないか。知恵者だ名君だと祭り上げられてとっつきにくい人かと思っていたけど、うちの人間と実に気が合いそうじゃないか」
「会うのが楽しみになってきたな」

言葉を交わし合う三人を見ていた利広が、ぼそりと呟いた。

「会ったら、『延王君、延王君』と、思いっ切り畏まって接してやろうかな」
「……風漢の性格だと、とっても嫌がりそうだけど。……知っててやるのよね?」
「勿論」

にこりと笑った次兄はとても楽しそうで、文姫は思わず吹き出してしまった。

「何だか、風漢が可哀相になってきたわ」

――彼と会ったら……私は何を話そう?

来年の式典について話し合う家族の声を聞きながら、文姫は黒髪の飄々とした偉丈夫を思い出していた。
二百年近く経つというのに、その記憶は驚くほど鮮明に文姫の中に残っている。

きっと彼は変わっていない筈だ。
文姫を見付ければ、にっと笑って言うだろう。
『久しいな、文姫』と。
まるで、一年二年会っていないだけの知人にでも接するように。

――ああ、そうだ。

思い付いて、文姫は微笑んだ。
会ったら、まずこう言ってみよう。

『風漢、やっぱり私達、とっても縁があったわね』と――。




                                                                          <終>


                                                                      2008.10.20

愛されて育った、櫨家のおきゃんな末娘。
その実、世話好きのしっかり者。
私にとってそんなイメージがあった文姫は、『図南』で珠晶の昇山に付き合い蓬山に行った利広に対して、こう叫びました。
『ずるい、ずるいわ!あたしだって蓬山は行ったことがないのにっ』
……蓬山『は』行った事がないということは、他の国には結構行っているって事?
そこが妄想の原点となり、こんなお話になりました(笑)。

利広ほどではなくとも、ちょくちょく下界に下りてきているのなら、
ン百年の中で1回くらい、もう1人の風来坊ともこんな風に顔を合わせていたら面白いかな、と。

温泉・農業の知識は、適当かつ捏造です。
常世では、温泉、昔から普通に湧いていそうな気もしないでもないのですが(笑)。

 

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