3・浩瀚
こつんと波璃窓に何かが当たる音がし、私は書きかけの書類から顔を上げた。
冢宰府執務室。
気づけば外には既に薄暮が迫り、そろそろ下官が
私は筆を置き、窓辺へと向かった。
「やあ」
予想違わず、窓の下に立っていたのは簡素な男物の袍を纏ったこの宮の主だった。
「主上、お帰りなさいませ。……禁門から直接ここへ?」
「ああ。あそこからだと、冢宰府の正面に回るよりこちら側のほうが近いな」
思わぬ発見だ、などと呟きながら窓を越えようとする主を支えるため、手を差し出す。
ありがとう、と言って重ねられた小さな手からは、しかしそっけない程の軽さしか伝わってこなかった。
「先刻の
禁門守護の兵士に主上のお戻りを知らせるよう伝えたのは、ただ無事を確認したかったがゆえだ。
しかし、
私は一揖して答えた。
「すぐに人を介して宣州州師に連絡し、現場に急行させました。全員捕縛し、今は牢の中です」
「そうか。ご苦労だった。……それと、街道の治安についてだが」
「はい。後日、主上の御名で宣州含め各州候に治安強化の一文をお送りいただくという事でいかがでしょうか」
「そうだな。その辺りが妥当か……」
ふうっと息を吐き、榻の背へもたれた主上のご様子に、私は頬を緩めた。
「お疲れでございますか?」
「うん。少し」
「折角の息抜きが、とんだ事態になりましたね」
「視察という名の息抜きが、本当の視察になってしまったな」
だが現状が分かるのは悪い事ではない――苦笑を浮かべてそう仰せられたところで、下官が茶の用意と灯明を運んできた。
堂内の客の正体に気付いて卒倒される前に、堂の前でそれらを受け取って下がらせる。
小卓に灯明と盆を置くと、私はそのまま茶の支度にかかった。
「いずれにせよ、主上がご無事で安堵いたしました」
「私はね。けど、駆けつけた時に杖身が怪我をしていてね。命に別条はなかったが、店まで送って行ったら少し遅くなってしまった……ああ、ありがとう」
茶を供すると、喉が渇いておられたらしい主上はすぐに口をつけられ、美味しいと微笑まれた。
「その件ですが、賊の取り調べの際、事によると襲われた者達の証言が必要になってくるやもしれません」
「ああ、それなら本人達に言ってある。あとで彼等の住居と名前を伝えよう」
そこで少し首を傾げ、悪戯っぽい表情になられる。
「何なら、一部始終を見ていた私が証言するが?」
「州の秋官の寿命を縮めるような真似はおやめ下さい」
本当にやりかねないご様子に釘を刺すと、主上は、ちぇっ、つまらん、と、肩を竦めた。
少女のように小さく尖らせた唇に、一瞬視線を奪われる。
灯明の光に浮かび上がったそれは、紅の気配もないのに、まるで露を含んだ赤い花びらのように鮮やかだった。
私は意識して目を逸らし、話題を変えた。
「私も、今日は大変驚きました」
六官との有司議を終え、この執務室に戻った
扉を閉めた途端、妙な気配を感じた。
堂内にさっと目を走らせたのと、床から黒い獣の頭が浮き出たのは、ほぼ同時だった。
『翠朔様の命により、冢宰にお伝えする』
それを前置きに、獣――台輔の使令は、宣州の外れ、瑛州との境に位置する小さな街の名を上げ、そこの近くの街道にいる
私は使令から主上のご無事を確認すると、すぐさま王の護衛に戻らせ、一方で、部下を呼び宣州州師に連絡を取らせた。
「やっぱり私が直接通報するのはまずいだろうと思ってね。怪我人を放っておくわけにもいかなかったし。だから班渠を遣いに出そうと思ったんだが、あれを見ても驚かないですぐ適切な手配をしてくれそうな景麒以外の人と思った時に、一番に浮かんだのがお前だったんだ」
「――成程。台輔以外の人、と」
僅かに揶揄の色を込めて繰り返すと、だって、と、主上の表情が苦く変じた。
「景麒に言ったら班渠は私の伝言以上のお小言を持ち帰ってくるに決まっているだろう。おまけに私が帰って来た途端にやって来て『主上は日頃から危険な物事に首を突っ込み過ぎです』とか『御身の安全を如何お考えか』とかため息混じりに説教されて挙句の果てに半年は金波宮蟄居を言い渡されるに違いないんだ!」
一気に言い切った主に、私も今度は笑みを禁じ得なかった。
午に現れた使令は、最後に彼女の命として、『台輔には事を秘すように』と、念を押すのを忘れなかった。
「台輔は、主上を誰よりも親身にご心配なさっておいでなのです」
「分かっている。が、あいつは過保護に過ぎる」
切り捨てる言葉の影には、ここ数年来の鬱屈した想いがあるようだった。
この話は、長引けば長引くほど台輔に不利になりそうだった。
私はもう一度話題を変えようとして、つと躊躇した。
使令の報告を聞いてから、ずっと引っかかっていた想いが、胸に浮上していた。
「浩瀚?」
不自然に間が空いた。
どうした、というように見つめてくる翡翠の瞳に、私は、いえ、と首を振った。
「今日、もう一つ驚いた事がございます」
「何?」
私は殊更何気なく響くように、言った。
「あの時の
政務の合間に字の付け方についてご下問があったのは、もう一年程前の事だ。
その時、成り行きから主上の新たな字を考える事となり、私は『翠朔』という名を献じた。
だが、それきり再びその話が出る事はなかった――私が、それに類する話題を慎重に避けていたためだ。
だから今日まで知らなかった。
まさか本当に、主上があの時の字をお使いになっておられたとは。
「ああ、それか」
主上はふわりと微笑まれた。
「言っただろう、気に入ったって」
大輪の牡丹が綻ぶような笑顔。
そこに懸念した陰りがない事に、そっと安堵する。
「班渠に、なるべく人目につかないようにお前に伝えろとは言ったけど、万一周りに人がいたらと思って、お前にだけ分かる字を使ったんだが……よくよく考えれば、班渠を見た時点で私か景麒の遣いだという事は一目瞭然だよな」
そう笑って軽く肩を竦めると、主上は身軽く立ち上がられた。
「さて、そろそろ戻るよ。女御達が遅いと騒ぎ出す頃だ」
「はい」
当然のように窓枠に手をかけた主上を見て、帰りは回廊を使うよう進言するが、『時間が無い。見逃せ』と、一蹴された。
更に窓の下方を指されて見れば、心得たもので虎嘯がいつの間にか少し離れた場所に控えていた。
私は胸中でそっと息を吐いた。
政務ばかりでなく、こうした脱走・逃亡・省略に関しても日々手際よくなられるのはいかがなものだろう。
私の内心の嘆きを感じ取られたのか、窓枠に腰かけたまま、主上は半身をひねって悪戯っぽくこちらを見上げられた。
「こういう事をするからなのかな」
「はい?」
主上は何か続けようとし、しかしそのまま言葉を途切らせた。
「主上?」
主上は表情を隠すように、つと
だが、私は一瞬見てしまった。
その、暗くうち沈んだ表情を。
「今日助けた人、な」
「はい」
「堯天の妓楼の楼主だったんだ。あそこの近くから、子どもを引き取って帰る途中だった」
「左様でしたか」
何を憂いておいでなのか、察しがついた。
だが私が口を開くより先に、主上は再び微笑を浮かべて振り返られた。
「その楼主がな、別れる寸前まで私を男だと勘違いしていたんだ。まぁ下界に行く時は大概こういうなりだし、男だと思われた方が色々都合がいいから、わざとそう見えるようにふるまう事も多いけど、まさかああいう人達にまで間違われるとはな、って。正直少し複雑な気分だ」
言って、軽く肩を竦められる。
「今まで、男に見られるのは半分は字のせいかもって思っていたんだ。……ほら、『翠朔』って男でも女でも通用する字だろう?もちろん私はそこが気に入っているんだが……けど、そもそも字は関係なく、何より私のこういう行動が原因なんだろうかと、まぁ今更ながら悟った次第だ」
お心の内を占めているであろう憂いに気づかぬふりをして、私はその軽口に乗った。
「では日頃の行いをお改めいただけますか?常より襦裙をお召しになり相応に振舞っていただければ、女御達初め喜ぶ者も多いと存じますが」
「それは無理だ。これ以上襦裙を着る日が増えたら、私のすとれす発散の相手となる禁軍左将軍の身の安全は保障できないからな」
即座に返し、明るさの戻った笑い声を立てた主上は、しかしすぐにそれを納めた。
「けど、浩瀚は……」
「はい?」
堂内の灯が揺らめき、陰影が一瞬主上の横顔を隠した。
「……お前も、やはり襦裙を着た方がいいと思うか?」
問いの意図を推し量りながら、私は落ち着いて答えた。
「たしかに、主上の艶やかなお姿を拝見できますのはこの上ない喜びでございますが……どんなお姿をしていようと、主上は主上でございますれば」
お好きなようになさいませ――。
言外にそう伝えれば、翠の瞳にちらりと笑みが走った。
「模範的回答だ。我が冢宰殿」
そして我に返ったように、む、時間が無いんだった、と、呟くと、『では浩瀚、また明日』と一言残し、主上はするりと窓から滑り降りられた。
***
虎嘯と共に去っていく赤い髪が庭院の薄闇に溶けて消えるまで、私はそれを見送っていた。
「模範的回答、か……」
窓枠に背中を預け、静寂が戻った庭院を眺める。
『どんなお姿をしていようと、主上は主上』――そう申し上げた意味を、きっと主上は取り違えておられる。
だがそれで良い。
一年前のあの時、私は過ちを犯した。
決して見せるつもりのなかった想いを、一瞬だけ吐露してしまった。
勘の鋭い主上がはっと息を呑まれた事で、私は自らの失態に気づいた。
が、その意味まで悟られる事がなかったのは、そしてそれを忘れて下さったのは、私にとって幸いだった。
そう、たとえ男装をなさっていようと襤褸をまとっておられようと、私はあの方を男だと間違えたりはしない。
なぜなら私の目にあの方は、誰よりも『女』として映るのだから――。
小さな手の感触が残る右手を握りしめ、私はしばし目を閉じた。
***
この日以降、主上は私に対し、しばしば『翠朔』という字を使われるようになった。
それは私的な書簡だったり、今回のように下界にいる時の言伝だったりした。
雲上の人間が殆ど知らぬその名を使ったやりとりは、どこか秘密めいており。
時を経る毎に、少しずつ私の心を揺らしていったのだった――。