2・陽子



そのことを思い出したのは、偶然だった。
政務中に読んでいた文書の中に、共にその話題に興じた友人の名の一文字を見つけたためだった。

「なぁ、浩瀚。ひとつ聞きたいのだが」
「はい」

御璽を押して渡した書類を相手が確認するのを待って、私は声をかけた。

「『浩瀚』というのは、誰が付けたあざななんだ?」

てっきり政務についての質問だと思っていたのだろう。
瞬き一つ分の空白を挟んで、浩瀚は答えた。

「昔……松塾におりました時、気づいたら周りからそう呼ばれておりました。その後、己が志も込めて字とした次第ですが」

――それが何か?

視線だけで問うてくる相手に、私は笑って肩を竦めた。

「いや、大した話ではないんだ。この前、祥瓊と字の話をしていてね。『祥瓊』というのが、両親から付けられたのではなく、今浩瀚が言ったみたいに、誰からともなくそう呼ばれるようになった字だと聞いて、ちょっと驚いたんだ。字って、基本親が付けるものだと思っていたから」

私にも官が付けた『赤子』という字がある。
だがそれは、私がこちらの親が分からぬ胎果であり、また王という立場もあったから他者が付けたのだろうと思っていたのだ。
そう言うと、気楽な雑話の類と分かったのだろう、浩瀚も目元をわずかに綻ばせて頷いた。

「親が付けるのは、主に名と小字でございますね。もちろん、字も親が付ける場合がございますが、自分で選んで付けたり、私や祥瓊のように、人にそう呼ばれる内に本人もそれを名乗るようになった、という例も多いかと存じます」
「ふーん。だいぶ慣れたと思っていたが、やっぱり名前関係はややこしいなぁ」

思わずぼやくと、琥珀色の涼やかな瞳にさっきよりはっきりとした笑みが浮かんだ。
それを見て、私は自分が子どもみたいな愚痴を零した事に気づいた。
政務から離れて接する時、浩瀚は時々こうした顔をする。
まるで年の離れた子どもを見守るような表情。
それを見ると、いつも私は胸が痛むような、落ち着かない気持ちになる。

ふと、浩瀚の視線の色が変わった。

「恐れながら、主上におかれましても堯天したで御名を問われる機会がおありかと存じますが……そういう時にはどう名乗っておられるのですか?」
「だいたい本名だな。そのまま『陽子』と」
「……左様でございますか」

一瞬何とも言えない表情をした男を見て、私はおかしくなった。

「浩瀚も、祥瓊と同じような顔をする。彼女にも同じ事を聞かれたんだ。本名だと答えたら、何だか複雑そうな顔をされた」

そう指摘すると、浩瀚はまた僅かに微笑んだ。

「別に、本名を名乗るのが悪いというわけではないのですが……私も昔気質のせいか、不特定の相手に本名を呼ばれるのはいささか抵抗があるものでして」
「浩瀚が昔気質だと自称する方が、私はよっぽど抵抗があるが」
「主上をはじめ、あまたの才気溢れる若人が集うこの赤楽王朝においては、年齢的に考えても立派に老臣の範疇かと」
「……老獪という意味では、たしかに」
「お褒めを賜り、恐悦に存じます」

ぽろりと漏らした本音に、浩瀚が目を細め再び微笑を見せる。
だがこれは、先刻の笑みとは違う。
形通りに受け取ってはいけない笑顔だ。
危うきに近寄ってはならない。
私は慌てて話題を戻した。

「そもそも字自体に慣れていないんだよな、私は。『赤子』と言われても自分の名前とは思えないし。わざわざ偽名を名乗っているようで落ち着かないんだ。人の字は気にならないんだが」

要は、最初にどの名で知り合うかという話だと分かってはいるのだが。
浩瀚も元の態度に戻り、頷いた。

「字を用いない文化から見れば、成程そうお思いになられるやもしれませんね。これは私見でございますが……こちらでは蓬莱に比べ『名』の扱いが非常に重いのではないかと」
「『名』の扱い?」
「はい」

問い返しながら、私は懐かしい気持ちになった。
以前はよく、政務の合間にこうして浩瀚や景麒からこちらの常識などを教えてもらったものだ。
生活も仕事も、ある程度自分で理解できるようになった最近では、さすがにそんな機会も減っていたが。

「『名』はその人固有のもの。ゆえに本質を顕すと申します。名を呼ばれるという事は、ある意味、相手に自分の全てを握られるのと同義なのです。そんな自分の芯となるものを親しくない人にまで晒したくない。だが、日常生活では名が無いのは至極不便なもの。それゆえ呼び名として字が生まれたのでしょう」
「成程……そういえば景麒も言っていたな。妖魔を使令に下す時、それが内包する名を呼び、折伏するのだと」

思い出しながら呟くと、浩瀚も頷いた。

「名が本質、というのは、妖魔にとっては人以上に強固なことわりなのやもしれません」
「そうだな」
「ご納得いただけましたら、主上におかれましても今後は是非、字をお使い下さい」
「は?」

急転した話に、私は間抜けな声を上げた。
浩瀚は秀麗な顔に落ち着き払った微笑を浮かべて答えた。

「恐れながら、祥瓊もそう申し上げたのではございませんか?」
「……よく分かったな。『親しくない人にまで名で呼ばせるな。字を使え』って。けど、本名を名乗る場合もあるんだろう?じゃあ私もそれでいいじゃないかって言ったんだが……『あなたの場合は字の方がいいのっ!』ってその一点張りで、理由も教えてくれない」

浩瀚は小さく頷いた。

「先刻申し上げた通り、名というのは人の本質たれば、それを呼ぶのが許されるのは、本来親や身内、もしくは主君や目上の者に限られます」
「うん」

浩瀚はそれだけ言って、私を見つめる。
理解を問われているのは分かるが、残念ながら今の説明だけでは私が字を使わねばならぬ理由は把握できなかった。

「それで?」

仕方なく首をかしげて促せば、苦笑と共に、つまり、と、言葉が補われる。

「私も祥瓊も、敬愛するお方が為人ひととなりも分からぬ人物に名で呼ばれるのは耐えがたいのです」

発言の内容を理解するまで、暫くかかった。

――何だか今、すごく恥ずかしい事をさらりと言われなかったか?

「これからは、堯天でお名乗りになる時は字をお使い下さいませ」

むやみに百官の妬心を煽らぬよう是非お願い申し上げますと、わざわざ礼まで取って念を押され、私は肩を竦めた。

「大袈裟過ぎるよ、浩瀚は」
「事実でございます。主上には、御身を慕う官の心を今少しご理解下さい」

やれやれ、どうやらこの話題は藪蛇だったようだ。
だが、敬愛云々は冗談としても、この世界の約束事や習慣について、煩そうでいて実はあまり煩く言わない浩瀚がここまで主張する時は聞き入れておいた方が良いと、今までの経験から分かっている。

しかし、このまま折れるのは何だか癪だった。
一矢報いる気持ちで、私は思いついた事を口にした。

「じゃあさ、浩瀚が考えてくれ、私の字」

その瞬間の浩瀚の顔は、ちょっとした見ものだった。
不意を突かれ、それを咄嗟に繕えない状態というのは、この男にしてはかなり珍しい。
それに気を良くして、私は続けた。

「私では適当な字が思いつかないからな。あ、でも『赤子』は却下。自分で名乗るのはさすがに気が進まないし、以前一度堯天で使ったら、髪を見た上でぎょっとされた」
「――確かに。王や著名な仙の場合、名より字の方が世間一般には知れ渡るものですからね」

小癪にももう立ち直った浩瀚は、微笑を浮かべ、ですが、と、続けた。

「私ごときが主上に字を差し上げるのは恐れ多い事です。ご自分に合うと思われるものを、ゆっくりお考え下さい」
「人が勝手に付けた呼び名を自分の字にする事も多いのだろう?じゃあいいじゃないか」
「そういうわけには参りません」

私は卓に頬杖を付いて、丁寧に拒絶を重ねる相手を悪戯っぽく見上げた。

最終手段ちょくれいを出した方が良い?」
「主上がこのような児戯に王としての大切な権をお使いになどならないと、拙めは信じております」

うっすらと冷たさを帯びた浩瀚の声に、思わず首を竦めた。
くわばらくわばら。
これ以上同じ手で主張すれば、本気で怒らせてしまう。

「では、私はこれで」
「浩瀚」

気圧された隙に下がろうとした男を、私は立ち上がって呼びとめた。

「その……どうしても、駄目?」

ふざけた態度は捨ててまっすぐ問うと、浩瀚はぴたりと動きを止めた。

「浩瀚なら知識も深いし、私の事もよく知っている。だから適切な字を見つけてくれるんじゃないかと思ったんだ。無理強いするつもりはないけれど……その、よければ何か考えてくれないか?」

最初はほんの思いつきだった。
だが今は、本当に浩瀚の考える字を聞いてみたいと思った。
この男なら私にどんな呼び名をつけるのだろう、と。

無に近かった浩瀚の表情が、ふと、緩む。

「……そんなお顔を、なさらないで下さい」

細めた琥珀色の瞳の端に苦笑を滲ませた浩瀚に、私は詰めていた息をそっと吐いた。

「全く、主上には敵いませんね」

気付いたのは、いつだったか。
政務以外で彼に要求を通す場合、ごり押しや策略を用いるよりも、素直にお願いをした方が通る確率が高いという事に。
もちろん、いつも成功するわけではないが。

「じゃあ、考えてくれる?」
「……ご参考に、という事でしたら」
「うん。それでいい」

嬉しくなって思わず微笑むと、浩瀚はそんな私を眩しそうに見つめた。

「もし、私が主上をお呼びするとしたら……そうですね、例えば、スイサク、と」
「スイサク?」
「はい。翡翠の『翠』に一日ついたちの『朔』で翠朔」

私は目をみはった。

「いい字だ……でも、正直ちょっと意外だ」

自分の髪の色と先に付いた『赤子』という字から、赤を連想させる文字が入るだろうと、どこかで思っていた。
そう言うと、浩瀚は柔らかく笑んで、頷いた。

「名や容姿から想像しうる字を付けるのは、よくある事です。主上の御名の『陽』と御髪おぐしの色を絡ませた『赤子』という字も、そうした意味では妥当なものかと存じます。ですが――」

言葉を切った浩瀚の瞳が、ひたと私を捉える。

「私が主上を思い描く時、まず浮かぶのはその御目です。翡翠のように鮮やかに深く輝いて、強い意志を感じさせるその御目が、私には主上の象徴のように感じられるのです。そして……『朔』は始まりを意味します。私にとって、この国にとって、主上は新たな始まりをもたらして下さった御方。ゆえに――翠朔、と」

真摯な響きを含んだ深い声に、私は頬に血が上るのを感じた。
これではまるで、告白されているみたいじゃないか。
言葉を失くした私に、浩瀚はほろりと苦笑った。

「申し上げた通り、これは一例です。そのままお使いにならずとも、主上が字をお考えになる際のご参考にしていただければ」
「いや、気に入った」

気遣う浩瀚の言を、私はきっぱりと退けた。

「私の求める私らしさを感じて嬉しい。使わせてもらう。……ありがとう、浩瀚」

頬が火照っていた。
それでも嬉しくて、それを伝えたくて、私はまっすぐに浩瀚を見て礼を言った。

その時、彼がいつになくはっきりと見返してきた事を覚えている。
それまで一度も向けられたことのない視線の強さに、内心、思わずたじろいだ事も。

だがそれは、ほんの一瞬の出来事だった。
次の瞬間、浩瀚のおもてからそれは綺麗に拭い去られ、恐れ入ります、と、顔を隠すように優美な礼を取ると、そのまま静かに退出していった。



それからずっと先、この時の事を思い出して、私は理解する。



あの時、普段怜悧なあの瞳に浮かんでいた、強い感情。



それは、恐ろしいまでに深い、情欲の色だった……。






 

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