『蘭筆乱文』の饒筆様宅で行われていた一周年記念リクエストに応募して、書いていただいたお話でした。
リクエストは、『ドS閣下×男前主上のギャグかほのぼので、閣下が女装か化粧をする羽目になるお話』。
無茶振りなリクエストだったのに、なんとこんなに素敵なお話が出来上がってきました!
閣下が舞う歌劇を通して自分の恋を考えた主上が、浩瀚とのお勉強の時間に嬬裙を着るところが好きです。
普段男前なだけにとっても可愛いよ!
ああ、でもそれも含めてドSな閣下の手の内の様な気が……しないでもないですが(笑)。
饒筆様、素敵なお話をありがとうございました!
どうぞ御覚悟を<後編>
普段と変わらぬ涼やかさで跪く右腕を、陽子はまじまじと見つめる。
――い、意外と綺麗じゃん……(負けた?)
もともと端正な顔立ちではあるが、決して女性的ではなかったはずだ。が、柔らかく描かれた眉や長いアイライン、強調された睫毛が目元を麗しく潤んで見せ、
桃色の頬紅がほんのり上気したような嬌羞を添える。紅をひいた唇は濡れたように艶やかで……こんなことは言いたくないが、かなり色っぽい。えもいえぬ芳香
を放ちそうだ。銀の歩揺(かんざし)が落とす影さえ、見る者の胸を騒がせる。
「……化粧ってすごいな……」
「主上もなさってみられますか?」
さらりと誘導されたが、陽子はブンブン頭を振った。そ、その紅唇で言われるとドギマギするっ!
なぜか目を合わせられない陽子の斜め後方で、今回のプロデューサー・大宗伯が手放しで喜ぶ。
「おお、さすがですな閣下! 楽士すら見惚れて楽が止んだ、あの伝説の舞いを再見できるとは! 恐悦の極みにて胸が躍ります」
「いや、彗梅師にそう言われては身が竦む」
訳知り顔の軽口を前に、我知らず拗ねぎみな陽子が愚痴る。
「……まさか、女形の方だとは思わなかったよ」
「おや?最終節の第一幕は白蛇しか出ませんよ、主上。先日の脚本はお読みいただけましたか」
「(ギクッ)一応、ちゃんと読んだぞ」
「なるほど。一応、でございますね」
白蛇の精として白絹の衣裳を纏う浩瀚が、麗しい目を細める。窮鼠な立場に落ちた陽子はプイと横を向き、大宗伯に話を振った。
「彗梅も(昔は)稀代の旦(女形)だったんだろう? よほど綺麗だったんだろうな」
「今となっては恐縮でございますが……是とお答えいたしましょう。ええ、比王君から絶賛をいただき、御前での上演のみならず、衣裳顧問(すたいりすと)や化粧師(めいくあっぷ・あーちすと)を務めたこともございました」
そう言って、大宗伯は肉付きの良過ぎる胸を張る。陽子はその様子をしげしげと眺める……今は顔も膨張して丸いし、胸より腹の方が突き出ているけどなあ……。
女装の麗人(!)が苦笑とともに話題を変えた。
「主上。舞台裏をご覧になった御感想はいかがでしたか?」
「ああ、とても面白かったよ。こんなに大勢の者たちが歌戯を支えているとは知らなかった」
「多数の様々な尽力が積み重なって夢の一幕がある……この金波宮と同じでございましょう?」
ハッ。翠瞳が開いた。
「脚本にも秘された暗喩があるのですよ。『白蛇伝』をお読みになって、どのような感想をお持ちになりましたか?」
「うーん……わりとよく聞くような悲恋の話だな、と。昔話を題材にしているのだろう?」
「ええ。白蛇が人間に恋をする昔話は各地に伝わっております。地方によって話も結末もまちまちですが。しかし、『妖と人の恋』に喩えられているものは同じです。それは……身分違いの恋、あるいは道ならぬ恋」
どのような虚飾に彩られても変わらぬ、冴えた眼差しが陽子に何かを突き付ける。
「さらに私は、この作品の肝は、白蛇と青年とが最期まで譲り合えないところだと思うのです」
「譲り合えない?」
「は
い。白蛇は生きるために人を喰わねばならない。人間である青年はそれを許さない。いくら愛し合っていても、両者ともそこは決して譲れない……いや、譲らな
いのです。歩み寄ることも共に解決を目指すこともなく、ただ無為に時間を費やし、一方的に我慢を強いられた白蛇が弱り妖力を失って、青年とともに破滅して
しまうのです。
ただの悲恋と片付けるには、ここに教訓が潜んでいるとは思いませんか? 白蛇は、そして青年はどうするべきだったのでしょうね?」
陽子は考え込んだ。
白蛇を大事に思うなら、彼女を匿い、殺人を黙認して自らも罪を被る選択肢もあったかもしれない。いや、それよりも。人間ではなく、別の動植物や地脈などの精気を食料にすることはできなかったのか。そんな他の解決策を探す手もあったかもしれない。
だが、彼らは身上や境遇を嘆くばかりで、それを超えようとはしなかった。
……私なら、どうする? この行き場の無い想いに、容易く折り合えない相手に、どんな決着をつける?
「『どうにもならないこと』は世に数多とありますが、『何の方策も立てられないほど、どうにもならないこと』は滅多に無いと存じますよ」
「……なるほどな。気づきというのは何処にでも見つけられるものだな」
陽子が真顔で呟けば、鬼冢宰の微笑が緑陰の穏やかさを刷いた。
「かように幾つかの視点に留意いただければ、歌戯もさらに興味深くお楽しみいただけるものと存じます」
「うん。今日はそんなことも考えながら観てみるよ」
陽子は思わずいつものように振り返り、わざと科をつくって目を流す浩瀚の媚態にドッキリして後じさった。
――そ、その顔で微笑まれると背筋がゾクゾクするんだけどっ!(首まで赤面)
陽子は慌てて顔を背けた。なんなんだ、その妙な迫力。二の腕に鳥肌が立ちそうだ(ぞわわ)。
猛毒(に違いない)の紅唇が、くつくつ笑う。
「さて--それでは最終節の第一幕をご覧くださいませ。赤月の下、腹を空かし弱り果てた白蛇が、恋い焦がれる青年に会いたい一心と、今すぐ腹を満たしたい衝動との間で葛藤し舞い狂う場面でございます」
今一度拱手し、艶然と裾を翻して舞台へ向かう。
――器用だな、あいつ……本当に女形になりきっているよ……。
軽い目眩をおぼえ、陽子はどさっと観覧席へ座り込んだ。
押し殺すように小さく掻き鳴らす琵琶の音から、幕が上がる。
大道具の岩にぐったりと寄り掛かっていた白蛇の精が、その面を、そして長い薄布を垂らす袖を赤い月に向かって上げる--あの長い袖は蛇体、あの手つきは鎌
首をもたげた様子を表現しているらしい。そして、胸を締めつける二胡の調べとともに、病んだ蛇はゆるりと身を滑らせ、憂い深い舞いを始めた。
なんてしなやかな動きなんだろう。白布の先まで生きているようだ。そしてこの胸を打つ楽、揺れる赤月。非哀に満ちた美しすぎる宵が、圧倒的な迫力で陽子を呑み込む。
声をあげる間もなく、魅了されていた。
やがて白蛇の舞いは激しさを増し、高鳴る調べに打楽器が加わり、狂暴なおどろおどろしい狂気を孕みだす。めまぐるしくくねる薄布、舞台を踏みつける沓、沈み、また浮き上がる苦悩に満ちた横顔……んん?
陽子の脳裏に小さな疑問符が引っかかった。切なくて、苦しくて、狂いゆく白蛇……しかし、どこかに凛とした芯を感じないか?
この白蛇は狂う様を装ってはいるが、実はもう心を決めているのではないだろうか。
わざと正体を明かし、里人に殺される--そんな形で青年の前から去ることを決めたのか。それとも、さらに青年が駆けつけることを予測し、済し崩しに心中へ巻き込もうと図ったのか。
どちらにしても……あいつなら。そして対する、私なら。
とりとめもない思索は眼前の劇中世界と混じり合い、ただ陶然と浮揚する。
――それにしても、単純に綺麗だなあ……美しいひととはこういうひとのことを言うんだろうな。
素直な感嘆と共に、忸怩たる思いが湧く。
解説の中で、大宗伯が語っていた。女形を演じるコツは実際の女性の真似をすることでなく、己の内に在る純然たる理想の女性像を具現化することだ、と。
ということは、これが浩瀚の理想の女性なんだ。優美で、細やかな情に溢れ、どんな苦境の中で懊悩していても凛と背筋の伸びたひと。たとえ破滅の未来しか
待っていなくても、決して逸らさない眼差しの強さ。ああ……多忙に紛れて置き去りにしていたが、私もこういう「人として美しい大人の女性」を目指さなきゃ
なあ……。
夢の舞台は駆け足で過ぎ。呆気なく幕は下りて。
陽子はこの夢をみせてくれた者たち全てに、惜しみない拍手を贈った。
そうして、また数日後。
官吏たちの早帰り日(残業代圧縮策の一環である)に合わせて設けられた、陽子のお勉強の時間。
課題の消化具合を確認しに参内した浩瀚は、軽く瞬きを繰り返した。
陽子が珍しく襦裙を着ている。袖も裳裾もたっぷりと長い、高位の女性が纏う正式なひと揃えだ。常は素っ気無く括ったきりの髪も華やかに結いあげ、なんと淡い紅まで塗っているではないか。固い花蕾がいきなり綻んだような、瑞々しくも艶やかな麗姿である。
居心地悪そうに反応を待つ陽子に、浩瀚は本物の微笑と率直な賛辞を献じた。
「お召し替えをなされたのですね。お美しゅうございます」
陽子はぱっと顔を輝かせる。そしてプイと横を向く。
「た、たまにはな」
尖らせた唇がこの上なく愛らしい。堪らずにくつくつ笑う。
「道理で。先程見かけた女官たちの機嫌が良過ぎて、不審に思っておりました」
「うるさい。槍なんか絶対に降らないぞ」
陽子は本日の課題、古の名詩文を広げる。昔は文字の習得のために写したものだ。既に文字には苦労しなくなったが、改めて読み直して見れば、少しは恋の詩に託された情感を理解できるようになった気がする。
それに、大きく咳払いをして、やけに側へ寄って来た生臭教師を牽制する技だって憶えた。
「それから……先日の『白蛇伝』の結末に関してだが」
キリリと頬を引き締め、力を籠めて浩瀚を睨み上げる。
「例えばおまえが白蛇だったとして、おまえなりにこの決着を考えているとしても、私は手前勝手な幕引きなんか許さないからな」
今はまだ呆れるほど幼い小娘だけど。必ずイイ女になってやるから。周囲の思惑やへらず口なんか蹴散らせるほどの立派な王になってやるから。それまでは。
逃げるなよ、と。鋭い翠瞳が釘を刺せば。
御意、と喰えない男は片眉をあげたまま、恭しく拱手する。
そして、ついと陽子の耳朶に口を寄せた。
「ならば、どうぞ喰われる御覚悟をお決めくださいませ」
「そっちか!!」
<了>