どうぞ御覚悟を<前編>
大宗伯(春官長)は見るも無惨なほど打ちのめされていた。コロコロした小柄な体が、一層丸く縮んで見える。
「主上……歌戯ならばお楽しみいただけるかと、当代一流の演者ばかりを集めたのですが……」
「ごめんっ!本っ当ーにゴメン!! 寝るつもりなんか無かったんだけど!!」
陽子は両手を合わせ、蓬莱風拝みポーズで謝る。ペコペコ頭を下げることは景麒が許してくれないので、これが最高の謝罪スタイルである。
「……さすがに、背凭れに仰け反って鼾をかくのはおやめくださいませ……」
「悪かった!! 俳優にも楽士にも謝っておいてくれ。彼らは悪くない」
その景麒も、今は呆れ果てて冷たい横目しか向けない。
「当然です。……涎の跡もお拭きください」
「でええぇっ! ヨダレまでたれていた?!」
袖で擦ろうとしてさらに景麒に睨まれ、ムッとしつつも手巾を探して拭く。
昨夜だって遅くまで残業していたんだから……と言い訳したくなったが、やめた。自分が悪いのはよくわかっている。王の御前という最高の舞台で最高の劇を演じてくれた者たちに、そんなことは言えない。御簾がかかっていただけマシだったろうか。
景麒のお小言が始まる。
「精
力的に政務もお執りになるのも、熱心に武芸も磨かれるのも結構ですが、少しは慶国の文化文芸にも通じてください。詩文や絵画、歌舞には慶の民が古より培っ
た美意識や繊細な心の琴線が詰まっています。それを理解なさることはすなわち慶国の人心を理解すること。一向に関心をお示しでないのは非常に問題だ
と……」
「わかっている。それはわかっているって!でも、まだ忙しくて、余裕が無いんだ!」
「そうおっしゃりつづけて、もう十一年目ですが」
「だって事実だろ!」
十一年間収まることもない、不毛な冷戦状態に突入した主従を見上げ、大宗伯は静かに肩を落とした。
何も知らずにおいでになった胎果の少女王に、厳しい現実だけでなく、美しい芸術の世界や磨き抜かれた珠玉の名作に触れ、豊かな情操を養っていただきたい。
そう考え、機会がある度に様々な美に接していただいた。お時間の許す限り案内や解説を務め、心を砕いてきたつもりだったが……成果は欠片も感じられない。
虚飾の無いカラリとしたご気性は好ましいものの、畏れながら女性としての成熟がみられないのはこちらの方面にご興味が無いせいではなかろうか。
胸の内で溜め息を吐き、いやいやここで引き下がってはならぬ!と丸っこい拳を握る。
こうなったら最終手段しかない!
今は肥えて見る影もないが、その昔は宮廷歌戯の超美形女形として一世を風靡した彼である。いくらなんでも、最高の歌戯を披露したのに鼾をかいて爆睡されたままでは終われない。
決然と目を輝かせて顎を上げる。
「お話し中に失礼致します。主上、どうかもう一度だけ、歌戯の講義のためにお時間をくださいませ」
「え、ええ?!」
陽子は露骨にありがた迷惑な表情を浮かべた。
やることは常時山積みなのだ。正直、歌戯の講義やり直しなんて面倒臭い……が、大宗伯の鬼気迫る気迫に負け、気乗りしないまま首を縦に振る。
「……うん、そ、そうか。今日は申し訳なかったからな。また浩瀚と相談して予定を調整するよ。次は寝ないようにするから……(とほほ)」
「ええ。拙からも冢宰によくよくお願いを申し上げておきます。かくなるうえは、閣下にも一肌脱いでいただかねばなりますまい」
「は?! アイツに何の関係が?!」
「冢宰が自ら乗り出したとあれば、主上も無碍にはなさいませんよね?」
にっこり。大宗伯までもが、ちっとも目が笑わない凄みのある笑顔を浮かべる。……毎日見慣れたその笑顔は、今や、金波宮官吏たちの必須交渉術となっているようだ。(あの鬼冢宰が広めたに違いない)
ゴクリ。生唾を飲む。
――アイツも乗り出して歌戯の講義?! 何をする気だ?
なんか不穏な予感を感じつつも、引け目のある陽子は黙ってコクリと頷いた。
数刻後。
積翠台に参内した冢宰は非常に不機嫌だった。冷え冷えとした声の底に雷鳴が籠っているようだ。
甘い善後策や思いつきの提案は常にも増してダメ出しを受け(クソォ!)、どんどん追加されてちっとも減らない裁可待ちの書面山に陽子が頭を抱えたところで、トドメの絨毯爆撃が降る。
「先程の歌戯観賞での件につきまして、大宗伯より仔細を伺いました。大層危機的な状態のようですね、主上。近頃は太師の授業も御無沙汰の御様子ですし、このまま時ばかり経てば王者としての素養を疑われる窮状に陥りかねません。
そこで、これまで以上に励んでいただくべく、諸々勉学のお時間および課題もご用意させていただきました。(ドサッ!)(うげぇッ!!by陽子)
また今回、拙に鉢が回ってきた以上は、歌戯についてシッカリ学んでいただけるよう努めますので、主上もそのお心づもりでお願い申しあげます」(慇懃無礼に一礼)
「ううう……」
陽子は力尽き、机上に突っ伏した。涙もちょちょ切れる。
マナーが最悪だったとはいえ、うっかり昼寝の代償が高すぎる。ああもう嫌だ。家出したい……(隙をみて出奔しようかな)
悪魔の囁きが聞こえたとき、まさに目前に、一冊の薄い本が差し出された。
表紙に白い大蛇と美しい女性が描かれてある。
「……これは?」
「『白蛇伝』です。この演目の最終節第一幕を拙が演じますので、暗唱できるまでお読みになってくださいませ」
にっこり。例の背筋も凍る笑顔(本家本元)を向けられ、陽子は腰が引けながらも目を点にする。
「おまえが演じる? おまえ、歌舞もできるのか?」
「新
米州候の頃、新年互礼会にて演じさせられました。まあ一種の通過儀礼ですね。新しく州候に任ぜられた者に恥をかかせて人となりを量ろうという、古参州候た
ちの余興があったのです。武人に即興詩を詠ませたり、音痴に難曲を歌わせたり、水芸などを要求された者もいたようです。
私に課せられたのはこの歌戯を舞うことでした。人前で舞うからには恥をかかぬようにと、当時、歌戯大師だった大宗伯に習って事無きを得ましたが」
「ふうん……おまえは何をやってもできそうだもんな」
陽子が拗ね、頬杖をつく。どうせ私はガサツで物覚えが悪いですよーだ。芸術的センスなんか皆無だしね。
ふと、鋭い視線が和らいだ。
「主上、何事もまずは己の視点を持つことですよ。そこに何があるのか。そこから何を得たいのか。ただ茫洋と受け取るだけでは何も身に付きませんから……その『白蛇伝』をお読みになって少し思索なさってくださいませ」
「わかった」
陽子はぶうたれ、余所を向いたまま答える。
どうせおまえも、審美眼を磨けとか、情操を養えとか、当然の教養くらい身に付けろとか言うんだろう? ふーんだ。ウンチクを語れるようになったからって州
候や百官が感心して頭を垂れてくれる訳でも無いし、誰かが文化振興のための多額寄付をしてくれる訳でもない。無駄とは言わないけれど、優先順位は低いよ。
今は興味ないね。
陽子はふてくされたまま、『白蛇伝』を未解決山の頂上にぽんと置く。
……このときはまだ気づいていなかったのだ。『白蛇伝』の主人公が女性であることに。
『白蛇伝』はお伽噺のような戯曲だ。
昔々ある深山に、永い時を生き、妖力をもった白蛇がいた。その蛇は時折人間の娘に化けて里へ下り、若者を誑かしてはその精気を吸って生き永らえていた。
ある美しい宵、満月に誘われ散策に出た白蛇は、草庵の窓辺から湖を眺める侘しげな青年を見かけ、本物の恋に落ちる。彼は幼いころから胸を患い、家族から遠ざけられ、外に出ることも叶わずに狭い庵の中で孤独な生活を送っていたのだった。
各々抱える淋しさゆえに二者は心を通わせ、青年は彼女が蛇であることも受け入れて、愛し合うようになる。が、白蛇は妖。彼女が生きるためには人間の精気が
必要で、しかし、青年は彼女がこれ以上殺人を犯すことを厭い、他の誰かを殺すくらいなら自分を喰えと彼女に迫る。妖の身である悲哀、恋慕の情、どうしよう
もない空腹が白蛇を苛む。
弱りきり切羽詰まって狂乱する白蛇は、その正体を通りすがりの飛仙に暴かれ、里人らに捕縛されて打ち殺されそうにな
る。必死で駆けつけ彼女を庇う青年もまた、蛇に憑かれた狂人だと同様に殴打を受け--白蛇は青年を助けるため、最後の力を振り絞って逃走した。が、ついに
山中で力尽き、丸くとぐろを巻いた姿は地中へ溶けて、深い泉となり果ててしまった。そして残された青年は、もの言わぬ泉の側で命が尽きるまで天に祈り続
け、死と共に、泉の脇に立つ一本の柳の木になりましたとさ。
数日後。
大宗伯が迎えに来た。晴れやかな笑顔を満面に湛えている。
「さあ主上。お待たせいたしました。歌戯の世界を再びご紹介いたしましょう」
陽子は『白蛇伝』を閉じ、立ち上がった。景麒が従う。
「わかった。で、舞台はどこだ?」
「冢宰の助言に従い、今回はまず舞台裏からお目にかけたいと存じます」
「舞台裏から?」
「え
え。歌戯は総合芸術でございます。俳優だけではなく、使用する楽器や楽士の技、また衣裳・大道具小道具の美しさやその意味、裏方の様々な仕事やその苦心な
ど、歌戯を構成する要素をひとつひとつ詳細にご覧になったうえで、舞台を観賞してくださいませ。そうすれば、おそらく先日とは全く違った感想を抱かれるの
ではないかと」
「へえ。面白そうだな」
翠瞳が輝く。ようやく興味が湧いてきた。
まずは楽士の控え室から。畏れ入る楽士たちに声をかけ、笛,簫,笙,琵琶や打楽器などに触らせてもらう。当然、素人の陽子ではロクな音が出ない。各人に好きな曲を披露させ、各楽器の魅力などを語ってもらうと、案外アツい熱意が伝わってきて楽しかった。
次はまさに舞台裏へ。衣裳や小道具の素晴らしい細工に感嘆し、様々な「お約束」とその由来を聞く。キビキビと動く裏方黒子たちの高い意欲と意外な誇り高さに驚いた。
最後に俳優――浩瀚が舞台袖に現れる。
優雅に深礼する姿を見、陽子が愕然と両目を剥く。力の抜けた手から、『白蛇伝』の本がポロリと落ちた。
<後編へ続く>