憧憬~卯ノ花~
――ああ、やはり生きていた……。
完全禁踏区域・清浄塔居林。
一面の氷壁の中、赤く染まった刀を手にした男を目にした瞬間。
心を満たしたのは、驚きではなく、納得だった。
『―来られるなら、そろそろだと思っていましたよ』
ゆっくりと顔を上げた相手はこちらを一瞥し、そんな感情を見抜いたように冷たく嗤った。
***
時間をかけて淹れた茶を傍らに、縁側から夜空を仰いだ。
細い月が、柔らかく辺りを照らしている。
昨夜は今くらいの時分に、怖い夢を見た勇音が心細そうな顔でやって来たのだった。
だがその彼女も今夜は宿直。
四番隊隊舎の最奥に位置するここ卯ノ花の私室には、今、静寂のみが広がっていた。
『君は僕を追ってこない――そうだろう?』
あの時。
こちらを捕らえ細められた目は、確かにそう告げていた。
僅かに重心を落とした勇音を制した自分とほぼ同時に、斬魄刀に手をかけた市丸を留めた、彼。
そう、彼は知っていたのだ。
自分が彼を追わないと……刀を交える気も留める気も、無いという事を。
その場に、救うべき重傷者がいたからというのも事実。
勇音では市丸に太刀打ちできないと判断したのも、嘘ではない。
だが、それらは全て表向きの理由だ。
卯ノ花は、もうずっと前から気付いていた。
彼が、瀞霊廷はおろか尸魂界にも、さしたる価値を見出していないという事に。
そして彼も……彼女がそれに気付いていると、知っていた。
いつかこの男は瀞霊廷から、自分の前から、去っていくだろう。
それは誰にも告げた事の無い、だが、確信に近い予測だった。
彼が死体となって発見された時、直接診断したにも関わらず彼の死を一番疑っていたのは、卯ノ花だった。
『鏡花水月』の完全催眠下にありながらあの死体に違和感を感じたのも、それをずっと覚えていたのも。
彼の深奥に広がるその闇を、どこかでずっと感じ取っていたからだ。
彼が今まで決して表に出さなかった、あの冷酷な表情を見た時。
それは、長い間卯ノ花の中で燻り膨らみ続けていた疑問と緊張が、解放された瞬間でもあった。
――貴方は、とうとう踏み出すのですね。
今までの仮面を捨て、貴方が信じる本来の自分に戻って。
胸の内に詰まったものを吐き出すように、卯ノ花はゆっくりと深呼吸した。
止めるなら、告発するなら、とっくにそうしていた。
そう、自分は彼を追えなかったのではない。
彼を、追わなかったのだ――。
***
『憧れは、理解から最も遠い感情だ――そう思わないか?烈』
そう問われたのは、何時だったか。
『……だが、君は私に余計な憧れなど持ってはいない。――僕が、君に対してそうであるように』
優しげに細められた目はしかし、何故か笑っている様には見えなかった。
***
既に温かみの消えた湯飲みを持ち上げ機械的に口へ運ぶと、卯ノ花は再び夜空へと目を向けた。
――貴方は…。
脳裏に焼きついた彼の最後の姿に、卯ノ花は心の中でそっと呟いた。
天に立ち、そうして。
何処へ向かおうというのですか。