星狩の孤独<1>



流魂街の一角。

人気のない川原の土手に腰を下ろした修兵は、そのまま背後に倒れるように身を投げ出した。
柔らかな草が、疲れ切った体を優しく受け止める。
昼間は未だ夏を思わせる暑さが続いていたが、朝晩の涼しさは紛れもなく秋の到来を物語っていた。
呼吸を整え気配を消せば、しばらく止んでいた虫の音がまた始まった。

藍染達が去って、ひと月が過ぎた。
修兵にとっては、瞬く間に過ぎたひと月だった。
消えた隊首に代わり、隊を仕切って割り当てられた瀞霊廷の復旧に取り組み、その合間に以前の三倍に増えた書類を捌く。
更に、『有事の時にこそ』と声が上がった『瀞霊廷通信』の編集作業も手を抜けなかった。
こなしてもこなしても減らない仕事に深夜まで追われ、ここ五日程は夜も私室に帰っていない。
仮の主となった隊首室でほんの短い仮眠を取るだけだった。
だがその忙しさは、半ば修兵が望んで受け入れたものだった。

『副隊長、いくら何でも働き過ぎです』
『少しは休んで下さい』

自らも疲労の色濃い席官達に心配される度、修兵はにっと笑って返した。

『俺は頑丈さだけは自信があるんだよ。それより、お前達こそちゃんと休めよ?』

そんな彼に、部下達は不安そうな顔をしながらも、それ以上言葉を重ねる事は無かった。
修兵の気持ちを、分かっていたのだと思う。
いや、皆同じなのだ。

空白の時間を作りたくない。
時間があれば考えてしまう。
尊敬していたかつての上司と――彼の、裏切りを。

――けど、夜だけは眠りてぇな……。

忙しいとは言え、本当は睡眠時間が取れない程ではない。
ただ、眠れないのだ。
酒を浴びるほど飲んで眠れたのは、最初の十日だけだった。
元々強かったせいもあるだろうが、それ以降は全くと言っていい程酒精が効かなくなってしまった。

日中どんなにくたくたに疲れても、夜、眠れない。
うとうとしてもすぐ目が覚める。
あるいは、夢を見て何度も起きてしまう。
畢竟、疲れは蓄積する一方で、部下の心配顔はいつまで経っても解消しない。
人並み以上の体力を誇る修兵も、そろそろ限界を感じていた。
夜風に当たれば或いは……儚い望みをかけて、今日も夜半過ぎまでかかって書類を片付けた後、この川原へとやって来たのだった。
騒乱以降、夜間は禁足令が出ているのを承知の上での事だった。
だが。

――やっぱりダメだ。

月を見上げながら、修兵は息を吐き出した。
体はこれ以上無いほど休息を欲しているのに、全く眠れる気がしない。

だから、その声が聞こえた時、一瞬空耳かと思ったのだ。
或いは、眠れない眠れないと思いながら、いつの間にか寝てしまったのかと。

「――何をしている」

低い声は、修兵の頭上から降ってきた。
がばりと、反射的に起き上がり振り返ったその先。
月光の仄かな明かりを受け、そこに立って居たのは。

二番隊隊長・砕蜂だった――。

   

***


「……砕蜂、隊長……」

全く、気配を感じなかった。
いくら疲れて注意力が散漫になっていたとは言え、副隊長職にある自分が、ここまで接近されて気付けないとは。
隠密機動の頂点に立つ目の前の相手の実力に、一瞬恐れに似た気持ちを抱く。

「檜佐木、答えろ。ここで何をしている」

砕蜂は無表情に修平を見下ろし、再度問うた。
一瞬竦んでしまったのを気まり悪く感じ、修兵はガシガシと髪をかき混ぜた。

「ああ……その、ちょっと眠れなくて。散歩してたんス」
「禁足令が出ているのは知っている筈だが」
「……はい。すいません」

夜間の警護と監視の為に、二番隊が巡回しているという訳か。
これはもう引き揚げた方が良さそうだ。
そう思った修兵が腰を上げようとした、瞬間。

「――東仙か」

ぽつりと。
呟くように問われ、修兵の動きは不自然な形で止まった。

「貴様がやつれる程眠れぬ原因は、東仙か」

こちらを見下ろす硬質な面差し。
真っ直ぐに向けられた黒目がちの瞳に、修兵は金縛りにあったように動けなくなった。

不思議な瞳だった。

『ウチの隊長の一番怖ぇ顔は、さ』

巨体で大食いの先輩が、酒の席でぽろりと零した言葉が甦る。

『怒った時じゃなくて、何考えてるか読めねぇ状態で、こう、じっとこちらを見てくる時なんだよな』

嘘が、吐けなくなる、と。

ああ、これか、と修兵は得心した。
確かに怖いだろう。
こんな、こちらを丸裸にして曝け出してしまうような、眼差し。

何も隠せなくなる。
誤魔化せなくなる。
なのに、目を逸らせない。

声もなく魅入られた彼を、砕蜂は静かに呼んだ。
一言、『檜佐木』と。

その瞬間の感覚を、何と表現すれば良いのか。
川底に沈み、知らず渓流の流れを堰き止めていた最後の小石を、打ち砕かれたような気分だった。

「――ええ……。そう、です」

乾いた喉から、勝手に言葉が引き出される。

言うつもりのなかった心を引き出されて呆然とする男を一瞥し、砕蜂は音を立てず歩き出した。
修兵の背後から、隣へ。
更に驚いた事に、そのまま腰を下ろす。
相変わらず、虫の音すら邪魔せぬ気配の無さで。
そうして眼前の川に目を向けたまま、言った。

「話してみろ」

無造作な口調だった。
だが、どこか逆らう事の出来ない響きを持っていた。
それでもしばらく躊躇っていた修兵は、やがて沈黙に促されるように口を開いた。

彼を、誰よりも尊敬してた事。
無駄に争わぬその姿勢を、己の手本としていた事。
部下への公平な態度。
言葉で、あるいは無言で伝えられた教訓の数々。

ほんの少し前まで、当たり前の事だった。
改めて考えるまでも無かった、彼との日常の日々。
それが今は、遠い昔の事のよう思える。

「副隊長になって俺も随分経って……東仙隊長の事なら、殆ど理解していると思っていたんですよ。……けど、違った」

膝の袴に置いた拳を、修兵は我知らず握っていた。
ぎちりと爪が食い込むほどに。

「俺は……隊長を理解わかっていなかった。これまであの人が何を思って生きてきたか、何を大切にしてきたか……俺は、知らなかった」

表面の思想だけで。
その奥底にある願いを、望みを。
自分は全然理解していなかった。

それが悔しい。
そして悲しい。

けど、それ以上に悲しいのは……。

「俺は……俺達九番隊は」

あの時から修兵の中で、ずっと燻り続けていた、想い。
燻っていて、けど、一度口に出せばそれが動かしようのない事実となってしまいそうで、言葉に出来なかった、想い。
落ちていた頭を上げて、修兵は月を見上げた。

「あの人の中で、全く価値が無かったんですね……」

   

***


自分の中でたかぶった気持が落ち着くのを待って、修兵は口を開いた。

「……砕蜂隊長、すいません。俺……みっともねぇ愚痴聞かせちまって……」

自嘲の笑みを浮かべ、川に目を向けたままの隣人を見る。
気心の知れた後輩達にも、ましてや傷付いた部下達にも言えず抱えていた、心の中の、澱。
それを砕蜂は、ほんの少しの言葉と視線で吐き出させてしまった。

「……置いていかれた者は」

ぽつりと砕蜂が呟いた。

「相手の意図を思い、苦しみ、悩む事しか出来ない。そして悩めば悩むほど、その方のお心の中の自分の存在の軽さを突きつけられ、絶望する。やがて……絶望は、憎しみに変わる」

少女めいた硬質な横顔を眺めながら、ああそうか、と悟る。
彼女が、これまで殆ど個人的に面識の無かった自分に、構う理由を。
彼女もまた、『置いていかれた者』だったのだ。

伝説めいた名前しか知らなかった、前・二番隊隊長。
先日の戦いで、100年振りに瀞霊廷に現れた彼女と砕蜂の間には深い確執があったのだと、くだんの先輩に聞いた覚えがあった。

「憎み、軽蔑した。力を付け、あの方を超える事でそれを突きつけてやろうと、がむしゃらに修行をした。けど……再会した時に出た言葉は、一つだけだった。――『あの時、何故私を連れて行って下さらなかったのか』、と」

修兵は驚愕に目を見張った。
自分を投げ出し相手に縋る。
それは修兵の持つ砕蜂のイメージから、遠くかけ離れていた。

「それに対し、あの方は答えた。『お前がいたから、後顧の憂いなく、出奔出来たのだ』と。――はた迷惑な信頼だ、全く。私の望みはそんなものでは無かったのに」

切り捨てるような言葉とは裏腹に、口調はひどく穏やかだった。

「だが、同時に喜びも味わった。あの方のお心にあった自分の姿が、ようやく見えたと。――零では無かった。望む形では無かったけど、私はあの方の中で、確かに存在を得ていた。それだけでも、私は生きていて良かったと思う。あの方に再び会えて、良かったと」

そのいじましくも一途な想いに、修兵は言葉を失った。

「だから」

砕蜂の視線が動く。

「分からねば、聞くしかない」
「――え」

月光に輝く黒い瞳が、修兵に向け断言する。

「東仙が、貴様をどう思っていたか。九番隊を、本当に捨て石とのみ考えていたのか。それに答えられるのは、東仙本人だけだ」

修兵は、この小柄な隊長の怖さを改めて思い知った。
愚痴に返ってきたのは、口先だけの慰めでは無かった。
下手をすれば修兵自身の心を抉り出しかねない、解決法だった。

目を逸らし、失笑する。

「……厳しいっスね」
「怖いか?」

そうだ。
とてつもなく怖い。

例え本人に会えたとして、問う事ができたとして。
あの静かな口調で淡々と『是』と答えられたら。

『最初から、僕にとって君達は何の価値もない』

そう、言い切られたら。

「……怖いっスよ。俺は砕蜂隊長程、強くないんで」

情けない程、語尾が弱々しくなった。

「――檜佐木」

意志を持って呼ばれた声に顔を上げる。
視線の先で、少女がゆっくりと腰を上げた。

「眠れないと、言ったな?」
「えっ……あ、はい」

突然の話題転換に戸惑いながら答えると、次の瞬間、後頭部に鈍い衝撃が走った。

「!」

一瞬火花が散った目を開けると、映ったのは月と、白い羽織を脱ぎ棄てた少女の姿だった。

「そい……っ!」
「では、私が寝かせてやろう」

仰向けに転がした修兵の腹に跨り、砕蜂は静かに口の端を上げた。







 

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