散歩



それは、桓堆が冬官長に呼ばれ禁軍の装備の相談を受けた帰り、滅多に通らぬ冬官府の一角を通った時の事だった。

小春日和だった。
回廊を歩きながら、桓堆の視線は自ずと柔らかな陽射しに照らされた園林へ向けられた。

――いい天気だ……。

慶は四季のはっきりした国である。
その中でも桓堆は特に冬が好きだった。

炎の温もりにを前に、仲間と語り合う長い夜。
きりりと引き締まった、冷たい朝の空気。
そして、こんな風に時折現れる小春日和。

普段あまり感傷にひたる事のない桓堆だが、そんな日にはじんわり幸せな気分に満たされるのだ。
特に、朝の落ち着いたここ近年は。

葉を落とした灌木が立ち並ぶ庭は、いかにも冬らしい景色であった。
禁軍左将軍の歩む速度は徐々に落ち、やがてはたりと止まった。

――……この後、急ぎの用は無かったな。

頭の片隅でそう呟き。
次の瞬間、桓堆は誘われるようにふらりと園林に踏み出していた。

   

***


そこは、散歩するにはうってつけの場所だった。
建物に近い部分は、綺麗に掃き清められ木々も手入れされていたが、しばらく進むと桓堆の目前には野趣溢れる光景が広がった。
枯葉の柔らかな絨毯を踏みしめながらゆっくり歩いていくと、どこからか水の流れ落ちる音が聞こえてきた。

――雲海か?

一瞬そう思ったが、どうも音が違う。
足は、自然に音のする方へと向かっていた。

進むにつれ、徐々に涼やかな水音が近付いてきた。
前方に常緑樹の茂みが見える。
背丈程もあるその茂みをかき分けるようにして抜け出た所に、音源はあった。

小さな人工の滝だった。
苔むした岩石を積み上げて造られた小さな崖の間を、飛沫を上げて清水が流れ落ちている。
かつて名のある造園師によって造られたのだろう。
岩石の形、周辺の木々の配置、荒れているとはいえ大層景色の良い場所だった。

だが、桓堆はその景色をじっくり愛でる間はなかった。
少し離れた滝壺の近くで、寄り添う官服の男女に目を奪われたからだった。

官吏同士の逢引は、王宮内ではさして珍しくはない。
覗き見趣味のない桓堆は、普段だったらそのままそっと引き返していただろう。
だが今、足が竦んだように動かなくなってしまったのは、それが彼のよく知っている、だがとても意外な人物だったからだ。

――あれは……。

男に縋るようにして接吻を受けている少女の髪は、燃えるような緋色。
そしてその少女を腕に抱き止めている男は、六官の長たる紫紺の官服を纏っている。

――主上と浩瀚様!?

桓堆の視線の先で二人の顔が離れ、陽子がゆっくりと目を開く。

潤んだ翡翠の瞳が現れた。
浩瀚の衣を掴み何事か抗議しているその横顔は、濡れた唇と相まってひどく扇情的だった。
少年のような格好を好み剣を振るう陽子しか知らない桓堆の目には、その少女は別人のように見えた。

そして浩瀚は……これまた桓堆がかつて見た事がないほどの甘い笑みを浮かべ、少女を見つめていた。
が、やがて彼女の耳元で何事か囁くと、なおも続く抗議を封じるように再び唇を奪った。

――なぜ、主上と浩瀚様が……一体、いつの間に!?

あまりの衝撃に、桓堆の頭の中はひどく混乱していた。
禁軍左将軍として王と冢宰に近侍している桓堆だが、今まで二人の間にそれらしい雰囲気を感じた事は無かった。
なのに……これは一体どういうことなのだ?

目の前の光景に釘付けになっていた桓堆は、知らず身じろぎしたらしい。
脇の常緑樹が、がさりと音を立てた。

――しまっ……!

一瞬、二人に気付かれたかと肝を冷やしたが、すぐに滝の音にかき消されている筈だと思い至る。
そう、聞こえた筈がないのだ。

だが……。

何の気配を感じたのか、浩瀚がふっと桓堆の方を振り返った。
続いて、陽子も。

『あの時の血の気が引くような感覚は、戦場でも経験したことが無かったな』

後に、禁軍左将軍は笑いながら語った。

浩瀚は先程までの笑みを引き、さりげなく身を捻って少女を桓堆から隠した。
だが、彼には見えてしまった。
頬を赤く染め顔を逸らす、主の姿が。
陽子はそのまま浩瀚に二三言耳打ちをすると、身を翻して駆け去った。


――待って下さい、主上!俺のせいで逃げたりなさったら、浩瀚様に殺されるじゃないですか!

心の中で叫んだが、当然届く訳はなく。
浩瀚は陽子の後ろ姿を見送っていたが、木立ちの中にその背が消えると、桓堆の方を振り向いた。
彼は小さくため息をついて、浩瀚の方へと歩き出した。

   

***


「お邪魔をしてしまったようで、申し訳ありませんでした」

腹を括って近付いてきた禁軍左将軍を、浩瀚は常の如く穏やかな微笑で迎えた。

「いや、私の油断だ。ここを知っているのは、主上と私くらいだと思っていたからな」

……言外に、『何故こんな所にいるのだ』と責められているように感じたのは、気のせいだろうか?

ここに至って初めて、桓堆は冬官府の園林から内宮に迷い込んでしまった事に気づいた。
もしかしたら、知らないうちに呪のかかった隋道も渡ってしまったのかもしれない。

「……禁軍の装備の事で、冬官府に呼ばれまして。帰り道、つい散歩していました。……すいません」

別に謝る必要はないのだが、気付けば謝罪の言葉が口をついていた。

「……成程」

浩瀚の視線がふっと緩む。
一応は納得しよう、そんな声音だった。
桓堆はほっと肩の力を抜いた。

「どうやら、驚かせてしまったようだな」
「ええ。ものすごく驚きました」

正直に答えると、浩瀚は微かに苦笑の色を深くした。

麦州侯時代より浩瀚に仕える桓堆は、彼の女性遍歴を承知している。
眉目秀麗な顔立ちと、優雅な立ち居振舞い。
文官の理想を形にしたような容姿と能力を持ちながら、剣を持たせれば州師左軍将軍とも互角に打ち合う。
それに加えて、州侯という高位。
周りの女達が放っておくはずはなかった。
『麦州侯の身辺には常に女人の影が絶えない』というのは、州城では有名な話だった。

だが、それが政敵に足を取られる口実とならなかったのは、彼の方から女に入れあげることが全くなかったからだ。
来る者拒まずといった態の浩瀚が唯一条件としていたのは、相手が恋を遊びと割り切れる女人かどうかということだった。

なのに。

「……本気、なんですか?」

陽子は、浩瀚が今まで相手にしてきた女達とは明らかに性質が違う。
あの真っ直ぐな少女に、恋を楽しむ器用さがあるとは思えない。
ましてや彼女は王。
世界に十二人しかいない、神の一人である。
冢宰としても個人としても、手を出すのにこれ以上悪い相手はいない。
そして……桓堆の知る限り、浩瀚はそれを自覚出来ぬ男ではない筈だった。

問いに答えぬまま、浩瀚は主の去った木立ちに目を転じた。
暫時の沈黙の後、独り言のように呟く。

「……このような気持ちは、初めてだ」
「浩瀚様……」
「私は随分と自惚れていたらしい。私の中に、理で割り切れぬ感情など無い、政の外で人や物に執着するような煩悩は持ち合わせていないと、そう思っていた。……だが違っていた」

目を見張って、桓堆は浩瀚の横顔を見つめた。

「今まで、そこまで心奪われるものに出会っていないだけだった。あの方に会って、それを思い知った」
「浩瀚様……」

それは桓堆の予想を裏切る、激しい告白だった。

「らしくないと、笑うか?」

振り返りそう問う浩瀚は、どこか自嘲しているように見えた。

――ああ……。

この方は初めて、ご自分の中に在る『理』より強い『情』というものに気づいたのだ。

「……いいえ」

桓堆は浩瀚を見て、励ますように笑んだ。

「らしくないなんてこと、ないと思います」

この慶国において、女王の恋には未だ禁忌の念がつきまとう。
そんな中で、気持ちの矛先がかの王であることは、浩瀚の行く道を決して平坦にはしないだろう。
それでも桓堆は、より深い『情』を得た浩瀚を、言寿ことほいでやりたかった。
そして彼が本気であるなら……あの緋色の女王にとっても、これ以上相応しい相手は無いはずだった。

浩瀚はそんな桓堆をしばし見つめていたが、やがてその頬にも微笑が浮かんだ。
先程とは異なる、素直な笑顔だった。

「……ありがとう」

桓堆も笑みを残したまま、大きく一揖する。

「恐れながら主上の一贔屓ファンとして、あえて申し上げます。どうぞ、あの方を幸せにしてあげて下さい」

そして、顔を上げると悪戯っぽく付け加えた。

「これより先、主上の頬に涙を一粒でも発見しましたら、冢宰のせいだと断定します。その時は禁軍全てが敵に回ると覚悟して下さい」
「……それは恐ろしいな」
「今の禁軍には、主上に心酔している者が多くおります。万一泣かせたりなさったら、金波宮を無事にはお歩きにはなれませんからね」

桓堆の言葉に、浩瀚は笑みを深くして誓った。

「心しておこう」




                                                                          <終>

                                                                     2007.05.31

見せ付けられた不幸な将軍のお話でした(笑)。
浩瀚は普段左脳で恋愛する人だと思います。

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