『散歩』のおまけ編です。
浩瀚は絶対好きな子をいじめるタイプだと思います(笑)。
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散歩…おまけ
浩瀚が内殿の王の執務室を訪れたのは、冬の日が姿を隠そうとしている夕暮れ時だった。
入室の声を掛けたが返答は無く、浩瀚は一瞬考えたが、結局静かに堂室に入った。
果たして王はそこにいた。
執務机に向かい、一心に筆を動かしている。
周りには書き散らした紙が広がっていた。
手蹟の練習だった。
筆に慣れないと嘆くこの王は、政務の暇を見つけてはこうして練習をしている。
それにしても、素晴らしい集中力だった。
姿勢を正し、きゅっと唇を引き結んで紙と向き合う少女は、彼が入ってきた事に全く気付いていないようだった。
浩瀚は微笑を浮かべ、そっと陽子の背後に回りこんだ。
***
「随分と上達なさいましたね」
背後から突然声をかけられ、陽子は文字通り飛び上がった。
「浩瀚!いつの間に……もうそんな時間か?」
少女はぐるりと周りを見回した。
知らぬ間に、堂室の中は夕闇の浸食が始まっていた。
一日の政務が終わった後のこの一刻余りが、陽子の勉強の時間だった。
時には、祥瓊や虎嘯の場合もあった。
内容もその都度まちまちで、政治・経済・法律や地理といったものから、市井の暮らしや習慣、文学に関してなど、多岐に渡っていた。
今日の老師役は浩瀚で、陽子は彼が来るまでのぽっかり空いた時間を活用しようと、筆の練習をしていたのだった。
「失礼」
浩瀚はつと手を伸ばすと、筆を持ったままの少女の手を包み込んだ。
「えっ……こ、浩瀚?」
触れられる事に慣れておらぬ、陽子の初々しい反応に微笑みそうになるのを押さえながら、さらりと告げる。
「先刻より、この部分に苦慮なさっておいででしたね」
彼女の手を使い、硯で筆を整えると、紙の上を滑らせる。
「力をお抜き下さい」
「ん……」
陽子の頬が僅かに上気するのに気付かぬふりをしながら、筆を操る。
「ここで、若干筆先を持ち上げると宜しいかと」
「……成程。ありがとう」
浩瀚が手を離すと、陽子は今まで呼吸を止めていたように、長く息を吐き出した。
顔が、熱い。
「……浩瀚」
「はい
筆を置いて、陽子は問いかけた。
「その……桓堆は、何か言っていた?」
今日の午前、二人が政務の合間を縫って正殿の園林で逢引をしている現場を、桓堆に目撃されてしまったのだ。
「特に何も。ひどく驚いてはおりましたが」
今まで陽子と浩瀚の関係に全く気付いていなかったらしい桓堆は、実際気の毒になるくらい狼狽していた。
「そっか……」
今度は小さくため息をつくと、陽子は浩瀚の方を見上げた。
「その……ごめん。逃げ出しちゃって」
少女が何を気にしているか思い当たり、浩瀚は微笑した。
禁軍左将軍に見つかった時、陽子は驚きと恥ずかしさでその場を逃げ出したのだ。
少女の性格を考えればそれは予想の範囲内であり、それゆえ浩瀚は桓堆の珍入を恨みこそすれ、陽子に対して不服に思う事などなかった。
いや、どちらかと言うとあそこで立ち去ってくれて良かったと思う。
あのとろりとほどけたこの上なく愛らしい表情を、己以外の男の目に晒すのは耐えられなかったから。
だが。
少女の気まずそうな表情が、浩瀚の悪戯心をくすぐった。
「謝罪には及びません」
陽子に向かって優しい声で告げる。
「主上にしてみれば、拙ごとき者と共にいる所を人に見られるのは、屈辱以外の何物でもございませんでしょう。そこに思い至らなかったのは拙の落ち度。申し訳ございません」
「ちがっ……!そんなんじゃない!」
案の定、彼の若い女王はがたりと床几を鳴らして立ち上がった。
「あれは、突然だったから驚いただけで!私は浩瀚の事、そんな風に思った事は一度もない!」
言い切った陽子の翡翠の瞳が僅かに滲む。
「主上」
予想外の強い反応に、浩瀚は瞠目した。
「……もしかしたら、私は浩瀚を傷つけてしまったのだろうか」
思わず伸ばした手が、宙で止まる。
その腕をすり抜けるようにして、陽子が胸にもたれかかってきた。
「だとしたら、ごめん」
背中に回された手が、きゅっと衣を掴む。
一瞬、胸の内を罪悪感が駆け抜けた。
だが次の瞬間、それを覆うように広がったのは、深い深い幸福感。
己の心無い悪戯を、この少女は何と優しく受け止めてくれるのだろう。
「……いいえ」
緋色の髪を優しく撫でると、少女の顔をそっとすくい上げた。
「私の方こそ、言葉が過ぎました。お許し下さい」
翡翠の瞳の目尻にたまった涙を拭い取る。
「貴方がそんな風にお考えになる方ではないと、承知しております。ただ……」
「……何?」
「貴方の怒ったお顔は大層可愛いので、怒らせてみたくなったのです」
さらりと告げれば、見上げてくる涙の滲んだ翡翠色の宝玉は、途端に強い光を宿し。
「……っ!浩瀚っ!」
「お許し下さい」
「信じられないっ!浩瀚の馬鹿!意地悪!」
「申し訳ございません」
機嫌を損ねた少女を笑顔で宥めすかしながら、浩瀚は一瞬、己が心の深奥を覗く。
――本当に、彼女をからかうためだけだったのだろうか?
『私は浩瀚の事、そんな風に思った事は一度もない!』
本音は、あの言葉を聞きたかっただけなのかもしれない。
***
暫しのやり取りの末にようやく少し機嫌を直した少女に、浩瀚はふと思い付いた顔で告げた。
「そう言えば先程、一つだけ桓堆が申しておりました」
未だ少し頬を膨らませながら、それでも陽子は問い返した。
「……何て?」
「今後主上を泣かせたら、禁軍全体が私の敵に回るそうです」
大きく目を見張った後、少女はたまらず吹き出した。
「禁軍が敵に回ったら、さすがの冢宰もお手上げだろう」
「ええ。金波宮を無事に退出は出来ないかと」
――ですから……。
少女の耳に顔を寄せ、浩瀚は甘い声で誓いの言葉を囁いた。
二度とお泣かせいたしませんよ、と。
<終>
2007.06.23