桜花夜さくらはなよ



浩瀚が、師であり国の太師である遠甫の邸を訪れたのは、日が暮れ、月が回廊の屋根の端に見え始めた頃だった。
黒髪の邸唯一の女御の案内で露台に面した客庁きゃくまに通されると、そこで邸の主を待つ事となった。

ふと、視界の隅で何かが動いた気配に、浩瀚は振り返った。
開け放たれた波璃窓の外に、春の微風に揺れる花枝があった。
ふらりと近付いて、浩瀚は手を伸ばした。

月光と灯明の仄かな明かりに照らし出されていたのは、濃い紅色の八重桜だった。
風に吹かれ花を揺らしながらも凛とした佇まいを見せる桜に、気付けば浩瀚は一人の少女を重ねていた。

邸の主が姿を現したのは、そのすぐ後だった。

   

***


「珍しい表情かおをしておるの」

目的であった国事の相談を済ませ、勧められるままに茶の歓待に応じた浩瀚は、師の言葉に振り向き首を傾げた。

「――そうでしょうか?」
「うむ。拗ねた子供のような表情じゃ」

意表を突かれたように、浩瀚は一瞬目を見張った。
常の怜悧な仮面を崩した徒弟でしを面白そうに見やり、遠甫は窓の外――浩瀚が先程まで無意識に見つめていた桜へと目を向けた。

こちらはもう八重の盛りじゃが、あちらはまだ一重が綺麗に咲き誇っておろうの」

紅い桜に主の女王を重ね、その消息に想いを馳せていた胸の内を見透かされ、浩瀚は口の端を上げ僅かに苦笑した。

「……埒もない感傷です。お見逃し下さい」
「それはますます珍しい」

どうやら遠甫には、浩瀚の望みを叶える気はないようだった。
問いを笑みにくるんで向けてくる視線に、浩瀚は内心で己が未熟さを悔みながらも、結局口を開いた。
師と二人きりで相対すると、どうもかつての松塾時代に気持ちが戻されるようだった。
普段より数倍、心の鎧が薄くなる。

「――ただ、歯がゆいな、と」
「ほう?」

茶杯を置き、浩瀚は月光に浮かびあがる桜を見つめた。

「未だに主上に心おきなく羽を伸ばしていただこうとすれば、延王の御元をお勧めするしかございません。それが何とも歯がゆく……朝を束ねる我が身の至らなさを思い知らされます」

赤王朝は、官民共ようやく落ち着きを見せ始めたばかり。
浩瀚の予想より早くここまで漕ぎつけられたのは、あの生真面目な女王の頑張りゆえだろう。
が、多岐に亘る雁の後押しがあった為なのも、また事実だった。

しかし、それは特別浩瀚を悩ませない。
国対国で為される事に一方的な関係はありえない。
雁にも、慶を助けることで得るものがあるはずだからだ。

浩瀚の感情を波立たせるのは、少女自身が『延王』を必要としている事だった。
自国と官を蔑ろにしているという訳ではなく、ただ、同じ胎果で王である延王の存在と助言が、今の彼女には必要なのだ。
そしてそれは、浩瀚等には決して成り代わることが出来ないものだった。

かつての徒弟の独白めいた台詞に、遠甫はくつくつと喉を鳴らして笑った。

「しかしそれは一時の事じゃ。慶は徐々に道を整えつつある。国が今少し落ち着き、陽子に王としての自信が付いてくれば、流れは自ずと変わるじゃろう」

浩瀚は、恨めしげに小さく目を眇めた。

「ですから、埒もない感傷だと」

時が経てば解決する事だと、浩瀚にも分かっていた。
だが、それでも心にわだかまるものがある。
それはそう、まるで……。

「――しかし老師、拗ねた子供のようとは……些か言葉が過ぎませぬか?」
「そうかの?言い得て妙と思うたが。昔を懐かしく思い出したぞ、浩浩よ」
「――老師……」

かつての小字まで持ち出された冢宰は苦々しい声を上げたが、楽しそうに笑う遠甫に巻き込まれ、やがて表情を緩めた。

茶杯を口に運ぶと、どちらともなく桜に目を向ける。

夜の仄かな光の中でも、艶やかな紅桜。

「――お気持ちを晴らして戻られると良いが」
「……はい」

送り出したのは自分。
だが今は……。

『ただいま、浩瀚』

飾らない笑顔で禁門に降り立つかの女王を夢想し、浩瀚は胸の内でそっと、夜風に身を揺らす桜に呟いた。

どうか、一刻も早いお戻りを、と。




                                                                          <終>


                                                                      2011.05.25

更に『桜白天』を書いていた時に、閣下が『出せ』と主張してきて出来たお話です(笑)。
浩陽というより、浩瀚(子)→陽子(母)のような。

  

 

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