爽やかな(?)後味をお求めの方は、どうぞここまでで。
更にセクハラオヤジ入った浩瀚を見てもいいという方は(笑)…下のおまけへどうぞ。
庭
新緑に彩られた庭院の片隅で、鮮やかな緋色が動いた気がした。
***
初夏を思わせる日差しが眩しい午後。
冢宰府の執務室で、浩瀚は地官府から届けられたばかりの書類に目を通していた。
今秋予定している堤の補修工事に関する調査書だった。
急を要するものではなかったのだが。
――できれば今日中に一度ご覧頂きたいな…。
目で字を追いながら、浩瀚は頭の中で主の予定を反芻する。
確か今日の午後はずっと内殿におられる筈だ。
――今お伺いすれば、多少お時間が頂けるか。
使いをやるより、自身が出向いた方が早いと判断し、浩瀚は下官を呼び幾つか指示を出した後、席を立った。
連なる回廊を渡り、内殿にさしかかった時だった。
ふと視界の隅を何かが横切った気がして、浩瀚は足を止めた。それは、主である少女の鮮やかな髪の色とよく似ている気がした。
だが、改めて見回した庭院には、微風にそよぐ若葉以外に動くものはなく。
内心首を傾げたものの、浩瀚は再び歩き出した。
だがそれが錯覚などではなかったと、程なく彼は知る事になる…。
「誠に申し訳ございません、冢宰」
控えの間で、女王への取次ぎを求めた浩瀚に対し、応対に出た女史……祥瓊は、優雅に膝を折って一礼した。
流れ落ちた紫紺の髪に隠れ、彼女の表情は見えない。
だが、普段より些かきつい声音が、彼女の内面を如実に物語っていた。
「主上はつい先程までこちらにおいででございましたが、ちょっと目を離した隙に、逃げられ……いえ、出奔なさいました」
不本意そうな女史の言葉に、浩瀚はちらりと苦笑した。
「祥瓊には珍しい失態だな」
気位の高い少女の肩が、ぴくりと揺れた。
本日午後の女王の主な予定は、次の祭礼に用いる衣装の選定だった。
勿論、着飾る事に興味がない本人が選ぶのではなく、普段構わせてもらえない鬱憤たまった女御達が、御庫を総ざらいする勢いで選ぶのだ。
そう、 つまるところ、女王の役目は『着せ替え人形』だった。
本来なら職分の違う祥瓊だが、こういう時には必ず女御達から声がかかる。
氾王さえ認めた趣味の良さもさることながら、金波宮において、嫌がる女王の首根っこを押さえて言うことをきかせられる数少ない人材だからだ。
「既に内殿の女御が総出で捜索しております。あと四半刻探して見付からなければ、台輔にご相談するつもりです」
きっぱり言い切る女史に、浩瀚はさすがに主へ同情を覚えた。
あの堅い麒麟にまで話がいけば、女王は祥瓊の小言に加え、その倍に及ぶ彼の諫言と溜息を食わねばならないだろう。
「台輔もご多忙の身。このような些事で御身を煩わせるのは、如何なものであろう」
「ですが……!」
思わず顔を上げ続けた祥瓊を、浩瀚は軽く手を振って止めた。
「実は、主上の居場所に心当たりがある」
祥瓊の目が、大きく開いた。
「本当ですか!?」
「ああ。私がお迎えに参ろう」
「いいえ、浩瀚様。お教え頂ければ、私が参りますわ!」
身を乗り出した祥瓊に、浩瀚は苦笑を向けた。
「今の主上は、そなたの足音を聞いた途端に、再びお姿を隠しそうだが?」
ぐっと黙った女史に、持参した文箱を預ける。
「半刻の内にお連れしよう。それまで待ちなさい」
しばしの沈黙の後、祥瓊は渋々と一礼した。
「……畏まりました」
***
浩瀚は、先程の回廊に戻り、庭院へ降りた。 ここに来るまでにすれ違った女御は、五人。
相変わらず女王は見付かっていないらしい。
木々の合間を縫い、赤いものを見かけた辺りに近付く。
予想した通り、庭師が朝、水をやった土の上には、小さな靴跡が付いていた。
浩瀚は唇の端を上げ、靴跡の向かう先……庭院の奥へと顔を向けた。
靴跡は、程なく下生えの草々の間に消えた。
だが浩瀚は、時折周囲を見回しながら、そのまま奥へと進んだ。
進むにつれ、周りは庭院から雑木林と呼ぶに相応しい景色へと変わっていった。
王宮にはあちこちに呪のかかった場所があり、歩いた距離と時が比例する訳ではない。
多分、ここもそうした場所のひとつだろう。
振り返れば、歩いた距離以上に宮から遠ざかっているのが分かった。
しかし、浩瀚が進むのを躊躇わないのは、野放図に伸びた草木の中に、獣道のような細い道ができていたからだ。
道自体は古いようだが、草木の倒れ方から、最近誰かがここを通った事が分かる。
その推論を証明するかのように、やがて浩瀚の耳に小さな水音が聞こえてきた。
そして更に進むと、突然草木が途切れ、眼前にぽっかりとした空間が広がった。
そこは、大きな人工の池を中心にした広場のような場所だった。
何十代か前の王の時代には、湖を前に茶会や昼食会を催したのかもしれない。
広場の隅には、草に浸食された
「主上」
呼び掛けると、緋色の髪がびくりと動いた。
次いで、ばつが悪そうに振り返る。
「……景麒より先に、浩瀚に見つかるとは思わなかったな」
偶然見かけた事は伏せ、浩瀚はあえて余裕たっぷりに笑んでみせた。
「私の目を盗む事が出来ると、お思いですか?」
「全くだな」
そう言って微笑んだ少女は、常とは異なり、ひどく儚げに見えた。
このような場所まで供も付けずにやって来た軽率さを咎めようとしていた浩瀚の言葉は、喉元で止まってしまった。
一瞬考えた後、口を開く。
「お隣に、座らせていただいても?」
少女はちょっと目を見開いて、それからどうぞ、と頷いた。
浩瀚はさらりと衣を払って、草の上に座った。
「静かな場所ですね」
「うん。水も冷たくて気持ちがいいよ。浩瀚も足を入れてみたら?」
「それは……ご遠慮いたします」
「そう?」
女王も真剣に誘った訳ではないらしい。
小首を傾げると、また遠くをぼんやり見やった。
ぱしゃぱしゃと、水の中で足をかき混ぜる音が響く。
膝頭まで露わになった小麦色の脚を視界に入れぬよう努めながら、浩瀚は口を開いた。
「祥瓊が、探しておりましたよ」
うっと唸って、陽子は隣の男を伺った。
「……怒ってた?」
「ええ」
途端に、陽子の口から細く長い息が吐き出された。
「何と言うか……祥瓊達、きりがないんだ。衣も飾りも色々合わせて、『じゃあこれで』って決めたのに、誰かが『ですが、やはりこちらの
心底うんざりした様子の女王に、思わず笑む。
「彼女達に普段構わせないつけでございますね」
「いい加減、諦めてくれればいいのに」
「延王は、衣服の折り合いに三百年かかったとか」
「……そうだったな」
三百年かぁと呟いて、少女は後ろに手をつき、空を仰いだ。
その様子には、やはり常の精気がなく。
普段纏っている『王』としての殻が取れ、『陽子』という生身の少女と向き合っているようで、浩瀚はいささか落ち着かなかった。
それを紛らわすように、彼は池の対岸に目を向けた。
遠くで、鳥達が会話をするように囀っている。
「……こちらへはよくお越しになるのですか?」
「時々」
少女はためらった後、口を開いた。
「蓬莱は、侘び寂とか空白の美を重んじる気風があって……金波宮のきらびやかな装飾品に囲まれていると、時々……本当に時々だけど、密集した美の様式が、息苦しくなる時がある」
「そんな時に、ここに来られるのですね」
うん、と小さい頷きが返った。
「ここに来ると、ほっとするんだ」
こちらではお伽話のように思われている『蓬莱』で育った少女。
王として、日々成長し、こちらの常識に戸惑う事も少なくなったように見えてはいたが……価値観も美意識も異なる世界で育った彼女が本当の意味でこちらに馴染むのは、まだまだ時がかかるのかもしれない。
風が、ふわりと少女のうなじに漂う後れ毛を揺らした。
「……あちらが、お懐かしいですか?」
問うつもりのなかった問いが、ふと、口を突いて出た。
「そうだな……懐かしくないと言ったら、嘘になる。けど……」
陽子は考えるように、言葉を切った。
「今の私にとっては、多分それは子供時代を懐かしがるのと一緒なんだ。懐かしいけど、帰りたいわけじゃない」
不意に、陽子は水中から足を振り上げた。
一際大きな水しぶきが上がる。
きらきらと光に輝く飛沫を浴びながら、少女は振り返り、艶やかに笑んだ。
「私はこちらで、皆と共に生きたいから」
『女王』の笑みで言い切る声に、もはや迷いは無かった。
不意に目にしたその笑顔が眩しくて、浩瀚は思わず目を細めた。
「さあ、いつまでも逃げ回っていても仕方ないな。浩瀚、帰ろうか」
「はい」
『女王』に戻った彼女にほっとすると同時に、たった今、目の前にいた儚げな『少女』が消えてしまった事を残念に思った。
だが、それも一瞬のこと。
池から足を抜き、勢いよく立ち上がろうとした少女に気付き、浩瀚は制止の声を上げた。
懐から手巾を取り出し、広げる。
「お上がりになる前に、おみ足をお拭きします」
「いや、いいよ。このまま靴を履いてしまえば、そのうち乾く」
尻込みする少女に、浩瀚は整った笑顔を向けた。
「靴が傷みます。これ以上、女御や女史を怒らせたいのですか?」
ぐっと、陽子は詰まった。
「それは……避けたいな。では裸足で帰る」
「賛同いたしかねます」
即答して、浩瀚は、ああ、と、妙に楽しげに付け加えた。
「どうしてもおみ足を拭くのがお嫌だとおっしゃるなら、恐れながら拙がお抱き申し上げ、宮までお運びいたしますが」
「………やめておく」
結局陽子は水から上げた足を、大人しく浩瀚に任せた。
水滴を丁寧に拭き取り、脱ぎ捨てられていた靴を履かせると、浩瀚は少女が立ち上がる前にその甲に唇を寄せた。
「こっ……浩瀚!何をっ……!」
絶句する少女を見上げ、男はふわりとした笑みを浮かべた。
「貴方が私の王であることに、感謝を」
それは、慶という国に明るい初夏のような光が差し始めた頃。
忘れられた庭の片隅で起こった、ある女王と冢宰の話。
<終>
2008.06.18