帰国
「ああ、見えてきた」
付き従う下官の一人が思わずと言った風情で呟いた声が、風に乗って浩瀚の耳に届いた。
騎獣を駆りながら、前方にうっすらと浮かぶ山並みを見つめる。
巧と慶の国境となる高岫山。
あれを越えれば、もうそこは慶だ。
――やっと、戻ってきた。
冢宰を正使に、文官六人と随従数人が外交使節として範に派遣されたのは、二月前。
騎獣でひたすら範を目指し、辿り着くまで十日。
そうして迎えられた範の王宮で滞在すること一月半。
その間、慶と範の今後の国交の具体案を詰め、一方で氾王の許可を得て、自身はもとより下官達にも範の各地を視察させ、今後の慶の参考になりそうな事を吸収させた。
非常に目まぐるしかったが、成果もあり充実した日々だった。
だが一方で、浩瀚は表には出さねども、時折心に広がるぽっかりとした空しさをもて余していた。
それは自国で政務に励んでいた時には、ついぞ感じた事のない心持ちだった。
理由は分かっていた。
主たる少女の、側に居ないためだ。
思えば、冢宰として近侍するようになってから、こんなにも長くかの王の傍らを離れるのは初めてだった。
あの燃えるような緋色の髪。
意志の強さを感じさせる翡翠の瞳。
しなやかで生命力溢れる四肢。
そして、己に向けられる無邪気な笑顔。
それらに無性に会いたかった。
たった二月彼女と離れただけで、かくも空しさ淋しさを感じるとは、浩瀚自身予想していなかった。
もともと範での滞在予定は二月だった。
それを浩瀚は超人的な処理能力と行動力で、予定の三分の二の日数で政務を片付けてしまった。
そんな彼に範の官吏達は『さすが慶王の懐刀』『慶の冢宰は、噂に違わぬ切れ者よ』と、直接間接問わず賞賛を贈った。
だが彼等も己の原動力を聞けば呆れ返るに違いない。
ただ早く慶に戻り、王に会いたいだけなのだから。
――まるで麒麟のようだな。
自らの心を振り返り、浩瀚は苦笑を漏らす。
だが一方で、久しく感じることのなかったそうした気持ちを、味わい楽しんでいる自分がいる。
「全く度し難いな……」
「閣下?」
呟いた言葉に、前を行く文官が振り返る。
「いや、何でもない」
高岫山が目前に迫っていた。
堯天まで、金波宮まで、あと少しだった。
***
慶と巧の国境である
「お役目、お疲れ様でございました」
兵士数人を背後にそう言って跪拝したのは、
「桓堆」
僅かに目を見張った浩瀚に、禁軍左将軍はにこりと笑んだ。
「主上の命で、お迎えに参りました」
桓堆の笑みに誘われて、浩瀚も微笑を浮かべる。
「お忙しい将軍自らお出迎えとは、痛み入る」
「主上におかれましては、浩瀚様のお戻りを首を長くしてお待ちで」
言いながら、浩瀚の趨虞の手綱を受け取る。
「……ですがこいつも皆さんも、ちょっと休憩した方が良さそうですね」
桓堆の視線を辿って背後を見れば、文官達の顔には色濃い疲労が浮かんでいる。
どうやら祖国に足を踏み入れた途端、気が緩んだらしい。
対して浩瀚はと言えば全くいつも通りで、その立ち居にも疲れの色は欠片も見当たらない。
「その様だな。丁度、慶に入ったら休ませようと思っていたところだ」
「今日は一体、どのくらい飛んで来たんです?」
「夜明けと共に出立してからここまで、一気に。皆、早く慶に帰りたがってな」
今は
優に二刻半は飛んで来た訳だ。
桓堆は呆れ顔でため息をついた。
「無茶をなさる。いくら気が
「化け物とは、またひどい言われようだな」
桓堆の遠慮のない物言いに、思わず苦笑する。
「ですが当たっているでしょう? ……さて、では随行の皆さんはあちらの建物でしばらくお休み頂くとして、浩瀚様はどうします?」
「私は下手に休むとかえって疲れが出そうだ。しばらくその辺りを散策してこよう」
「分かりました。……そこの新入り」
桓堆は背後に控える兵士の一人を振り返る。
「冢宰の護衛を」
「はい」
「他の者は随行の方々をご案内しろ」
「はっ!」
きびきびと命令を下す左将軍の声を背に聞きながら、浩瀚は脇に広がる雑木林の中へと歩き出した。
***
林の中はひんやりと湿った空気が漂っていた。
下生えの草の柔らかい感触を靴の裏に感じながら、浩瀚は林の奥へと進む。
やがて背後の喧騒が完全に消えたところで足を止めると、ゆっくりと振り返った。
「……相変わらず、神出鬼没でいらっしゃる」
「何だ、気付いていたのか」
小柄な兵士が、おどけた口調と共に顔を上げる。
浩瀚に真っ直ぐ向けられた瞳は、新緑のような緑。
「私が貴女を見逃す事があるとお思いですか?」
門闕で出迎えを受けた時に驚いたのは、何も桓堆にではない。
彼の背後の少女に気付いたからだった。
「浩瀚」
少女が駆け寄り、浩瀚の首に腕を回す。
頭を覆っていた布が落ち、緋色の髪が流れ落ちた。
浩瀚は少女の体を抱き上げた。
「主上」
「……会いたかった」
愛しい少女の言葉に、嬉しさが込み上げてくる。
「私もです。貴方に会えない日々が、こんなにも味気ないものだとは思いませんでした」
蕩けるような甘い笑顔でそう告げると、少女の朱唇を引き寄せる。
ついばむような接吻を繰り返した後、物足りなくなりゆっくり舌を滑り込ませれば、
「んっ……」
微かに陽子が身悶えし、それが浩瀚の情欲に火を付けた。
歯列をなぞり、その奥の少女の舌を絡め取る。
徐々に息を乱れさせる陽子の耳朶を優しく弄い、更に彼女が弱い首筋を撫で上げた。
「あっ……!」
途端に少女は短い叫び声をあげて、唇を離した。
「こら待て!この場で襲う気か?」
「これは失礼。つい度を越してしまいました」
しれっと答える浩瀚を、陽子は赤くなった顔で睨み付けた。
「まったく……いきなりフェロモン全開でくるんだから」
「ふぇ……何ですか?」
「何でもない!」
かぶりを振って、若い女王は浩瀚の頬に手を伸ばした。
両手で上向かせると、表情を改めて彼をじっと見つめる。
柔らかい沈黙。
どこか神聖な気持ちで、浩瀚は少女の視線を受け止めた。
「おかえり」
「……はい。ただいま帰りました」
陽子はふっと表情を緩めた。
「金波宮で王と冢宰として会う前に、どうしても私個人として浩瀚に『おかえり』って言いたくて」
「……それでここまで来て下さったのですか?」
うん、と頷いて、陽子は恥ずかしそうに少し笑った。
「子供じみていたかな」
浩瀚は少女の髪を手に取り、口付けた。
「いいえ。とても嬉しゅうございます」
慶を支える陽子がいかに多忙の身か、他でもない浩瀚が誰より知っている。
その彼女が、己の為だけにはるばるここまで迎えに来てくれた。
これが喜ばずにおれようか。
「ですが、よく台輔と桓堆を説得できましたね」
「まあね。ちょっと大変だったけど」
***
当初、景麒に黙って金波宮を抜け出そうと考えていた陽子は、まず桓堆に相談を持ち掛けた。
「左将軍、冢宰が巧国に入ったそうだ。巧と慶の国境まで迎えに行ってもらいたい」
その一行にこっそりまぎれこみたいのだと言う王に、桓堆は困ったように苦笑した。
「本音を申し上げればお止めしたいところなのですが。そうしたら主上は一人で行こうとなさるでしょうから、あえて反対はしません」
とかく身軽に動き回る事を好むこの王が、脱走前にこうして桓堆に相談するようになっただけでも、大変な進歩だ。
「じゃあ……」
ぱっと表情を明るくした陽子に、桓堆は釘を刺した。
「ですが、恐れながら条件があります」
「条件?」
「はい。まず、台輔にちゃんとお話し頂く事。その上で使令を付けてもらって下さい」
陽子は途端に顔をしかめた。
「桓堆が一緒に来てくれるんだろう?水禺刀もあるし、そこまでする必要があるのか?」
「今回は、禁軍から大人数の護衛を付ける訳にはいきませんからね。念には念を入れて、です。主上はご自分の身の安全というものを、いつも軽く考え過ぎですから」
信頼する禁軍左将軍の言に、陽子は諦めてため息をついた。
「……分かった」
「それともう一つ」
「まだあるのか?」
「はい。今回はあくまで主上個人の事となさるおつもりなんでしょう?」
「ああ」
「でしたら、王としてのお務めはして頂きませんとね。使節が帰国した時には主上はじめ、台輔、六官、揃ってお迎えなさるのが通例です。それまでに宮にお戻り下さい」
「……つまり、浩瀚と会ったら一足先に帰って来いと?」
「そういう事です」
――それでは浩瀚に会えるのは、ほんの短い間だけではないか。
思わずそう声に出しそうになったが、すんでのところで飲み込んだ。
確かに、今回の事は陽子の私的なわがままだ。
であれば、王としての務めを妨げてまで押し通すべきではない。
そう思い直したのだ。
若い女王はそういう部分で至極真面目だった。
陽子は床几の背もたれに身を預けた。
「……仕方無い。桓堆の言う事に従おう」
「お聞き入れ頂き、ありがとうございます」
頭を下げる左将軍を、女王は浮かない顔で見やった。
「ただ……」
「ただ?」
「景麒を説得できる自信がない」
その憮然とした様子に、桓堆は吹き出した。
「大丈夫ですよ。普段色々仰っても、台輔は常に民の幸せと共に主上の幸せも願っておいでです。王が心底願う事を邪魔する麒麟など、この世におりませんよ」
桓堆の言う通りだった。
恐る恐る話を切り出した陽子に、景麒は盛大な小言を並べつつ、だが最後には彼女の願いを叶えてくれたのだった。
***
「……そうでしたか」
「うん。……だから、そろそろ行かなくちゃ」
浩瀚がちらりと背後を見れば、台輔の使令が地面より体半分を覗かせていた。
名残惜しそうに、陽子は浩瀚の腕の中から地面に降り立った。
「……じゃあ、後で金波宮で」
「はい」
そう言いながら未だ浩瀚の衣を離し難い様子の少女に微笑み、耳元に顔を寄せる。
「……ありがとう」
王と臣下としてではなく、一人の男として、恋人である女に。
敬語を省いた礼の言葉に乗せた気持ちは、相手に伝わったらしい。
陽子はぱっと破顔すると、伸び上がって浩瀚の唇を軽くついばみ、身を翻した。
「班渠!」
一瞬にして使令が全身を現し、陽子の体をすくい上げて空へと飛び立つ。
しばらくすると、どこからともなく護衛であろう騎獣が二騎現れ、陽子の後を追って行った。
三つの人影が見えなくなるまで見送ってから、浩瀚は雑木林を出た。
***
林の入り口には、禁軍左将軍が立っていた。
「行かれましたね」
「ああ。……色々すまなかったな」
皆のいる方へと歩きながら、桓堆はにやりと笑った。
「いいえ。主上の嬉しそうなご様子と、浩瀚様のその緩んだお顔を見れただけで、元は取れましたよ」
浩瀚はつるりと頬を撫でた。
「……そんなに緩んでいるか?」
「それはもう。最も、付き合いの長い我々元麦州の人間にしか分からない程度でしょうがね。それにしても、わざわざ出迎えに来られるとは、可愛らしい恋人で」
常の冢宰としての落ち着きを取り戻した浩瀚は、悠然と微笑んだ。
「羨ましいか?」
「おやおや、今度は
桓堆は笑って首を竦めた。
「俺はもう少し大人しくて、国も麒麟も付いていない恋人がいいです」
「こればかりは仕方がない。惹かれた方が、結果的にそういう立場の方だったのだから」
「ふーん」
言葉を切って、桓堆は半歩先を歩く冢宰を見つめた。
「浩瀚様でも考える事があるんですか?主上がだだの一人の女の子だったら……とか」
浩瀚は微かに首を傾げた。
「私がお慕いしてるのは景王であるあの方だ。そうでないあの方を考える事は出来ないし、あの方の支えとなる今の立場にも満足している。ただ……」
「ただ?」
「もしあの方が只人であったなら、屋敷に閉じ込め、誰の目にも触れさせずに独り占めできただろうに、と、残念に思う事はある」
桓堆はしばし絶句した。
「……酒の席でも、こんなに素直な貴方は見た事ありませんよ」
「さて。やはり少し浮ついているのかもしれないな」
微笑を浮かべた浩瀚は、言葉とは裏腹にまったく冷静そうで。
「全然そうは見えませんが」
「相手がお前とは言え、そう何度も読まれていては冢宰として失格だろう?」
二人が休息所の前の広場に着くと、しばしの休憩を取った部下と禁軍は出発の用意を整えていた。
浩瀚は生気の戻った部下達に声を掛けた。
「では出発しようか。金波宮へ……我らの帰る場所へ」
***
禁軍兵士数人を先触れに冢宰等一行が金波宮へと帰還したのは、午後も遅くなってからだった。
一行は簡単に旅装を解くと、すぐさま帰国の報告をすべく正殿へと導かれた。
殿内に入ると、台輔、太師、六官、その他高官等が揃って冢宰の帰国を出迎えた。
そして玉座にはむろん、王の姿。
居並ぶ諸官の間を抜けて玉座の
女王は皆の顔を上げさせ、一行に向かってよく通る声で労った。
「冢宰浩瀚、そして他の皆も、この度の重役ご苦労だった」
浩瀚は玉座を仰ぎ見、怜悧な顔に微かな笑みを浮かべた。
やっと戻ってきた。
ここが己の居場所だ。
いつでも、この緋色の王の元が、浩瀚の帰る場所。
優雅に一揖して、浩瀚は答えた。
「ただいま戻りました、主上」
<終>
2007.10.25