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自鳴琴
範より、浩瀚等外交使節団が戻った日。
一行は王に帰国の報告だけ済ませると、休暇を与えられた。
だが冢宰である浩瀚だけは地位の上でそれが叶わず、内殿の王の執務室で留守中に浮上した処理を急ぐ諸問題について、王より諮問を受けていた。
だがそれも半刻程で片付いた。
「帰国早々済まないな、浩瀚」
「いいえ」
まとめ上がった書類を文官に渡して退出させると、陽子は先刻女御が置いていった茶器で自ら茶を入れ始めた。
茉莉花茶の芳香が、房室の中に広がる。
浩瀚は勧められた床几に腰掛け、茶器を受け取った。
王の手づから茶を振る舞われる事に最初はかなりの違和感を感じたものだが、陽子に無理やり付き合わされている内に、いつの間にか慣れてしまった。
そんな風に、気付けばこの王に染められていた事がいくつもある。
香りを楽しんだ後、一口口に含んで、浩瀚はこちらを伺っている少女にゆったりと笑んだ。
「美味しゅうございます」
「本当?良かった」
嬉しそうに言って、陽子は自分の茶器に手を伸ばした。
「主上」
「ん?」
「今宵、正寝へお伺いしてもよろしいですか?」
少女の翠の双眸が丸くなった。
「今日の今日で疲れてないのか?今晩くらい官邸でゆっくり休んだらどうだ」
「主上を腕にお抱き申し上げて休むのが、私にとって一番疲れが取れるのですが」
顔色ひとつ変えずしれっと告げられ、陽子の頬に朱が昇る。
「……ばか」
笑みを深め、浩瀚は茶器を卓に置いた。
「つれない事をおっしゃられますな。この二月、主上に会えず拙がどんなに切ない思いを噛みしめていたか、お察し下さい」
「だがら、そんなフェロモン全開で迫るなって!」
いつの間にか手を握られ、さりげなく腰を引き寄せられている状況に、陽子は更に顔を赤くし逃れようともがいた。
だが浩瀚の腕は、優しいくせに微動だにしなくて。
結果、ぞくりとするような甘い笑みを浮かべた彼の視線を、まともに受け止める事となった。
「主上」
――よろしいですか?
琥珀の瞳に見つめられ、背中に甘い痺れが走る。
「……だめだ」
きゅっと睨みつけて、陽子は何とか声を搾り出した。
「誤魔化されないぞ。疲れてないはず、ないんだから。正寝に来るのは駄目だ。……私が官邸に行く」
浩瀚は微かに目を見開き、やがて嬉しそうに少女の額に唇を落として答えた。
「御意」
***
その夜。
お忍びで冢宰の官邸を訪れた陽子を出迎えたのは、薄い白の長袍を纏った浩瀚自身だった。
「お待ち申し上げておりました」
柔らかく笑む邸の主の姿に、とくんと胸が高鳴る。
初めて見るわけではないのに、見慣れた官服ではなく私服を纏った浩瀚は妙に艶があり、陽子は見ているといつもなぜか頬が熱くなった。
「どうぞ、こちらへ」
そんな少女の様子を知ってか知らずか、浩瀚は少女の手を引き、私室へと誘った。
何度か来た事があるそこに一歩入ると、陽子はほっと息をついた。
天井まで続く書架。
そこに整然と並ぶ本。
房室中に満ちる紙と墨の匂い。
そしてかすかに漂う浩瀚の香の香り……。
持ち主の全てが詰まっているようなこの空間が好きだった。
周囲を見回していた少女の視線は、一点で止まった。
窓際の小卓の上に、薄い紗にくるまった小さい包みがぽつりと置かれている。
立ち止まった少女の背後から浩瀚の手が伸び、卓から包みを持ち上げた。
「お目敏い。これは、主上へのお土産です」
「本当!?」
きらりと目を輝かせる少女を榻に導き自分の膝の上に座らせると、包みを彼女の掌の上に乗せる。
「開けてみていい?」
「勿論」
薄桃色の包み紙を解いていくと、中から銀の細工の美しい小箱が現れた。
小箱の外側には、小さなねじが付いている。
「これって……」
目で促されて、陽子は小箱の蓋をそっと開けた。
途端に流れ出てきたのは、可憐な金属の音色。
「オルゴール、か?」
更に驚いた事に、演奏されているのは蓬莱の曲、『さくらさくら』だった。
「浩瀚、これどうしたの?」
目を見張って、陽子は浩瀚を仰ぎ見た。
「十数年前、範にやって来た海客が作ったのだそうです。こちらでは『自鳴琴』と言います。彼は故郷でこうした細工物を作る職人だったとか。他にも色々な技術を範に伝えたのだそうです」
「……その人は?」
「今はもう……」
「そうか……」
懐かしそうに、そしてどこか寂しそうな表情で、陽子は何度もねじを巻いては耳を傾けている。
その様子を優しく見つめながら、浩瀚が尋ねた。
「これは主上が以前口ずさんでいた曲ですね」
「よく覚えているな。この曲は小学校に入って初めての音楽の授業で習ったものなんだ。蓬莱の人間なら誰もが知っている。……私は、この曲がとても好きだった」
一瞬、陽子の脳裏に、かつて過ごした日本の風景が蘇った。
母と共に初めてくぐった、小学校の校門。
校庭の隅に咲く大きな桜の木。
音楽室のぎしぎし鳴る古い床……。
それらは切ない郷愁を呼びはしたが、以前感じたような辛い喪失感や孤独感を伴うものではなかった。
その理由を、陽子は知っていた。
そっと、浩瀚の胸に頭を預ける。
「……ありがとう。とても嬉しいお土産だ」
浩瀚の、こんな所が大好きだと思う。
彼は胎果の自分を決して否定しない。
そして、陽子が心の片隅に持ち続けている望郷の念もちゃんと分かって、時にこうして慰めてくれる。
自分を理解してくれる人がいるという事。
それがどんなに大切で心強い事か、今の陽子には分かっている。
「お喜び頂けて、私も嬉しゅうございます。ですが……」
浩瀚はそっと陽子の手の中のオルゴールを取り上げて、脇に置いた。
「浩瀚?」
「そろそろ主上の注目を集めるこの小箱が、憎らしくなってきました」
「そんな子供みたいな……」
抗議する陽子の頭から簪を抜き髪を解くと、小柄な身体をふわりと抱き上げる。
「夜も更けました。主上におかれましては、ご就寝のお時間かと」
「……どうせ素直に寝かせてくれないくせに」
ぼそりを呟いた腕の中の少女に、浩瀚は微笑んでしれっと答えた。
「大変良くお分かりで」
明かりが消え無人となった房室に、しばらくオルゴールの音色だけが響いていた。
<終>
2007.11.05