剣舞<後>



浩瀚の名前が出た途端、禁軍兵士の中で声にならないどよめきが広がった。
見渡せば、それは殆どが麦州出身の兵士達だった。
女王は、斜め後ろに控える男を振り返った。

明晰な頭脳で他国の王にまで名を知られる彼女の冢宰は……珍しく固まっていた。
それは桓堆のこの申し出が、浩瀚にとって全くの不意打ちである事を物語っていた。

「浩瀚、剣舞が出来るって本当?」
「……主上」
「それも実は名人級、とか?」
「――主上」
「見たい!見てみたいぞっ!」

目を輝かせて身を乗り出した少女に、我を取り戻した浩瀚は宥める様な口調で言った。

「確かに昔、嗜んだことはございますが……既に剣を置いて久しい身です。お目汚しになるだけかと」

陽子は小さく首を傾げた。

「剣舞の事はよく知らないが、一度身に付けた武芸は一生抜けないものだと聞く。剣舞もそうじゃないのか?まして、名人と呼ばれる程、研鑽を積んでいたのなら」
「……名人などと、恐れ多い」
「無駄な謙遜はせぬ事だ」

陽子の隣から、景麒が口を添えた。

「麦州候の剣舞の噂は、私も耳にした事がある。大層な舞い手と聞いたが?」

――主上のお望みを、断るつもりか?

微かに細められた霊獣の目は、はっきりとそう告げていた。

念を押されるまでもない。
期待を込めて見上げてくる、翡翠の瞳。
この瞳に逆らえる者が、果たしてこの国にいるだろうか?

「……では、拙い舞ではございますが」

一揖した浩瀚に、少女は嬉しそうに破願した。

***


きざはしを下り地階へ降り立つと、浩瀚は祭礼用の大きな冠を取り、そこに控えていた兵士に渡した。
次いで官服の襟を緩めると、おもむろに右肩を抜く。
現れた緋色の袖の鮮やかさが、注目する人々の目を射抜いた。
浩瀚の準備はそれだけだった。

手渡された剣を手に、桓堆が待つ広場の中央へと進む。
左将軍はにこやかな笑みで、浩瀚を迎えた。

「このような場でお手合わせを願うのは、久しぶりですね」

『浩瀚様、少し相手をしていただけませんか』

数日前、突然官邸にやって来た桓堆を思い出す。

『右将軍と練習しているのですが、いまいちかみ合わなくて。ただ、どこがどう、というのが分からないんです。一度違う人とやってみれば、はっきりすると思うのですが。……少しお時間を頂けませんか?』

いつもの人懐っこい笑顔で、だが、妙に強引に頼み込んできた、桓堆。
今この状況になってみれば、あれは浩瀚に対する試しと肩慣らしだったと分かる。

「どうやら、お前の策に見事に嵌ったようだな」

見る者を凍らせるような浩瀚の微笑は、しかし桓堆には効かなかった。

「相手が貴方ですからね。気付かれないように苦労しました」

飄々と答えると、広場の一角に待機する楽隊に合図する。

しゃん、と、一斉に鈴が振られた。

声を揃えて詠される、戦闘の長唄。
浩瀚と桓堆は、互いに抜き身の剣を提げたまま、ゆっくり円を描き始めた。

「俺はね、浩瀚様」

ひたと相手を見据え、桓堆は浩瀚にしか聞こえない程の声で、語りかけた。

「俺は貴方の剣舞を、主上と禁軍の奴らに見せたかったんですよ。麦州で、『百年に一度の舞い手』と称された、貴方の剣舞を」
「私は既に剣を置いた老兵だ。手本なら、お前の方がよっぽど良いだろうに」
「まぁ、普通にお願いしても、そう仰って受けて下さらないだろうと思いましてね。主上を巻き込みました」

――貴方が主上のお願いをお断りするはず、ありませんからね。

にこやかに言い放った桓堆に、浩瀚の冷徹な微笑の仮面が緩んだ。

「――私はどこでお前の育て方を間違えたのかな」
「さて。ただ、俗に徒弟でしは師の背中を見て育つ、と言うそうですよ?」

今度こそはっきりと、浩瀚は苦笑した。

二人は同時に足を止めた。
そして次の瞬間、持ち上げた桓堆の腕が、目にも止まらぬ速さで繰り出された。

浩瀚がすいっと首を傾ける。
その耳すれすれの空気を、剣が切り裂いた。
右・左・左・右。
鈴の音に合わせて鋭く繰り出される剣を、すべて紙一重で避けていく。
最後に浩瀚の足元を狙って出された一撃に、ふわりと背後に飛びすさった。
春に舞う蝶の様に、軽やかな動き。

着地した浩瀚は、すぐさま攻撃に転じた。
剣がひゅっと唸る。
目前に迫った浩瀚の剣を、桓堆は己の剣で受けた。
高く響く金属音。
桓堆は一瞬眉に力を入れた。
予想以上に重い剣筋だった。

「……本気で来ましたね」
「当然だ。お前相手に手を抜いたら、私が怪我をする」
「ご謙遜を」

ぱっと離れて、再び切り結ぶ。
一合、二合と打ち合いながら、桓堆は心底感心した。
動き辛い筈の正装で、この動き、この力だ。

「貴方が本気を出されたら、今でも俺は敵わないと思っていますよ。剣舞でも、剣技でも」
「それこそ謙遜だ」

つばを合わせた剣越しに桓堆を見上げ、浩瀚は笑みを刷く。

「力も技も、お前の方が揃っている。私を支えているのは、意地だけだ」

桓堆は一瞬目を丸くし、笑った。

「成程。ですが貴方の場合、それが一番怖い」

しゃん、と鳴る鈴の音。

浩瀚は、合わせた剣を桓堆の体の外側へと倒す。
それに逆らわず、桓堆は体を回転させて剣を解き、三度、浩瀚から離れ、構えた。

「――いつも通り、いいですか?」
「ああ。構わない」

普段と全く変わらぬ男の声音に、桓堆はにっと笑った。

「では、遠慮なく参ります」

***


蒼天を突き抜けるような、高い歌声。
独特の節回しと鈴の音で奏でられる戦闘の長唄に合わせて、白と赤、黒の色彩が、緩く、また鋭く絡み合い、離れる。

身を乗り出すようにしてそれを眺めていた陽子は、無意識の内に詰めていた息をほっと吐き出し、床几いすの背もたれに身を預けた。

「……凄いな」

陽子の見たところ、それは白兵戦における剣技の型を組み合わせたものだった。
ひとつひとつは陽子も殆んど知っている、剣の基本の型だ。
それを組み合わせ、応用し、流れよくまとめたもの。
だが、それはただ『舞』というには激しすぎた。
あらかじめ動きは決まっているのだろうが……身のこなしといい、緊迫感といい、既に模擬試合に近い。

特に浩瀚の動き。
冢宰の正装は、決して軽くも動きやすくもない筈だ。
だが、桓堆相手に軽やかに剣を振るう浩瀚に、そんな気配は微塵もない。
大胆で切れの良い所作を見せる桓堆に対し、素早く、しかしどこか優雅な浩瀚の舞。

「……遠甫」

陽子は景麒の向こうに座る太師に声をかけた。

「浩瀚はもしかして……相当に剣も扱えるのではないですか?」

遠甫の目が、小さく笑う。

「若い頃は、軍と官、どちらからも勧誘を受けておったの」
「……やっぱり」

この動きを見れば分かる。
桓堆から十本に一本は取れるようになった陽子でさえ、面と向かって対峙したら勝てるという自信がない。

「実は、桓堆に剣舞を教えたのは元々浩瀚での」
「本当ですか?」

驚いて目を見張る陽子に、遠甫は頷いた。

「じゃから対照的な様に見えて、実は似通っている部分も多い。調和が取れておる所以じゃの。……この麦州の『二人剣舞』は、特に揃った実力がないと舞うのが難しいのじゃが、桓堆が浩瀚に比肩する力を付けた後は、折につけ二人で舞っておったのう。その度に沢山の見物人が集まったものじゃ」
「そうだったんですか」

次々現れる新事実に驚きを隠せない陽子に対し、遠甫は「あぁ」と声を上げ、眼下を指し示した。

「始まるようじゃ」
「何がですか?」

その途端、歌の曲調が変化したのに気付く。
遠甫は目を細め、髭をしごきながら答えた。

「麦州のこの剣舞が、特別である理由じゃ。――即興が入るのじゃよ」

***


広場の左右に控える禁軍の兵士達が、ぐっと身を乗り出すのが見えた。
速度を上げた曲調に合わせ、浩瀚と桓堆の動きも激しさを増す。

相手の剣を受け、薙ぎ払い、避け、突く。
ぎりぎりまで研ぎ澄まされた、その動き。

「……これ、本当に即興なんですか?」

目を離せないまま、呟くように尋ねた陽子に、遠甫は笑って頷いた。

「即興なんじゃよ」

息のぴったり合った二人の動きに、観衆の中にもどよめきが走る。
やがてそれは徐々に歓声となって、広場全体に広がった。

「……まったく。何が、『桓堆の右に出る者はいない』だ」

二人を包む歓声を聞きながら、陽子は苦笑して前髪をかき上げた。

「……本当に何でも出来る奴だな」

***


主の呟きは、隣に居た景麒の耳にかろうじて届く程の、小さなものだった。
だがそこに宿った、呆れる様な愛しむ様な響きを、景麒は確かに感じ取った。

赤楽王朝はまだ始まったばかり。
これからも幾多の苦難が、この女王を待ち受けていることだろう。

――だが、どうか。

熱心に広場を見つめる少女の横顔に、景麒は強く思う。

――どうかこれからも、このように幸せそうな笑顔を少しでも多く拝見できますよう……。

祈るように一瞬目を閉じ、景麒は再び眼下で続く華やかな剣舞に目を戻した。


この日。

慶東国赤楽王朝は、二十年目の一歩を踏み出した。




                                                                           <終>

                                                                      2008.01.17

イメージ:『INNOCENCE.O.S.T』 ~傀儡謡―怨恨みて散る~ 他

 

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