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剣舞<前>
金波宮は、朝からざわざわとした喧騒に包まれてた。
行き交う官吏達は笑顔で挨拶を交わし、常より華やかに装った女御達は、忙し気に、だが生き生きと立ち働いている。
遠くで太鼓の音がする。
間遠に打ち鳴らされるその音は、雲一つなく晴れ渡った蒼穹に溶ける様に吸い込まれていく。
この日。
慶東国赤楽王朝は、二十年目の正月を迎えた――。
***
「禁軍左将軍が目通りを願っております」
女御の一人がそう奏上した時、陽子は内殿の一室で大裘から襦裙へ着せ替えられている只中だった。
「桓堆が?」
「陽子、動いちゃだめよ」
髪を結っていた鈴が、振り向いた陽子の首を戻す。
「桓堆が来たんだ。適当でいい。もしかしたら急ぎの用かもしれないし」
「大丈夫よ。待たせておいても」
陽子の帯を締めながら、祥瓊があっさりと言った。
「火急の用件なら、台輔か冢宰もご一緒にお越しになるわ。そうじゃないんだから、四半刻位待たせておいても大丈夫よ」
「将軍も、お召し替えが済んでからで良いと」
追い討ちをかけるような女御の言葉に、少女はため息を付いた。
それを見咎め、祥瓊は柳眉を釣り上げた。
「年に一度の事でしょ。いい加減に諦めなさいな」
「だって重要な郊祀は終わったし、あとは高官との謁見と禁軍の閲兵式だけだろう?いつもの官服でいいじゃないか」
「だめよ」
忙しく手を動かしながら、有能な女史はきっぱりと告げた。
「良いこと?年が改まって、今日はみな新たな気持ちで王を見上げる日なのよ。『この美しく立派な王の為に、今年も一年頑張ろう』って奮起させるのが陽子の務めでしょ。貴方は相変わらず威が足りないんだから、こういう時に見せつけなきゃ」
「……鈴ぅー」
友人の助けを求める声に、鈴は困ったように苦笑した。
「祥瓊の言う通りだと思うわ。今日一日は大人しく王様の格好をしていることね」
この国で至高の位にいる筈の少女は、深い深いため息をついた。
***
堂室に通された桓堆は、主の前へと進み、新年を寿ぐ言葉と共に歸拝した。
「待たせて悪かったな」
「いえ。お陰で主上の麗しいお姿を一番に拝見できるという褒美を賜りました」
「止せ。祥瓊達を喜ばせるな」
女王は、艶やかな襦裙姿にそぐわぬ渋面で将軍の言葉を遮った。
だが祥瓊と鈴には、しっかり聞こえていたようだ。
『ほらご覧なさい』と陽子に目で告げて、退出していった。
一部始終を見ていた桓堆は、苦笑を浮かべた。
「相変わらずお召し物の件では、ご苦労なさっているようですね」
まあ、そのお気持ちも分かりますがね、と言って肩をすくめた桓堆も、今日は常になく華やかだった。
今を時めく禁軍左将軍に相応しい姿だった。
「私も、正直こういう格好は肩が凝ります」
「だろう?郊祀は終わったんだし、いつもの官服でいいんじゃないかと言ったんだが……祥瓊達に却下された」
「ああ、確かにそれは困りますね。閲兵式に臨む兵達の士気が下がります」
「……かーんたい」
先刻まで同士と信じていた男の翻意に、陽子は唸り声を上げた。
「美しい姿の女人というのは、男にとって何よりの奮起薬ですから。それが我らが誇る女王であれば、尚更です」
「……桓堆がこんな世辞を言う奴だとは思わなかったぞ」
微かに目元を赤くし睨み付けてくる主に、
――こういう初々しい反応が、浩瀚様のツボなんだろうな。
秘かに思った事は口にせず。
「事実ですから。ところで主上」
さらりと
「主上にお願いがあり、参りました」
「珍しいな。何だ?」
「実はこの後の閲兵式で、主上への『さぷらいずぷれぜんと』を用意しているのですが」
「サプライズプレゼント?」
突然出た蓬莱の言葉に、陽子は目を丸くした。
「はい。ですがこれを差し上げるには、主上の後押しが必要なんです」
「私の?どういう事だ?」
「その時になれば分かります。私の奏上に、ご同意して頂くだけです」
「……話が、よく見えないのだが」
「今はこれ以上申し上げられません。何しろ『さぷらいず』ですので」
済まして答える桓堆の顔には、隠しきれない楽しげな表情が浮かんでいる。
そう、まるで。
悪戯を仕掛けようとしている
それに気付き、陽子はくすりと笑った。
「分かった。禁軍左将軍の言葉に従おう」
「ありがとうございます」
更に、『この事はどなたにも内緒ですよ?』と念を押して、桓堆は御前を辞した。
――『敵』を欺くには、まず味方からと言うからな。
回廊を進みながら、桓堆は上機嫌で小さくごちた。
仕込みは上々。
後は、畳み掛ける
そう。
桓堆の計画の成否は、女王にかかっていた――。
***
眼下で、一糸乱れず隊を組んでいた兵士達が、ざっと左右に分かれた。
短い掛け声を合図に、矛を構える。
次の瞬間。
雄たけびのような声と共に、互いに駆け寄り、矛を交わす。
地を蹴る靴音。
打ち鳴らされる矛と矛。
ぴたりと止まる兵士達。
「……いつ見ても凄いな」
次々と繰り広げられる戦闘の型。
上げる腕の角度まで揃った兵士達の動きに、陽子は毎度の事ながら感心する。
それは、蓬莱の運動会で見たマスゲームに似ていた。
最初にこの演武を見たのは、確か十五年ほど前だった。
その時も驚いた陽子は、桓堆に尋ねたのだ。
『あんなにぴったり動きを揃えるのに、一体どれほど練習したんだ?』と。
それに対し、禁軍左将軍はあっさりと答えた。
『毎日です』
『毎日!?』
『はい。これらの型は、兵としての基本の動きを含んでおりますので』
全てではないが、日々の訓練の中で繰り返し練習するのだという。
あの頃も凄いと感心したのだが、この数年は、特にその精度を増したように思う。
「禁軍も、質を上げましたね」
背後からの声に、陽子は振り返った。
「やっぱりそう思うか?」
玉座の斜め後に控えた冢宰・浩瀚は、微笑をたたえて頷いた。
「はい。左将軍も、よくここまで育て上げました」
「そうだな。何せ最初は人手が無くて、桓堆自身が兵の一人一人に教えていたもんな」
開朝当初を思い出し、陽子はくすりと笑った。
華やかな襦裙姿と相まって、その笑顔は大輪の花が咲いたような艶やかさを誇っていた。
普段『仏頂面』と評される景麒でさえ、心なし頬を緩ませ主に添っている。
その様子に目を細めて、浩瀚はここまでの長くて短かった二十年の月日を思った。
この慶国にあって、『女王』であり『胎果』である事。
最初から二重の足枷を付けられていた中で、彼女はよく頑張ってきたと思う。
当初、女王に強い不信を抱いていた官吏達も、朝の整理と新王の政策が徐々に軌道に乗り始めた昨今では、『今度の王は違う』と、年若い王に信頼を寄せようになった。
市井の反応はもっと素直だ。
需要と供給が安定し始めた頃から、『景王赤子』を称える声は、堯天を中心に年々高まり、また各地へと広がっていた。
それらを聞く度に、浩瀚は心の底から喜びを感じた。
官を統べ王を支える冢宰としては勿論、少女の恋人としても、また。
主である少女と思いを交わし合ってから、時々思う事がある。
これは、天が仕組んだ『必然』だったのだろうかと。
不利な王を支えるために、女王に、国に、より強く尽くす冢宰を、天が欲した結果なのだろうかと――。
「浩瀚」
少女の呼ばわる声に、浩瀚は数瞬の物思いから覚めた。
「はい」
自らの思考に囚われていた事など微塵も見せずに答えた浩瀚だったが、そんな彼に女王は悪戯っぽく笑いかけた。
「今、意識が飛んでいただろう。珍しいな、浩瀚がぼうっとしているなんて」
苦笑を刷き、浩瀚は一揖した。
「失礼いたしました。主上におかれましては、ますます観察眼が鋭くなられたご様子。頼もしい限りでございます」
「冢宰以下、優秀な官達の指導鞭撻のお陰だな」
今年も宜しく頼む、と朗らかに告げる主に、「勿体ないお言葉です」と応じる。
――もしもこれが天の差し金だとしたら。
台輔と言葉を交わす少女の横顔に、浩瀚は思う。
自分はその策に見事に嵌った事になる。
彼女の笑顔。
その為なら、今の自分は何だってするだろうから――。
***
「浩瀚、閲兵式はこの演武でおしまいだっけ?」
振り向いて再び尋ねてきた女王に、浩瀚は「いいえ」と首を振った。
「本来はそうなのですが、今日はこの後、禁軍左将軍と右将軍の剣舞がございます」
「剣舞?」
陽子の目が、きらりと光った。
「はい。麦州に古くから伝わる剣舞を披露いたします。剣を嗜まれる主上ならきっとご興味がおありだろうと、この度桓堆が秘かに準備しておりました」
「うん。すごく興味がある」
力強く頷いた少女に、浩瀚は微笑した。
「桓堆の剣舞は素晴らしいですよ。麦州では、あれの右に出る者おりませんでした」
「本当?それはますます楽しみだ」
――では桓堆の言っていた『サプライズプレゼント』とはこの事なのだろうか?
陽子は内心首を傾げた。
だがそうすると、『主上の同意』とは一体……。
演舞を終えた兵士達が、広場の左右に退く。
それと入れ替わるように、禁軍左将軍・桓堆が進み出た。
日の光に照り映える白金の皮甲。
装飾の美しい祭典用の剣を腰に提げた姿は、最近富みに風格を増したと宮中で評判になるのも頷ける、威風堂々たるものだった。
相手を務めるはずの右将軍を連れず一人広場の中央に進んだ桓堆は、玉座に向かって歸拝し、朗々とした声を上げた。
「主上の安寧と赤楽王朝の繁栄を祈り、これより麦州に伝わる剣舞を捧げます。ですがその前に……」
桓堆は顔を上げ、真っ直ぐに陽子を見上げた。
「主上にひとつお願いの儀がございます」
――これか。
小さく頷いて、陽子は促した。
「何だ?」
「古来より、麦州は剣舞の盛んな土地でございます。上達を目指す若者が、或いは達人と呼ばれる人々が、国中から集まり更なる研鑽を積む場所として有名でございますが、それらの人々が一様に憧れ、また褒め称えたお方に、今日はお相手をして頂きたいと存じます」
にこりと笑んで、桓堆は続けた。
「主上の傍らにおいでの冢宰……元・麦州候浩瀚様に」