宵の刃



その刃が腿をかすめた時、痛いというより真っ赤にこごった溶けた鉄を押しつけられたようだった。ぐっと息が詰まる。素早く飛び退ったが、鉄で蕩けた右足はつ いてこようとしなかった。湿った泥を撒き散らして片膝をつき、唸りをあげてまっすぐに降ってきた刃を水禺刀で弾いた。キィン!鼓膜を刺し貫くような音が鳴る。
陽子は肩で息をつくと、疼く足をひきよせ剣を構えなおした。翠の両瞳がしのつく雨の中できろきろと光り、濡れた朱髪が乱れて頬に貼りついている。手負いの獣の凄みのある姿だ。
陽子の目の前に立ちふさがっているのは泥に汚れた膝丈の革靴で、脛は半ばまで鉄甲で覆われていた。その鉄甲にも無数の刀傷が刻まれている。仁王立ちになった 刺客の足の間からちらりと、向こうでさかんに入り乱れて命のやり取りをしている一瞬が垣間見えた。しとしとと降りやまぬ灰色の雨は、冷たい針となって滲ん だ流血と泥をかき混ぜている。
びゅっと風が鳴った。とっさにのけぞった頬の皮をかすめて物騒な白刃が飛び過ぎていった。投剣だ。残像を目で追う間もなく、鉄沓が泥の中から踊りあがり、乱暴に陽子の肩を蹴り飛ばした。雨泥の中にどっとばかりに仰向けに倒れ込む。泥の飛沫が派手に散る。少女の眉間めがけて迷いなく切りこんでくる曲刀を、水禺刀の両刃を掌でじかに掴んだまま受け止めた。両者の力が拮抗し、互いの刃が瘧にかかったようにぶるぶる震えている。脂臭い白い息を吐きながら刺客は笑った。彼はこの瞬間を楽しんでいた。ねじふせ、血を流し、肉を裂く感触に高揚を覚えるのだ。踏みしだいた華奢な肩を嬲るように、靴底の鋲がぐいとねじ込まれた。小さく呻いて、陽子の刀がわずかに傾いだ。刺客は口中の痰を吐き捨てると、少女の額に向けてもうひと押し、最後の刃をねじ込もうとした―――
次の瞬間、男は咆哮を上げて泥の中に倒れ込んでいた。
何が起こったのか自分でもわからない、ただ痛みが、激痛が、意識が真っ白になるほどの熱い感覚が体の芯を刺し貫いている。あまりの痛みに悶え、身をよじり、それでもかろうじてかかげた右腕が、剣を握りしめた形のまま付け根からばっさり落ちた。血飛沫が墨色の世界に軌跡を刻む。跳ねた肩口を小さな足が踏んだ。朱髪が浅海の藻のように鼻先にゆらりと垂れてくるのを、白くかすんだ目で男は見つめた。こんな時にもかかわらず、髪は鼻先にわずかばかりの花の香を撒いた。
「この次は脛だけじゃなくて大事な部分にも鉄甲をつけておくんだな。それから女の脚には用心しろよ。刃が仕込んであったりするから」
男の血まみれの股間にちらりと視線をやり、剣を持ち変えると、柄先で眉間を強く打った。少女の足の下で刺客はふっと動きを止めて静かになった。
「主上!」
決して出るなと言い置いたはずの廃屋の前、刀を手に鮮血を流して佇んでいる少女の姿に桓魋は舌打ちし、賊の最後の一人を乱雑に切って捨てると、泥水を跳ね散らかして駆けよって来た。荒い息と共にぐいと乱暴に腕を掴まれる。
「何をなさっておいでです、あれほど出るなと…お怪我を?!」
「たいしたことはない。それより首尾は?」
「もちろん全員仕留めましたよ。証拠の密荷も確保済みです」
私を誰だと思っておいでです、とほっと吐息をつく将軍に、すまない、と聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。
「だな。邪魔をして悪かった」
桓魋は片眉だけ上げてみせた。
「悪かったと思っておいでなら、ちょっとその傷を見せていただくぐらいはお許しくださるんでしょうね。とりあえず手当てをしてしまいましょう。こちらへ」
刃を振って血を飛ばしながら戻って来た2人の部下に―――倒れ伏している賊の数は40数名、対する桓魋率いる禁軍兵は将軍自身をいれてもたったの3人であった―――1人には生存者の捕縛と廃屋外の警備を、1人には宮への報告を指示して、少しふらついている女王の背を抱えこんで廃屋の中に入っていった。



山間の小さな、貧しい集落地である。
否、集落地であった、というべきだろう―――かつて炭鉱で栄えた大きな街の外縁部に位置するこの里は、景気のおこぼれにあずかろうとする出稼ぎ労働者、耕地の少ない山間民、流れてきた荒民といった構成民で細々と成り立つ即席の集落だったという。数十年前に大規模な事故をおこして炭鉱が閉山し、その後、里人はこの集落を捨てて出て行ったまま戻らなかった。現在は朽ちた無人の建物だけが累々と連なる、半ばは崩れ、半ばはうつろな窓辺をぽかりと開いたまま、峡谷の獰猛な森林の波に埋ずもれつつある陰気な廃墟群と化している。
この廃墟が、禁輸の品を扱う盗賊達のアジトとして利用されているとの報告が上がって来たのはつい先月のことである。さっそく討伐の計画案が朝議にかけられたが、その直後、正寝では女御のひとりが毒を盛られて寝つく事件が起こった。幸い命に別条はなかったが、嘔吐に発熱、全身に発疹が出るなどして長く床について苦しんだ。女王に饗されるはずの夜食を毒味して被害にあったという。討伐案に対して、深入り無用を警告した脅しであろうと推測された。金波宮の内殿に賊と取引をしているか、あるいは賊を小飼いにしている大元がいることは明白だったが、これを焙りだすには時間も人出もかかる。何よりその存在を隠そうともせず、あからさまに女王を嘲笑うかのようなやり口から鑑みても、動かぬ証拠を確保しての現行犯でなければ確実に仕留めることは難しそうだった。ゆえに今回の討伐は証拠品および足がつくものの確保だけに目的に絞り、賊の一部はあえて殺さず泳がすことにし、ごく小規模に秘密裏に行うことが側近の間だけで決められた。
浩瀚が張り巡らせた情報網を駆使した結果、小雨そぼ降る晩、満月から数えてちょうど5日目の深更に、一件の取引が行われる予定であることが判明した。討伐隊には桓魋が精鋭の部下を数名連れて立つことになった。
当日、騎獣に乗ろうと禁門に降りてきた将軍は、雲に覆われた太陰から淡く漏れくる月光の下、身支度をすませた女王が膝をかかえてぽつんと階段に座り込んでいるのを見つけた―――連れて行け、と言う。しばらく押し問答していたが、埒が明かぬまま、取引時刻の前には集落に着いて潜んでいなければならぬこともあって、言い合いを中途半端に切り上げて発った。
女王は、最後尾からついてきた。



携帯用の簡易灯籠に火をつけると、油の匂いがじじ…と薫った。打ち捨てられた建物の中はひどく黴臭い。踏みしめた沓の下で水と泥の混じり合った湿った砂がじゃり、と音をたてた。淀んだ闇に金色の火影がちらちらと揺れている。腐り落ちた床板の隙間で、秋の虫がさかんに鳴いている。
桓魋は少女を古錆びた鉄窯の横、段々になっている板間に連れていき、自身の外套を素早く脱いで敷き広げ、その上に壁を背にして坐らせた。鉄窯は竈がわりに使われていたらしく、筒型の煙突が壁の丸穴の向こうに差し渡され、外に排出できるようになっている。蓋を開けて中を改め、束にしていつも持ち歩いている乾燥粗朶を手折って放りこみ、灯籠の火を移した。ぼう、と鉄窯の上辺が橙色に煙って、ぱちぱちと火花が爆ぜる音が響き出した。しばらくつついて火勢を調節してから、腰の飯盒に水筒の水を注ぎこみ、鉄窯の横棒にひっかけた。
「すぐに湯が湧きます」
ふと額に手を当てると、桓魋は天上を見上げ、あまり屋外とかわりませんな、と濡れた皮膚をぬぐった。屋根板は数枚がはがれ去り、合間からどんよりした鈍重な夜空がのぞいていた。今宵は雲が多く、出がけにはうっすら覗いていた月ももう隠れて見えなかった。しのつく霧雨はさきほどから幾分勢力を増し、気まぐれな水滴がぱらぱらと二人の頭に降りかかってくる。
「失礼を」
低い声で告げると、少女の膝に手をかけてそっと腿を広げさせた。下衣がべったりと血糊で濡れている。眉間に皺を寄せて眺めていたが、崩れた皮膚の切り口を検分して、刻まれた皺がなお深まった。刃に毒が塗られていたようです、と言えば、だろうな、と落ちついた声が返ってきた―――刃が触れた時、火に焙られたような感じがしたもの。
「だろうな、じゃありませんよ。呑気な…この傷は早急に酒精で消毒しなくちゃなりますまい。全く、あなたという人は」
―――どうして大人しく後ろで待っていてくださらないんです。
叱られても、陽子はちょっと首をすくめただけだった。桓魋は肩を怒らせたまま、腰に巻いた縄のようなものをはずして指でいくつかに細かく千切ると、ふつふつと泡をたてはじめた飯盒の湯の中に放りこんだ。ふわりと濃い酒の香りが辺りに漂った。
「なにそれ」
「芋柄を干したのに酒を染ませたものですよ。煮出して使うんです。禁軍の携行酒ですね」
淡々と言って、陽子の下衣の破れ目をいとも簡単に裂くと、ぼろ布となったそれを床にぞんざいに捨てた。剥きだしになった柔肌が艶々と薄闇の中に浮かびあがった。動きやすさを優先するため、禁軍の女戦士もずるずるした下着類はたいがいつけない。腿の付け根の奥まった陰りを手の甲だけで覆い隠し、さほど恥らう様子もなく壁にぐったりと背を預け、脚を広げて坐りこんでいる女王の姿はひどく小さく、また疲れて見えた。毒が回ってきているのかもしれない。
飯盒の蓋を杯がわりにし、熱い湯気のくゆる酒を汲み上げると、桓魋は清潔な布を傷口のすぐ下に当てがって、屈みこんで試すように女王を見上げた。
「消毒しますが、べらぼうに熱いですよ」
「かわまん。けど、それだけ煮ちゃうと酒精は飛んでるんじゃないのか?」
「この緋香酒という奴はそんな上品なもんじゃありません。どぎつい酒でして、沸騰したって凍らせたって酒精は飛ばんのですよ」
まずは麻酔がわりに一口飲んでみてください、と口中に熱燗を注ぎ込まれた。
粘膜という粘膜が瞬時に蒸発するような強烈な酒だった。なんとか噎せずに飲み下したが、舌も喉もじんじんと痺れ上がって感覚が飛んだ。熱い液体が喉道をくだって胃に落ちて行く軌跡だけがはっきりとわかる…頬と額にぼっと火が灯り、目の奥が熱を孕んでぼやけた。
「本番です。いきますよ」
「…っ!」
傷口に湯がかかった瞬間、激しく跳ねあがった体をたくましい腕ががっしりと押さえこんだ。歯を食いしばって激痛に耐えている少女と、押さえこんでいる男の汗にぬめる腕の隙間から湯でふやけた芋柄の切片が滴り落ちて湿った音をたてた。濃い原酒の香は、素知らぬ顔で鳴き続けている虫の声とからまり合い、破れた天井板の狭間から曇天へとゆらりと立ち昇って行く。
ややあって、少女の体からわずかに力が抜けたのを確認し、桓魋は身を離した。切り口は毒でよじれた青黒い皮膚の襞が綺麗さっぱり流されて、紅色の真皮がのぞいていた。血のと酒の匂いが立ちこめる中、当て布で傷口を塞ぐようにきつく巻き取ってから丁寧に結んで止めた。
「御無事ですか」
「…まいった」
「自業自得でいらっしゃいますよ」
言いながらべたべたに汚れた手をぬぐった。自身も飯盒から煮えた酒をすくって一口含み、眉ひとつ動かさずに飲み下す。その間に、少女はそろそろと慎重に脚を閉じた。
「わかってる」
桓魋はまた額に手を当てて雨滴をぬぐった。黴臭い床の、雨滴の染みがまばらに広がる中にどっかりと胡坐をかき、しばらく無言で煮えた芋柄の茎を噛んでいたが、やがて汁を吸って干からびた滓をぺっと吐き出した。捨てられた芋柄は廃屋の陰鬱な景色の中、死んだ蛆のように見えた。
「御自身を責めたってどうにもなりません。鈴のことで荒れておいでなのはわかりますが」
女王の夜食を毒味した女御は鈴だった。数日間、忙しい政務の合間をぬってはのぞきに行き、寝床で苦しみ悶えている友人を祥瓊と共になすすべもなく見守った。決して致命的な毒ではありません、と瘍医は言った―――御安心ください。苦しめるために調合された毒であって、命を奪う目的では用いぬ毒です。
燕朝に潜んでいる黒幕は、最初から女王を害する目的で毒を仕込んだのではなかった。ただ女王が心を砕いた者が彼女のために苦しみ、悶える姿を間近で見せつけるためだけに、見せしめのために用いたのだ。
「私がさっさと夜食を摘み食いしてれば良かったんだ。なら、毒味はしなくてすんだ」
「摘み食いを推奨するようなことは俺には言えません。祥瓊にはたかれますから」
雑嚢から簡易毛布をひっぱりだして、投げだされたままの少女の細い脚にかけてやる。荒れるといえば―――と続けて、またぺっと芋柄を吐き出した。
「そうえいば浩瀚さまも、たいそう荒れておいでの時期がおありでしたっけね」
「へえ?」
意外な名前に、陽子は顔を上げた。
「浩瀚って荒れたりするのか。なんか想像もつかないけど」
「あったんですよ。麦候時代のことですが」
お聞きになりたいですか、ともったいをつけて言えば、頑是なくこくりと頷く少女の姿に、思わず目元が緩んだ。では、ともったいをつけて飯盒の蓋を掲げてみせ、中味を煽った―――宮から迎えが参るまでの間、しばしの無沙汰を昔語りで散らしましょうか。
「中央から左遷されて州侯に赴任なさって、まあいろいろと考えることがおありだったんじゃないか…と今にしてみれば思うんですがね。ただ、あの方が荒れると本当にやっかいでして」
勢いよく白い湯気を吹きだしている飯盒の中に雨が数滴飛びこんで、じゅっと音を立てる。
桓魋は話し出した。
「まあ、あの日も晩もこんな雨交じりの小寒い宵だったんですよ」



戸籍などちょっと破っておけばいい―――そんな不遜をさらりと吐いてとりたててくれた新しい主は、涼しげな面持ちの三十前後の黒髪の優男であった。もちろん桓魋は彼を以前からよく見知っていた。松塾では将来を嘱望された、希代の逸物と呼ばれていた男だ。
前任者が山と放っておいた面倒な雑事を次々に片づける彼の手腕は水際だっていて、書斎に積まれていた書類の堆積物はすぐと空になった。中央が乱れていれば末端の乱れは針の振幅の理論で大きく増幅するもの、麦州とて例外ではない。なまじ台輔を頂く瑛州と、隣国・雁への港がある青海に挟まれた肥沃な土地柄だけに腐敗の根も深い。累々と年を重ね、化け物のようになった仙も山といた。左遷官吏と甘く見て無礼を働く者も少なからずいたが、とりたてて激昂することもなく笑顔で受け流す。淡々と仕事をこなす以外に目立った珍事もひきおこさない。酒も煙草もほどほどにたしなみ、容姿からも地位からも女には困らぬが、妓楼は接待で使うのみ、関係を持っても決して一人に長々と拘泥しない。にこやかな温顔をたやさず、人当たりも良い。温厚篤実だ、できる男だと評判が立つまでにいくばくもかからなかった。桓魋は内心で舌を出していた―――温厚篤実な人間は戸籍を破ったりはしなかろう。
ある日、候の御前に呼ばれた。麦候に赴任してから数カ月ほどたった秋も深まった頃合いの、どんよりしたうっとおしい曇天の夕食時であった。陶器の匙にのった小龍包を優雅な仕草で口に含んで、油で汚れた口の端をちょっと布地で押さえてから、浩瀚は料理の味を批評するような口調でなにげなく言った。
「今宵、私を亡き者にせんと刺客が放たれる」
「は…それはまた。いったいどこから」
とっさのことで反応しそこね、間抜けた問いを返した。相手は愚者を憐れむように目を細めた。
「燕朝に決まっておろう。麦州内には行動に移すほど気骨のある輩はもう残っておらん。中央のお歴々も粘着質でおいでだ…左遷だけではどうも気がすまぬようだな」
まだ死ぬつもりはない、とこの時の男は妙にきっぱりと言った―――この世にはうんざりだが、もう少しだけ見届けたいものがある。
「適当に嬲って殺せ。生きて捕える必要はない。首謀者は割れている」
「承りました」
拱手した桓魋に、候はゆっくりと水差しから酒を一杯注ぎ―――嗅いだことのない強烈な匂いのする、きつい酒だった―――それを持ったまま席をたった。
「これから私は寝室に下がる。その方がおまえも警備しやすかろう。私は軽い頭痛のためもう休むと触れおけ。あとは頼む」
回廊をぐるりと巡って、私室の扉まで送っていった。堂に入る直前、一気に煽って空にした杯を手に押しつけられた。扉の向こうに消えるすらりとした背を見送りながら、確かに簡単だ、と思ったことを覚えている。守る相手が室内にいてくれるなら、扉と天井と窓だけを重点的に警備すればあとは事足りる。人員も目立つほどの数は必要ない。荒事の腕にも、部下の采配にも自信はあった。ぱたり、と閉じた扉からはもう、物音ひとつ聞こえてこなかった。
―――深更。
刺客は予想していたより多人数で来襲した。灯芯をすべて湿らせて消した暗い回廊の欄干に、文字通り空から降って来たのだ。大胆にも直接に乗りつけた騎獣からわらわらと、身を隠すことなどはなから考えようともせず無造作に飛び下りてくる…その数は、夜半からしのつきはじめた雨粒のようだった。あまりにも乱雑な襲撃は、権力をあがめ嵩に来た者の尊大な奢りが滲んでいるようにも思えた。
桓魋と腹心の部下たちはたちまち斬り合いを開始した。数名ずつを窪みに追い込んで的確に仕留めていく。半数ほどを血の海に沈めてから、ふと寝室の扉を振り返って一気に蒼ざめた―――扉が開いている。
死骸を飛び越えて一気に扉に駆け寄った。中を覗き込む。空だった。誰もいない…寝た様子のない榻、書物がきちんと積んである側卓も乱れた様子はなく、しんと静まりかえっている。
(候はどこだ)
斬り殺された数名の躯を足蹴にし、回廊の反対側へと駆け抜けた。こちら側は中庭を見下ろすどんづまりになっていて、襲う方も守る方も逃げ場がない。湿っぽい夜風が桓魋の鎧を撫でて吹きすぎて行く。ふと風に押されて分厚い雲に裂け目ができた。ほんのわずか顔をだした月光の下、白い夜着姿のすらりとした男の姿がぼうっと浮き上がった。
男は左手に刀を握っていた。肩に黒髪が流れている。右手はと見て、さらに血の気が引いた。白い袖口にべったりと濡れた鮮烈な朱色の―――あれは。
雄叫びを上げ、今まさに候に斬りかからんとしていた刺客の脳天をぶち割った。倒れ伏すその足元をくぐりぬけた別の一人が、候の胸元にがむしゃらに飛び込んで行く。
「候!」
間に合わない…すべてがスローモーションのようにひどくゆっくりと目に映った。ふりあげられた凶刀、刀を持った左手をおろしたまま、口元に薄笑いを湛えている端正な面―――若い日の記憶、桓魋がまだ十代の少年だったころ、松塾の中庭でかつて候が剣舞を舞っていたのを見たことがあった。しかし実際に剣をふるっている姿を見たのは、桓魋はこのときが初めてだった。見事に流麗な太刀さばきは流れくだる水のように無駄がない。血飛沫をあげて倒れ伏す賊を見ながら、さて候は左利きだったかと思うにつけても、筆をとる手は確かに右だったのを思い出す。続けて二人、かえす刀で凪ぎ払って候の元に辿りつくと、広い背にかばった。
「まさか扉が破られるとは…この桓魋、一生の不覚です。処分は御存分に」
「なに、扉を中から開けたのは私だ。」
「…は?」
何を言っているのか一瞬わからなかった。浩瀚は穏やかに続けた。
「ひと暴れしたかったんでな。おかげですっとした」
振り返ってまじまじと、楽しそうな琥珀の瞳を見つめた。
自分はいったい今までこの人の何を見ていたのだろう、と愕然と思った。頭を鈍器で手ひどく殴られたような心地がする。すぐまた雲の狭間に姿を隠してしまった月光の残像のもと、闇の中で鈍く光っていたのは昏い冷気であった。
これほどまでに―――さまざまなことに絶望しておられたのだとは想像だにしていなかった。こんなにも昏い想いに沈みこんでおられたとは。
魅入られたように見つめていたが、やがて向き直り、出た声はひどく小さかった。
「…お怪我のほどは」
「大事ない。それより賊は?」
ちょうどその時、タイミングを測ったかのようにばたばたと数名の兵士が走り寄ってきたかと思うと、二人の前にざっと膝をついた。
「ご報告申し上げます。候を害せんとした賊の全員を始末いたしました。襲撃者に生存者なし!」
「御苦労」
ぽんぽんとねぎらうように桓魋の肩を叩いて、浩瀚は笑んだ。
「さて寝ようか。明日は港の視察にいかねばならん―――追放令が出たろう。きっと国中の女が押し寄せる。宿泊施設を整えばな。それと、これは」
死骸の背を爪先でつつくと、すっかり血にまみれた室沓を陽気に脱ぎ棄てた。
「明日の朝まで放っておけ。気のきいた誰かが掃除してくれるだろう」
痬医の手配を申しつけながら、遠ざかって行く白い背を追うことがどうしてもできなかった。その髪のもつれが、余人を寄せ付けぬ白々とした冷気の余韻をこぼしていた。



それで、とまた蓋から酒を豪快にひと煽りして、桓魋は酒臭い息を吐いた。
「言われたとおり死体は朝まで放ったらかしにしておいたんです。翌朝、俺は閣下のお供で早くから港へ出かけましたからね。夕刻に帰城して回廊をのぞきにいったらその時にはもう片づけてありました。でも後で聞くところによると、焼いたり埋めたりしたわけではなかったんですね、これが」
眉根を寄せた陽子に、うなづいてみせる。
「箱に詰めて、お届けものとして金波宮の首謀者のもとへ全部送りつけたんだそうですよ。生臭ものですので腐らぬうちにどうぞ、と手紙を添えてね。呆れたヤサグレぶりでしょう」
「そりゃまた…」
壁に頭を寄りかからせて、唇にぽとんと落ちてきた雨粒を舐めとった。水滴は、枯れていく葉や温度を下げた土、木枯らしの前兆を混ぜ合わせる風のような寂しい晩秋の味がした。リーン、リー…と、降るように鳴いていた虫がふいに鳴きやんだ。粗朶のたてるぱちぱちという小さな音ばかりが暗い室内を満たしている。
桓魋は腰にはいた剣を軽く叩いて確認し、ゆっくりと立ち上がると、開きっぱなしの扉の暗がりを目を細めて見透かした。
「襲撃の前に、浩瀚は酒杯を持ってぐるりと回廊を巡ったって言ってたよな。それってさ…」
桓魋の白い歯が闇の中で白々と光った。闊達な笑いだった。
「さすが主上、当たりですよ。わざと回廊をゆっくり巡って、あの方は寝室までの道筋にわざわざ目印をつけておかれたんです。匂いのきつい酒を手に持ってね…凝匂酒という珍酒です。俺は知りませんでしたが、材木に沁みると匂いがなかなかとれんという性質があるそうですよ」
「自分の寝室に賊が辿りつきやすいように?」
「そういうことです」
傷口に白布を巻いただけのむき出しの下肢に衣を巻きつけて覆うと、桓魋は細心の注意を払って腕にそっと少女を抱きあげた。痛みますか、と聞こうとした口をまた閉じた。女王が痛くないと答えるだろうことはわかっていた。そうして、内心ではもっと痛くしてくれたらいいのに、と思っているだろうことも―――彼女にとって、痛みとは贖罪だ。
湿った土を跳ね散らかしていっさんにこの廃屋めがけて走ってくる、よく訓練された複数の軍靴がたてるひたひたひた…と押し殺した足音が耳に届き始めた。
泥に汚れた床から不意に気配もなく獣の頭部が湧きでて、耳をぴくつかせると、恐ろしげな牙の生えた口で、主上、と呼んだ。
「班渠。おまえまで来たの」
「御怪我をなさったとうかがって、台輔がたいそう御心配なさいまして」
「やれやれ」
追加の一軍が到着した旨を、入口で見張りをしていた兵士が頭だけ敷居の中に突き入れて報告した。桓魋は少女を抱えたまま扉の外に歩み出た。止まない小雨の中、整列して泥中に膝をついている黒衣の武装集団に向かうと、現場の後始末と荷の運搬について簡潔な指示を幾つか出した。
そうして、いつの間にかするりと全身を現してかたわらに寄りそっている妖魔の背に、腕の中の少女を揺らさぬよう注意しながらゆっくりとまたがる。極太く、長い被毛に覆われた鋭い獣爪が、ぬかるんだ大地を蹴っていままさに飛び立とうとした一瞬の間、使令の囁いた小さな声が主の耳に届いて、やわらかく鼓膜をくすぐった。
「鈴がさきほど、乳粥を啜ったそうにございます―――腹が減ったと盛大に文句を垂れてさらに追加の一鉢を持ってこさせたとの由」
息をふ、と吐くような妙な音をたて、朱頭が桓魋の鎧に押しつけられた。小刻みに震えだしたそれを慎重に抱え込み、妖魔と二人の人間は、宵の刃にも似た冷えきった雨煙の中を、まだ暁光の見えぬ夜空に向かって舞いあがって行った。




                                                                         <終>

Diaryで血の付いた刀を持ったやさぐれ閣下を落書きしたら、
『時雨庵』のあおくない葵様が素敵なSSを書いて下さいました!
エビでタイを釣っちゃったよ!ヒャッホー!

主上の痛々しい荒れ方に比べ、閣下のひねくれたやさぐれっぷりったら…っ!(賛辞)
頭が切れて先が見える人ほど、暗く深い闇を抱えるものなのでしょうか。
麦州の建て直しをそつなく進め、『ここで死ぬつもりはない』と言いながら、
一方で進んで危険に身をさらす閣下の内面荒れ荒れなご様子が、ものすごくツボでした。
えぇえぇ、落書きした時、こういう閣下が見たいと思ったのです~vv

男前な(隠し方)の主上も(笑)、
信頼されているがゆえに二人の主にそれぞれ苦労させられている熊将軍も、とても魅力的でした!

葵様、素敵なお話をどうもありがとうございました!

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