白い背



その瞬間、耳からいっさいの音が消えた。
次いで、頬にすごい勢いでべっとりと、冷たい何かがぶつかってきた。巨大な腕で頬を激しく平手打ちにされたようだった。
「…あ…」
とっさにくるみこまれた腕の中、しかし紙一重ばかり遅かった。間髪いれず襲ってきた第二波はけれども、その腕の主がまともにかぶった。わずかに漏れ出た低いうめき声の微妙な響きがおかしくて、陽子は目もあけられないぬめりに顔中を覆われながら口の端を上げた。
「こりゃすまねえ!!」
しわがれた銅鑼声が響いて、誰かが重い足音と共に駆け寄ってくる気配だけを感じた―――腕がまだ、その中に陽子を収納したままで、身動きがとれなかったからだ。
「こんな辺鄙な道を、こんな時間に歩いているお方がいるとは思わなんだもんで!あれまあ、旦那さんに坊っちゃんかねぇ、頭っから泥だらけになってしまわれて」
目元をざっとぬぐってもらってようやく、一段下った田んぼ脇の溝から泥かき用のもっこをかついだ農夫が慌てたように這いあがってきて、おろおろと手ぬぐいを揉み絞っている様が目に映った。
まだ睫毛にくっついている泥の雫のせいで、世界が半分灰色に見える。山の端に沈みこんだばかりの夕陽の、残った火照りが金と紫の縞模様になって、風にのって逃げようとする糸雲の切れはしをさかんに引っ張っている。黒い粒々になって動いていくのは、ねぐらに急ぐ烏か雁の群れだろう。
闇を濃くしていく夕暮れの空気の中、どこかで物寂しげに鹿が鳴いていた。広い畑のそこかしこで収穫の終わった稲の束が積まれ、少し離れた集落の屋根は暗く沈んで鈍角の線になり、針のように林立した煙突からぽつぽつと白い煙が上がっている。
陽子を腕の中から解放すると、農夫から手渡された布で顔をぬぐって、浩瀚は穏やかな白皙の頬を忍び寄ってくる夜気に曝した。
「こちらこそよそ様の土地をうろついたあげく、仕事の御手をとめてしまって申し訳なかったな、御主人」
先だっての雨で用水路にたまった泥をかいては道端に放り投げる作業をしていた農夫はしかし、しきりとすまながった。泥だらけのままさほど気にした様子もなく歩きだした二人を強いてひきとめ、物好きな旅人たちがまだ今宵の宿を決めていないことを知ると、ぜひとも自宅へ泊っていくようにと熱心に勧めた。
うちの嬶がうまい汁をつくりますで、という朴訥な言葉が温かったのと、山が近いだけあって急に冷えこんできた秋の夕暮れのことでもあり、とりあえずかぶった泥が乾いてこびりつく前に洗い清めるだけでもお世話になろうかと、宅にお邪魔させてもらうこととなった。
風呂場は、農家らしいコの字形に配置された建物の狭間にある中庭の、その中央にあった。石積みのこじんまりした浴槽で、もちろんのこと遮蔽するような布や板はない。すぐ側の草地ではそろそろ畜舎へもどる途中の鶏が数羽、コッ、コッ、と最後の食事をとりにさかんにうろついている。あっけらかんと風通しの良い開放的な造りは、何事も絹や紗で包み隠さねば気がすまぬ宮中に慣れた目には新鮮でもあり、またほのかな郷愁も誘った。
乾いた薪を食んだ竈は熱く飴色に猛って、やがて湯から白い蒸気が上がり始めると、主人の妻女が着替え一式と体を拭く清潔な布、あとは羽虫がたくさん飛んどりますんでね、と虫追いの団扇 を持ってきてくれ、いま食事の用意を整えているのでどうぞ湯が済んだら母屋に来てくだされ、とだけ言い置いて忙しそうにせかせか行ってしまった。妻女の衣 がふわりと翻ったとき、出汁を吸って煮込まれた山菜のいい香りがほのかに漂って、陽子は思わず鼻をひくつかせた。
浩瀚はそんな陽子の食い意地をたしなめてから、先にどうぞお入りを、と湯を勧めた。決して見るなよときつく念押ししてから、陽子は泥で固まった粗末な袍を脱ぎ捨てた。
さらに深まっていく夕闇の中、濃紺の空にぽつんと灯った白い星がみるみる奮って明るく輝きはじめている。今宵はよく晴れて雲がないのだろう、星は賑やかに大空いっぱいにその数を増して行くようだった。陽子はざっと湯桶で泥を落とすと、石造りの浴槽にゆっくりと肩まで身を沈めた。ほどいた髪が紅の藻のように柔らかく、ゆらゆらと湯のあわいを漂って踊る。見上げれば満天の星空、くゆる湯気が幾筋も、無心に空をめざして上っていく。
ちらりと脇を見れば、客人用にあてがわれた今宵の寝所である右建物の縁側に、神妙に後ろを向いて座り込んでいる浩瀚の姿があった。背に憮然という文字が滲みでているような気がして、思わず湯に唇を沈めて笑いをかみ殺した。
十分に温まってから清潔な麻衣をまとうと、濡れた髪を風になぶらせたまま、浩瀚に声をかけた。
「もう、いいぞ」
「…」
振り返り、見上げてくる浩瀚の目が星の光を映してきらきらと光っている。湯上りの髪を見咎めて、御風邪を召されますよと苦言をこぼす口調をなぜだか甘く感じた―――この空気のせいかもしれない。
葉色の変わり始めた樹木、刈り取られた田、溝の泥、人や家畜、竈の火、山菜の香り…生い茂る草とささやかな灯のともった家屋。日常の土臭い営みの中では、苦言も甘言も、なにもかも尖った部分は均され、穏やかな大地の色に溶けて鎮まっていく気がした。
秋の虫が草影で賑やかに奏でる声に、陽子は耳を澄ませた。新しい星がまたひとつ輝きを増していく。飛び舞う羽虫を、浩瀚が泥のついた手で追った。
「おまえもはやく湯に入って来い。私は腹が減ったんだ」
「…お昼に、私の分の握り飯まで召し上がられましたでしょうに」
「昼は昼、夜は夜だ。あんなもの、とっくに消化してしまった」
浩瀚は立ちあがって尻をはたくと、見てはなりませぬよ、とからかうように言った。
「阿呆、見るか。金をもらったって野郎の裸なんか見ないよ」
「ずいぶんなおっしゃりようで」
ふふ、と笑って歩き出しながらもう腰紐をほどきはじめたのに、陽子は慌てて背を向けて、さっき男がしていたように縁側にあぐらをかいて坐り込んだ。
…ぱしゃん。
湯が跳ねる音がする。
ざばざば。しゃっ。ぱしゃん。
案外、見ない方がかえって背後が気になってくるのはどうしてなのだろう。湯の香りが葉に混じり、虫の音にのって陽子の背を越えると、ふわりと鼻先に流れ落ちて来る。
ばっしゃん。ざざあっ。
ひときわ大きな湯音が響いたとき、陽子は好奇心に負けた。思い切って肩越しにちょっとだけ、浴槽の方を盗み見た。
湯気の渦の中心に―――
白い背が濡れて光っていた。艶やかな黒髪が濡れて張り付いている。わずかに横をむいた頤からすらりとした首筋にかけての流麗な線、続く背は硬くひきしまっていた。無駄な肉などどこにもない…筋肉もさほどあるとは思えず、しかしかといって華奢でもなかった。端正な骨組にうっすらと陶器が張り詰めている、といえば一番近いのか。腰から臀部にかけては庭の低木が邪魔してよく見えない。
白い手は湯桶を置いて、浴槽をまたごうとして…つと、何かの気配を感じたのか、陽子を振り返った。ごまかす暇もなかった。目と目が合った。
「…ご覧になりましたね」
「あっ、う、うん。まあその…羽虫を追ってたら、その、つい」
縁側に置かれたままの団扇をちょっと見やって、浩瀚はくすりと鼻を鳴らした。
「見てはならぬとさっき、申しましたものを」
「ああその、ごめん…」
湯船にざぶんと身を浸すと、さようでございますねえ、と浩瀚はのんびりした口調で空を仰いだ。月はまだ出ていない。
「約束反故ではございますけれども、こたびは相殺とまいりましょうか―――拙めもさきほど、少しばかり…主上の御背中を拝見させていただきましたゆえ」
「なっ…!おい!」
真っ 赤になって立ちあがった陽子に、ほがらかな笑い声がぶつかって弾けては庭さきに転がっていく。また湯の跳ねる音、地団太を踏んで怒っている少女の足音、そして母屋へ至る回廊の向こうから、おーい御客人、鍋が冷めぬうちに御早く、とせかす農夫の声とが、囲炉裏の煮汁のように混ざり合って―――温かく、夜気にほどけていった。




                                                                         終わり


『時雨庵』のあおくない葵様より、開園祝いとして素敵なSSを頂いてしまいました!
別名『浩瀚裸体バディSS』(笑)。
浩瀚の臀部に関するコメントについ熱くなってお返ししている中で、おねだりする形になってしまったものです。
お心広く受け止めて下さった葵様に感謝!

農家の庭から見上げる空の広がり、立ち上る湯気の様子が、目に浮かんでくるようなお話でした。
そしてもちろん、閣下の滑らかなお背中も(笑)。
大らかに陽子主上をからかう浩瀚がとても素敵です。

葵様、どうもありがとうございました!

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