静穏なる晩景の門



「今年は、なんだか寒さが薄いな。そうは思わないか?」

赤い髪を一つにまとめて後ろに流した姿で、彼女は重厚な卓についていた。 読んでいた書から視線を外し、隣に立つ涼しげな眼をした男を見上げる。

彼女こそ、ここ慶国の王。
麗しき神獣、麒麟の景麒に選ばれた正式の国主。
その名を中嶋陽子、胎果の王だ。

その女王が、執務中、集中力が切れたのだろうか、突然声をかけてきた。

かけられた男は、百官の長。冢宰を拝命している、その名を浩瀚。

「左様でございますね」

と、穏やかに答える。
「主上、一息入れましょうか?」
と、さらに休憩を勧めている。

時は赤楽三年二月の昼過ぎ。陽子はこの時間いつも上がってきた懸案を読み、 署名して御璽を押す、国王としての仕事をこなしていた。

実は、この平日の午後は、陽子の補佐に景麒がつくことは少ない。 景麒は瑛州侯も兼ねているので、そちらの執務量が結構あるのだ。 まじめな景麒は、それをさぼろうなどとはつゆほども思わないので、 どうしても仁重殿で執務を取る時間が多くなる。

そういえば、靖共が冢宰をしていた時も、陽子のところによく訪ねてきたのはこの時間帯だった。

靖共が苦手だった陽子は、わざわざ景麒のいない時間を狙ってやってくると思っていた節もあったが、 考えてみれば、靖共もわざわざ景麒の留守を訪ねてきたわけではなく、 単に冢宰の仕事が切れるのがこの時間帯だったのかもしれないのだ。
どちらにしろ国王の前でずっと平伏していたのでは、 陽子に何か教えるということはできなかっただろう。 それは、三公の役目であるからだ。

官吏は官吏、立場が違う。

そこをあいまいにすれば、国王と冢宰は癒着していると思われるのだろう。

しかし、それでは右も左もわからなかったかつての陽子は戸惑うばかりだ。 判断してくださいと言われても途方に暮れてしまう。最も、靖共にとっては新米国王判断など、 どうでもよかったのかもしれないが。 国王がどんな判断をしても、それを実際執り行うのは官吏の仕事なのだから。

ともあれ、そんな慣習を陽子はやめてしまった。 数は少なくとも、陽子に対して意見を言える者を周りに置くことが可能になったのだ。

そんなわけで、浩瀚は陽子の願いを受け、執務室で彼女の疑問に答えたり、 必要な情報を伝えたりすることがあった。

「そうか、休憩か。では、鈴にお茶を入れてもらおう。浩瀚も一服していけ。いいだろ?」

「ありがたきしあわせ」

「鈴? お茶を頼む。冢宰の分もお願いできるかな」

「は〜い、かしこまりました」

少し離れた所から、元気の良い声がした。

「よし、これでお茶が飲めるわけだ。ところで、以前から感じてはいたのだが、浩瀚?」

斜めにかしぐ横顔、くつろいだ景王は年相応にかわいいものだ、などと不遜なこと考えている自分に苦笑する。

「はい、何でございましょう?」

そんなことを考えていたせいか、いつもの十倍は優しい笑顔になって答える。 そんな浩瀚の顔を見て、陽子は、逆にいつもと異なる雰囲気を感じ、身を引いてしまった。

「い、いや、浩瀚。何か考え事をしていたのか?」

「はい。いえ、そうですね、あえて申し上げるなら、主上のことを考えておりました。申し訳ございません」

涼しい顔をして答える冢宰、そう、嘘はついていない。

「そ、そうか。申し訳ない、私の気のせいか。ふう、集中力が足りないな、精進しないと。 こんなに丁寧に説明されている懸案なのに、すぐにほかのことを考えたりして。 冢宰としては、先が心配だよね」

あははは、とまるで自分をごまかすかのように明るく笑う。 そんな陽子を見て、浩瀚は、主上のことと言ってもそんな「慶の将来と国主の在り方」などという心配をしているわけではなく、 その陽子に対する、臣下としてはいささか礼を欠く自分の感情を抑えることに力をつくしていたのだが、と思っている。
自分の感情、それはこの時点では、恋情とはいえず、 臣下としての忠誠ではもちろん無く、かといって、 友情のように対等な感情でもなかった。
その中間あたりと言えばよいのか? もてあましたりすることはなく、自制することは容易な、そんな心持であったのだ。

「どうも、単調な仕事が続くと疲れるな。 おかしいよね、拓峰の乱みたいな、あんなことはもうあってほしくないのに。 穏やかな日々を感謝しなくちゃならないのに」

実は、巷ではいろいろあるのだが、浩瀚が冢宰になってからは、 陽子が知る必要のあることだけを伝えていた。 それで、表面的には、穏やかな日々が続いているように見えるのだ。

「いえ、主上は真心を尽くして御政務をおとりになっていらっしゃいます。 それは、何も無いようでも結構気の張ること。少しは、ごゆるりとなさいませ」

「ありがとう。そんなことを言ってくれるのは浩瀚だけさ。 景麒なんか、もっとやれもっとやれ、そんなことではいつまでたっても終わりません、って」

「それは、一理ございますよ」

「なぜだ?」

「王の政務というものは、その王が倒れるまでなくなることはございませんので」

「お前、さり気なく怖いことを言っていないか?」

「いいえ、めっそうもございません」

そこへ、良い香りのする花茶を持って鈴が執務室に入ってきた。卓の上に置くと、一礼して去っていく。

「主上、私が入れましょう」

「ああ、ありがとう」

あたり一面に、甘酸っぱい香りがひろがり、そのあとにきりりとした茶の香りが付いてくる。 小ぶりの器には、白い花びらが広がっていた。

「ああ、おいしい」

「左様でございますね」

静かなひと時であった。


二口目を含もうとした陽子は、ふと顔をあげて硝子の入った窓から外を眺めた。

「なんだか、雲海のほうが暗くなったような気がするんだけど?」

「はい、どうやら堯天は雨になるようですね」

「ああ、そうか。雲が出ているんだね」

「久方ぶりの降雨でございますよ」

「雪にはならないかな」

「さて、それはいかがなものでしょう?」

浩瀚は、雪になるには少し寒さが足りないような気がしていた。


雲海の上は天気が変わることはほとんどないが、雲海から下をのぞいていると、 街の天気は大体分かるのだ。気温の変化も少ないが、感じ取ることは可能だ。 浩瀚は陽子よりは雲海の上での生活が長いので、経験上この後の天気を予測する事ができるのだ。

「だめか」

「雪がお好きですか?」

「ああ、子供の時、蓬莱でもたまに雪が降ったよ。 本当にたまにだったけど。ふだん住んでいる所が、真っ白になって、 まったく違う場所に見えてくるのが、楽しいというか、不思議な感じがした」

「そうですか?」

「うん、でもよく考えたら、ずいぶんと雪を見ていないや。 いったいいつ見たんだっけ。本当に小さいころのことしか思い出せないかも……」

そのまま、陽子は窓から見える雲海をじっと見つめた。 そんな陽子を浩瀚が、やさしい眼差しで、陽子に気づかれないように見つめている。

お茶は、いつのまにか空になっていた。陽子は、

「よし! やるぞ!!!」

と、自分に気合を掛けるかのように、大きい声を張り上げた。
浩瀚はその声にびっくりしながらも、微笑んで、

「御意」

と、答えていた。



王の執務室を退出してから、冢宰府へ戻った浩瀚は、大量の書類を裁可しながら、 下官に左将軍を呼びに行かせた。桓たいがあわててやってくると、浩瀚は軽く人払いをする。

「何か、あったんですか?」

声をひそめる桓たいに、

「いや、変わったことは何も無い」

そう答えていた。

「じゃあ、変わってないことならあるんですか?」

「変わってないことだと? いつものことという意味なら違うな」

「またそういうわかりづらい言い方をする。 浩瀚様、私はただの軍人ですから、はっきり命令を出していただかないと困るんですけどね」

「ほう? そうだったかな」

「あのですね、今は少なくとも朝が落ち着いているんですから。 冢宰が左将軍なんか呼び出しちゃいけないんですよ」

「酒を飲むのはいいのか?」

「あのねえ、浩瀚様。それは昨日のことでしょ!  しかも、あれは私が酒を持ってここに来たんじゃないですか」

「あはは、すまない。ところで、つかぬことを尋ねるが、今夜は雪になりそうか?」

「はいはい、わかればいいんですよ。え、何ですって? 雪ですか?」

「そうだ」

「はて、それほど寒くなるかどうかわかりませんが、 今日は、堯天のほうは結構冷え込んでいましたよ。 ちょっと風向きが変われば、先ほどから降っている雨が雪に変わるかもしれませんね。 雪がどうかしたんですか?」

「主上が、雪を懐かしんでいらしたのだよ」

「へえ、主上がねぇ?」
「こら、桓たい。いい加減その不遜な言い方をやめよ」

浩瀚が急に声をひそめて桓たいに目くばせした。それをすぐに察した桓たいは、態度を急に改めた。

「いや、これは失礼いたしました。ところで冢宰!」

「どうかいたしましたか? 左将軍」

ふたりの脇にいつの間にか、拱手して顔を下にむけている官吏が二人ほどいたのだ。 地官府から緊急の用件をもってやってきたらしい。人払いはしたものの、 それほど強く言い渡したわけではないので、取次の下官も通してしまったらしい。 完璧な官吏の笑顔を作りその下官たちに答える浩瀚と、冢宰を護衛する新進の左将軍という演出を 瞬く間に行う二人。金波宮の中は、内殿を出るとそこはまだ政治的無法地帯だ。 何があるかはわからない。用心に越したことはないのだ。

下官が帰っていき、また二人だけの執務室に戻る。桓たいは一息ついた。

「浩瀚様、心臓に悪いですね」

「ふふふ、熊のお前が何を言うかと思ったら」

こういうときの浩瀚は、少年の顔に戻る。この顔が、桓たいは結構好きであった。

「まったく、浩瀚様の心臓は何でできているやら。まあ、それはいいですよ。 主上は、雪にどんな思い出をお持ちなんで?」

「普段見慣れた風景が真っ白になって、いつもと違うように見えるのだそうだ」

「はあ、こりゃまた、趣のあるお言葉で。 俺はまた、雪合戦でもするのかと思いましたが」

「ああ、そういったこともおそらくお好きだろう。 しかし、どうも主上にとって雪は久方ぶりのものであるらしい」

「そうなんですか?」

「ああ」

浩瀚は少し口を閉じ、自分の前にある執務専用の卓に片ひじをつき、目を瞑る。 桓たいは、もう一度彼の口が開くのをそっと待った。

「お前も知っていると思うが、主上がこちらにいらっしゃる前は大雪が何度も慶を襲った」

「ああ、そうでしたね。浩瀚様は、金波宮にまことの主上がいらっしゃるまで、 天変地異が続くとおっしゃっていましたが」

「そのとおりさ。夏はひどい日照り、冬は大雪が人々を苦しめた」

「そうか、主上がこちらに渡られてから、そんなひどい天候はなくなったんだ」

「だから、主上はこちらで雪を見てはいらっしゃらない」

「なるほど」

「今は、主上が玉座におわす。きっと雪も穏やかに降るだろうな」

「ええ、ぜひそう願いたいものです」

「というわけで、もし堯天で雪が降っているようだったら、私に知らせてくれないか」

「ええ、お安い御用ですとも」

「では頼んだぞ?」

「かしこまりまして」

こうして桓たいは、兵舎のほうへ戻っていった。



ちょうどそのころ、雲海の下ではしんしんと雪が降り始めた。 堯天の大通りは白く染まっていく。ほのかな明かりがその雪をいっそう際立たせた。 街はまだ完全に復興してはいないけれど、暖かな人のぬくもりが戻ってきている。
夕刻になると、家々には小さな明かりが灯されていた。

兵から報告を受けた桓たいはすぐに冢宰府にも知らせを送った。 浩瀚は、定刻を過ぎてなお多くの書状に目を通しながら、昼の陽子の様子を思い出す。

「ここから、すぐに行くことができて、あたりが真っ白になるような場所といえば……」

しばし考えた末、ふっと浩瀚の口端がほころぶ。

「あそこがよいだろう」

ちょうど出来上がった急ぎの案件について、主上から御璽をいただくという正当な理由を用意して、 浩瀚は内殿へと足を運んだ。

「あ、浩瀚。どうしたんだ? 今日は二度もこちらへ来てくれるなんて。急ぎの案件があるのか?」

「はい、こちらでございます」

「そうか」

あやうくため息をつきそうになる陽子。しかし、あわてて思いなおす。

「ため息はあいつの専売特許だ。私が奪うわけにはいかないよ」

などと、ぶつぶつ言いながら御璽を押した。

「浩瀚、これで良いかな?」

「誠にありがとうございます。ところで主上?」

「ん? なんだ??」

「堯天では雪になったようでございます」

「え? ほんとう!?」

この時浩瀚は、本当にうれしそうな陽子の顔を見た。

陽子は、表向きはきりりと口を結び、きちんとした印象を外に向けている。 女であるからという理由で、ことさらに悪く言われたくないからだ。 緊張していると言っても良い。 見た目が十六歳の少女であることを思えば、景麒の仏頂面といい勝負かもしれないのだ。 それが初勅を出してからは、身の回りに親しい者も増え、 内殿ではくつろいだ様子も見せるようになっていたのだが、 浩瀚は、このような主上の笑顔を見たのは初めてかもしれないと思った。

「はい、主上。つきましては、それほど遠くにお供するわけにはいかないのですが、 ここから一番近くで見られる雪景色をお見せしたいと存じます」

「ああ、ありがとう! 昼間のことを覚えていてくれたんだね」

「はい」

「どこなんだ?」

「いえ、主上の良くご存じの場所でございます」

陽子は、少し上目づかいで首をかしげた。 思い当たる場所がないからだ。雲海の上では雪は降らないので、どうしても下に降りなければならない。 今から行くとなると、結構時間がかかるはずなのだが。
これまでの話を部屋の隅で聞いていた鈴と祥瓊が、暖かそうな上着を持ってきてくれていた。

「ありがとう」

そう言って陽子は、二人にはおらせてもらう。

「へえ、意外と軽い」

二人の友人は、お互いに顔を見合わせ黙って微笑むと拱手した。

陽子と浩瀚は、虎嘯を伴い執務室を出る。

「種明かしをいたしましょう」

浩瀚は、優しい笑顔で陽子に伝えた。

「禁門でございます」

「ああ、そうか」

禁門は、雲海の下なのだ。確かにそこなら雪が降っているかもしれない。 いつもの呪がかかった不思議な階段を下りると、そこは禁門のすぐ前であった。
冷たい空気に呪は聞かないのか、それともそんな気がするだけなのか、 陽子は、足元からぞくっとする空気が這い上ってくるように感じた。 門を守る兵卒が、三人の姿を見て跪礼した後、その門を開ける。

「うわあ……」

あたりは一面真っ白であった。 禁門にともるいくつかの小さな灯りは、ぼうっとその周りを照らし出す。 もう日はとっぷりと暮れて夜の闇が覆っているのに、 空から下りてくる雪のひとひらひとひらは、その明りにあたってきらきらと輝いた。 その目を後ろに移して凝らして見れば、凌雲山の影が真っ黒く浮き上がるようだった。 そして、その下には漆黒の闇と思われる深い谷があった。
一歩踏み出すと、まだそれほど積もっていなことが分かった。 くしゃりと水っぽい音がする。まだ冷え切っているわけではなさそうだ。 踏みつけるとそれだけで溶けてしまう。 思わず足を引くと、そこにはその足の分だけ白い雪にぽっかりと穴が開いた。
陽子は意を決したように二歩三歩と足をすすめた。虎嘯が、

「陽子、危ないからあんまり前に出るなよ」

そう後ろから声をかけて彼は気がついた。

「そうだ、陽子は主上だったな。申しわけない」

浩瀚は、そんな大僕の人柄に微笑んでいる。

「ああ、気にするな虎嘯。この中で一番その呼び名に違和感を感じるのは私だからな」

そう言って、陽子ははははと笑う。

「それにしても、なんてきれいなんだ! いつもの禁門が、全く違って見えるよ。浩瀚、ありがとう」

陽子はとても喜んでいた。そんな陽子に満足しながら、浩瀚は禁門を守る兵に一言二言声をかけた。 すると、肯いた兵卒が禁門を照らしている灯りを、一つ、またひとつと消していく。 何をしているんだろうと、陽子はその様子をじっと見ていた。

 静かな暗闇、雪までもが暗い。そんな中、周りを今一度見渡した陽子ははっとする。

「あ、浩瀚! あの、ずっと向こうに見えているのは家の明かりかな?」

「左様でございます。私も、つい先ほどまで、ここから堯天の明かりが見えるとは思いませんでした。 こちらの方向には人家や里が無いと思っておりましたので」

「そうなんだ、良く気がついたな。それにしても、少しずつ色々な所に人が住み始めているんだね」

「主上のおっしゃる通りでございます」

「うん、これを見たらまた、元気が出てきたよ。ありがとう浩瀚、もう正寝に戻ろう」

浩瀚は、少しでも主上がお喜びになられて良かったと思いながら、静かに拱手して陽子の後に従った。

「はあぁ、きれいだった」

満足そうに、言葉を紡ぐ陽子を見て、浩瀚は思いのほか満ち足りた気分になったという。

まだ、陽子の時代が始まって間もないころの、ある日の出来事であった。




                                                                         終わり


『隠されし琴弾の聖域』の空様のお宅で、三周年記念リクエスト権をゲットして頂いちゃいました!
リクは『雪と浩陽』。
うふふ、素敵なお話でしょう?(自慢・笑)
空様のお宅のほのぼのとした浩陽がとても好きです。
冢宰としてさりげなく陽子を支え気遣う浩瀚が、とにかく素敵なんですよね。
今回のお話も、そんな浩瀚の姿があますところなく描かれていて、拝見した途端、嬉しくて転げ回りました(笑)。
空様、本当にありがとうございました!

そして、萌おさまらず、挿絵もどきを描いてしまいました。
ご興味ある方は下をクリックしてお進み下さい。

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