桜小夜曲



「お前の楽は技巧に走り過ぎている」

 師が厳しく断じた。何故、と食い下がろうとした少女を見据え、これ以上何も言うことはない、と言い放つ。少女は唇を噛み、踵を返した師の背を見送った。

 誰もいなくなった房室で、少女は独り拳を握りしめる。技巧を磨くことのどこがいけないのか。難解な曲を弾きこなすためには、技術が不可欠だというのに。そのための技を追い求めることの何が悪いのか。周囲の誰もが少女の二胡を褒める。その歳でこの曲を弾けるのか、と。ただ師だけが顔を蹙めた。そして、遂に浴びせられた今日の叱責。いくら考えても、少女には師の苦言の意味が分からないままだった。

 気づけば陽が暮れかけていた。少女は二胡を持ち上げ、重い足取りで帰途に就く。師に否定され、この先どうすればよいのだろう。のろのろと歩く少女は溜息ばかりついていた。そんなとき。
 微かに二胡の音が聴こえた。少女は足を止め、耳を澄ます。風が切れ切れに運ぶその楽は、誰かを呼んでいるかのようだった。少女は音を探して彷徨う。やがて。
 少女は桜の古木に凭れて二胡を奏でる若者を見つけた。高く低く鳴り響く音は、少女をその場に止める。聞き覚えはないけれど、懐かしく胸を揺するその曲。少女は固唾を呑み、若者の楽に聴き入った。

「どうして泣いているの?」
 不意に柔らかな声がそう問う。気づけば二胡の音は止んでいた。少女は驚き鋭く息を吸う。訊かれて初めて気づいた。自分の頬が濡れていることに。けれど、少女は真っ直ぐに若者を見つめ、問い返した。

「――泣いているのは、あなたでしょう……?」

 穏やかに微笑していた若者は、僅かに目を見張る。そうして不思議そうに少女を見つめ返した。
「私が?」
 少女は小さく頷く。懐かしげに奏でられていた温かな旋律は、微かな愁いを含んでいた。それは、もういなくなってしまったひとを恋うる音。この桜のように散ってしまったひとを悼む涙。それなのに。

「――君を泣かせるほど素敵な演奏だったかい?」

 若者は楽しげに笑う。少女は激しく首を横に振った。口を開こうとしても、言葉が巧く纏まらない。涙が幾筋も頬を伝い、少女から更に言葉を奪った。
 若者は柔らかな眼で少女を見つめている。涙を隠すその笑みに、切なさが募っていく。大人は泣きたくても泣かないものなのだろう。でも、音には秘めた想いが表れる。少女は言葉での説明を諦めた。代わりに己の二胡を掻き鳴らす。
 あなたは呼んでいるでしょう。ここにはいないそのひとを恋うているでしょう。桜を見ると思い出すそのひとを。抑えた想いは音に乗る。語りかける声となる。その呼びかけに応えたい。その音に託されたものを、この音で返したい。
 少女は言葉にできない想いを全て二胡の音に預けた。技巧を凝らすことも忘れ、ただただ胸を揺り動かすものに己を委ねる。指が勝手に音を紡ぎ、曲を織り上げた。これほど思うままに二胡を奏でられたのは初めてかもしれない。少女は無我夢中だった。
 最後の音が夜の幄に呑まれた。放心した少女を現に戻したのは手を叩く音。若者は笑みを湛え、少女を見つめていた。
「――素晴らしい。君のような見事な弾き手の前で二胡を奏でるなど、私も無謀だったな」
 拍手とともに贈られた屈託ない称賛に、少女は首を振る。逡巡した挙句、おずおずと言葉を紡いだ。
「――いいえ、あなたの楽に、心が揺さぶられただけ。聴かせてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
 若者はそう言って、咲き匂う紅枝垂れを見上げる。月の光に照らされたその横顔は、深い笑みを刷いていた。

「この桜のようなひとが……君の音に寄り添っていた」

 見せてくれてありがとう、そう続けて若者は立ち上がった。咲き乱れる枝垂れ桜の枝が、若者を引き留めるように揺れている。愛おしげに手を伸ばし、若者は花に触れた。愛しいものと別れを惜しむかの如く。
 少女は片手を挙げて去っていく若者の背を見送り、そのままその場に立ち尽くした。残された紅枝垂れがさわさわと嘆きの声を上げる。少女はそっと手を伸ばし、風に揺れる桜花に触れた。
「――綺麗」
 月明かりに映える桜花も、花を照らす月も、共に美しい。少女を包む春の気は柔らかく、吹く風は花の匂いを孕む。そして、風に揺れる葉擦れの音は耳に心地よい。
「綺麗……」
 少女は再び呟いた。想いが涙と共に身の内から溢れる。少女はもう一度、心を籠めて二胡を奏で、その音を月と風と桜に捧げた。

 翌日、少女は早朝から二胡の庵を訪れ、房室を清めた。世界が違って見える。二胡のみを見つめ、その音だけを聴いていた昨日までとは。少女は笑みを浮かべ、二胡を抱える。そうして今の想いを音に託した。
 無心に二胡を奏した。曲が終わることを惜しいと思う。最後の一音が消えてなくなったそのとき、大きな拍手が響いた。少女は驚き顔を上げる。師が頷いていた。
「――老師」
 師は何度も頷いた。そのまま何も言わずに手を叩き続ける。少女は笑みを浮かべ、深く頭を下げた。




2013『十二国桜祭』の参加賞として頂いた、管理人・速世未生様の作品その2。
大抵の芸術とは、まず技巧を磨くところから始まるのでしょう。
けど技巧とは、あくまで伝えたい心の情動をより鮮やかに表現するための手段。
陽子を恋う、利広の深く切ない心に触れてそれを知った少女は、
きっとこの先稀代の二胡の名手になるでしょう。

未生様、素敵なお話をありがとうございました!

   

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