再訪問



 芳陵を訪ねるのは二度目だ。あのときは、知らずして胎果の王と同道していた。今は、別の胎果の王と共に郷都を歩いている。楽しげに辺りを見回す背の高い連れを見上げ、楽俊は小さな溜息をついた。
「どうした?」
「ほんとうに行かれるおつもりですか?」
「無論だ」
 陽子が世話になったそうだしな、と身を窶した延王尚隆は軽く笑う。楽俊は肩を竦め、今度は深い溜息をついた。

 壁先生にお礼がしたい。

 慶国の王となった陽子から届いた鸞はそう語った。王として多忙な日々を過ごす親友の頼みだ。己も陽子のお蔭で無事大学に入学できた楽俊は、一も二もなく旅の支度を始めた。そんな折、どこで聞きつけたのか、延王尚隆がふらりと現れて、旅の道連れを申し出たのだ。恩義ある延王を無下にもできない。また、騶虞すうぐを貸す、との魅力的な提案に逆らえなかった楽俊であった。

 目立つ騎獣は門を潜る前に隠した。日頃の行動を想像させるその手慣れた所作に、楽俊は小さく嘆息する。大国雁の王は楽しげに大きな肩を揺らしていた。

 芳陵の庠序に辿りつくと、壁落人が柔和に笑んで楽俊を迎えた。落人は楽俊の連れを見て不思議そうな貌を見せる。
「――この方は?」
「海客です」
 楽俊は端的に説明した。背の高い連れは神妙に一礼し、名を名乗る。
「小松尚隆といいます」
 落人は納得したように頷いた。そんなふうに一通りの挨拶が終わる。楽俊は居住まいを正し、本題に入った。
「――陽子は景王でした。あの後、延王のご助力を得て慶国へ戻り、今は金波宮にいます」
 聞いた落人は僅かに眼を瞠ったが、柔らかな笑みを浮かべて首肯した。楽俊は話を続ける。
「延王に会え、と助言してくれた先生に感謝しています。何か望みがあれば叶えたい、と」

「有難いお話ですが……特にありませんね」

 落人は柔和に笑って即答する。欲のないことだ、と呟く微かな声がした。その意図を慮り、楽俊は口を継ぐ。
「私は大学進学の機会を得ました。先生も何か希望があれば、景王も延王もきっと叶えてくださいます」
「――延王も?」
 落人は首を傾げて問う。楽俊は敢えて声なく頷いた。延王その人が隣にいる。しかし、そんなことを口に出せるはずもない。

「私はここでの暮らしに満足しています。お気持ちだけは有難く」

 ほんとうに欲がない。望みを言えばそれが叶えられる。こんな機会はそうあることではないというのに。内心で感嘆しつつ、楽俊は落人に問いかける。
「王に会ってみたい、とは思いませんか?」
 それこそ望めばすくに叶う願いだ。何せ延王がここにいるのだから。しかし。

「私は単なる海客ですからね。それに、王にはもうお会いしましたから」

 落人が思いがけないことを言う。楽俊は首を傾げて事実を述べた。
「――あの頃、陽子は王ではありませんでした」
「いえ」
 落人は微笑し、ゆっくりと視線を移す。その先にいる者は、真っ直ぐに落人を見つめ返し、にっと笑んだ。楽俊は二人を見比べて押し黙る。やがて。

「――お初にお目にかかります、主上」

 落人は延王尚隆その人にそう声をかけ、椅子を降りて叩頭した。尻尾を立てて絶句する楽俊の背を軽く叩き、延王尚隆は破顔する。
「慧眼だな」
「恐れ入ります」
 伏礼したまま応えを返す落人に、面を上げよ、と声をかけ、延王は面白げに問う。
「何故分かった?」
「――彼が、景王も延王も、と言いました。前回いらした陽子さんが景王ならば、今回いらした小松さんは延王なのだろう、と」
 身体を起こした落人は淀みなく答える。礼を取りつつも物怖じしないその態度に、王は興を覚えたようだった。にやりと笑って問いを重ねる。落人はその度に明瞭な応えを返した。王は楽しげに眼を細める。落人もまたにこやかに対峙していた。胎果の王と海客の教師の問答を、楽俊も興味深く耳を傾けた。やがて。
「そなたの話は大層面白い」
「恐悦至極に存じます」

「俺の願いを叶えてもらえるか?」

 王は笑みを湛えてそう訊いた。楽俊は背に緊張を走らせて落人を窺がう。しかし、落人は気負うことなく応えを返した。
「私にできることでしたら」
「海客のことをもっと知りたいときには、またここを訪ねてもよいだろうか」
「いつなりとも」
 悪戯めいた笑みを浮かべる王に、落人は恭しく拱手する。楽俊はそっと安堵の溜息をついた。そんな楽俊を促して王は立ち上がる。軽く頭を下げ、王は破顔した。

「今日の礼に桜を贈ろう」

 海客に似合う花だ、と続け、王は踵を返した。少し眼を瞠った落人は、ふと懐かしそうに眼を細めて王の背に頭を下げる。その貌と桜という花の名は、楽俊の胸に深く刻まれた。

 庠序を辞して帰途につく。楽俊は王に問うた。
「桜とはどんな花なのですか」
「蓬莱では春を告げる花だ。こちらでは珍しい」
 胎果の王はそう答え、花が咲いたら見に来るといい、と続けて楽しげに笑った。柔和な海客の教師は、この先も苦労させられるのだろう。そう思うと苦笑が込み上げる。しかし楽俊は、桜と聞いた落人の懐かしそうな貌を思い出した。
 異郷に流されてなお逞しく生きてきた海客が見せた淡い望郷。様々な思いが託されたまだ見ぬ花を見たくなった楽俊は、楽しみにしています、と笑みを返した。




2016『十二国桜祭』参加賞として頂いて参りました、管理人・速世未生様のお話です。
原作で壁先生が登場するのは、ほんの数ページ。
にもかかわらず、非常に印象深い登場人物です。
不意に流された異郷の地で、地に足をつけて生活を切り開いた壁先生。
『(日本に)帰りたいとは思わない』とおっしゃってはいましたが、
それでもこんなふうに桜を懐かしむことがあるのではないかしら、あるといいなと思います。

未生様、素敵なお話をどうもありがとうございました!

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