黎明考



 靠枕に顔を沈めたまま伸ばした手が硬い紙を探し当てた。さっき取り上げられたまま遠くへやられていた本。陽子が何とか引き寄せようとするそれを別の手がいとも容易く手繰り寄せてくれた。
「お気に召されましたか?」
 『政策論』、そう名がつくからにはとってもお堅い本なのだろうと思いきや、ひとたびページをめくればその正体はとんでもない。
 勉学に勤しむ青少年が家人の目を気にせずに持てるようにと考えられての表題だという説明は、至極もっともらしいけど、政策論……まさか二度ならず三度までもこの本を目撃するとは思ってもみなかった。
 そしてこの本を見つけた後には決まっていつもこうなる。途中で女官達が隣室に夕餉の膳を持ってきてまたそれを引っ込めた気配がしたと、陽子は横ですっきりと息を吐く男を気だるげに見やった。
「あのさ、男はいつまでもそういう生き物だって、こないだ祥瓊がそう言ってたんだ。今でも桓堆はいい乳した小姐を見ると鼻の下を伸ばすんだって。もう死ぬまで治らないのよって」
 陽子は少し迷って、祥瓊があれは死んでも治らないかもしれないわねえ、とまでこぼしていたのは言わないでおこうと決めた。
「だから、いまだに大公が艶本を持ってるってくらいでケンケン言う気はないけれど、それを踏まえた上でひとつだけ言ってもいいか?」
「はい、何でしょう?」
 陽子は真剣に浩瀚をひたと見据えた。
「こういう内容なら『政策論』というよりはむしろ『外交論』じゃないか?」
 泰然と構えた、涼しい切れ長の目が驚いたように見開いた……と思ったら、眉がひょいと上がる動きに取って代わった。浩瀚は確実に面白がっている、そう分かるや頬は勝手に熱くなった。
「いやだってほら、ね、閨事って一人でするもんじゃないし……って、あああ、もう!今言った事は忘れてくれっ!!」
 ガバッと掛け布の中に隠れて、それを引き剥がそうとする手をやり過ごすうちに浩瀚は諦めて手を引いたようだった。その代わり。
「全くもって同感ですよ」
「は?」
 ちょっとだけ上げた布をすかさず覗き込みにきた琥珀の瞳。
「今となってはもう随分昔の話ですが、筆者相手に直接そう言ったのですよ。少々思うところがありましたので半分ほどやっかみを込めて」
 陽子はぽかんとした。
「筆者っておまえの知り合いか?」
 知り合いと言えば知り合いですけども、と僅かばかりひそむ声。白い手が慣れた手つきでいやらしい頁をパタパタめくったその最後、全然気にもしていなかった奥付に筆者の字が豪快な文字で記されている。
「すい……けい、酔鶏、か。酔いどれの鶏なんて随分ふざけた……偽名?」
「いいえ、れっきとした字でした。彼は大学でもその字で通しておりましたし」
「大学ぅ?」
 大学といえばもうほとんど国官養成所みたいなもんだ、あまつさえそこに通う前途有望な学生がこんな字を使って、しかも堂々と艶本を出版するなんてどういう了見なんだろう。

 もぞもぞ掛け布から這い出して、本と浩瀚をきょときょと見比べる陽子をよそに、浩瀚の方は何かを思い起こすように奥付の字をなぞっていた。
「年の頃は四十ほどで、十年も大学にいるのに三年に一度しか允許を取らずに昼間は寝こけてばかり。おまけにいつも、皆が朝起きて寮の賄い飯を食べに行く頃に千鳥足で帰ってくるので酔鶏と。まあ、悪い知り合いでしたねえ」
 浩瀚は、ふぅとひとつため息をついて下ろした髪をかき上げた。
「そして札付きの悪戯好きでもありまして、私も色々されました。例えば、試験を終えるまではと読むのを我慢していた金言集がこっそり艶本と……ああ、この本ではありませんよ――にすり替えられていたのがいちばん腹が立つ彼との思い出ですね。
 たしかあれは私が二十歳過ぎの頃、あと一つ允許が出ればいよいよ大学卒業という、大事な試験の前日の事でした。その表紙からして淫猥な艶本を振り回しながら真冬の大路を駆け抜ける、などという暴挙をしでかしたのは――。



 艶本に挟まれていた書き付けから酔鶏の仕業だと知った私は、即座に黄昏時の大路を一目散に駆け抜け、彼が入り浸る酒楼の奥座敷に押しかけました。
 そこで私が見たのは、びっしり敷き詰められた佳氈の上で転げまわって大爆笑する悪友の姿でした。
「酔鶏!貴兄という奴は!」
 酔鶏は本を返せと怒鳴った私を一目見るなりまた笑い転げます。さらに怒る私に彼は窓の外を指差し言いました。
 ――やあ浩瀚、君って奴は!窓から大路を見てごらん。
 頭に血が上ったまま窓から外を見てみれば、冬の冷たい大路にひらりひらりとたくさんの艶絵が舞っておりました。そして手の中の艶本は閉じ紐が切れ中身がほとんどすっぱ抜けた、抜け殻と化しておりました。
 ……頭に上った血が音を立てて一気に引いた、その音まで今でもはっきり覚えておりますよ。




 今現在の浩瀚を知る分には考えられない失態に、悪いと思いつつも笑いが込み上げる。
「ウプッ……そりゃまた、恥ずかしいねえ」
 さぞかし噂になったんじゃ?と問えば浩瀚は案外そうでも、とさらりと答えた。
「幸いな事に風ですぐに散り散りになってしまいましたし、私が疾走していたのは色街の真っただ中でしたから」
 だから大丈夫という理屈もどうかと思うけど、まあ実際のところは大丈夫だったと浩瀚は笑った。
「ま、色町なら奇行に及ぶ酔客には事欠きませんし、時には勉学に疲れて箍が外れた大学生がどうこう、という話もなくはない」
 と、何気に物騒な事をさらりと言ってのけながらも話を続けだした。
「それで、どうして試験の前日にこんな悪ふざけをしてくれる、とにかくさっさと本を返してくれと頼み込んだ訳ですが、彼はいきなり神妙な面持ちになったかと思うと「やなこった」と。
 才子だ逸材だと名高い君なら、今更悪あがきなどしなくても試験の一つくらい楽に通るだろうと申しまして、本を返してほしければまずは飲め、と酒杯を突きつけてきたのです」
「飲んだの?」
 陽子にとっては試験のあれこれなんてもう遠い記憶だし、もちろんその当時は身も心も未成年、酒の誘惑に遭った事なんてないけれども、試験の前日に酒なんか飲めば後々拙いだろうというのは分かる。
 だからあっさり飲みましたと言われたのには正直驚いた。
「どうして?」
 咄嗟に出てしまった疑問に、仕方がなかったのですよと浩瀚は苦く呟いた。
「その取られてしまった本というのが松柏の言をまとめた貴重な古書でして。なので何としてでも取り返さなければと躍起になっていたのです」
  当時はまだ松塾の存在も知らず、松柏とは半ば伝説と化した飛仙でいまだに存命しておられるなど思ってもみなかった。だから学生にしては相当な大枚を叩いて でもそれが欲しくて、大事な試験の間近まで金策に走ってやっと手に入れた書物、はいそうですかと引き下がれるわけがない。
「それで結局言われるまま立て続けに何杯か酒を煽り、大皿ごと抱え込んだ饅頭を夕餉代わりに頬張りながら窓際に腰かけておりました。
 閉ざした窓越し、とっぷり日の暮れた大路には酔客がひしめき妓楼の呼び子が客を寄せる声が致します。ざわめく喧騒と煌々とした軒先の提灯、夜も明るい街並みをただ眺めておりました。
 酔鶏とは口も聞きたくない、裕福な実家の財にあかせてろくに允許も取らずに年の半分を酒楼で暮らし、思いつくままにくだらぬ悪戯を仕掛けてくる彼に、私はたいそう腹を立てていたのです」
 しかし怒った素振りを見せたところで、どうせ悪友はまたそれを楽しむに決まっている。だから浩瀚はひたすらに街並みを眺めていた。生まれ育った故郷とあまりに違う、目が眩むほどに眩しい夜の街を。
「そうして半刻が過ぎた頃でしょうか、おもむろに彼は窓辺に寄ってきて私にこう言いました。――みんな莫迦みたいに浮かれてる、ここは奇妙な街だ、と」




 ――徒花だよ。ろくに茎も育たぬうちに咲き乱れた、大輪の徒花だ。
 酔鶏は開け放った窓から莫迦に長い煙管を突き出しました。下を見下ろせばますますつぶさにさんざめく雑踏の様子が見て取れました。
 ざわざわ蠢く人の頭、どこかの妓楼の座敷からどこか調子っぱずれな三味の音色が漏れ聞こえておりました。
 見渡す大路の先まで揃って風に揺れる提灯はどこまでも続く街。そのはるか先には革命以来まともに治められぬままの国土が広がってるのだと、一体この街の民のどれほどが知っていたでしょう。
 地方は疲弊を辿るばかり、民は困窮にあえいでいるというのに、いびつに爛熟したこの首都ばかりはどこ吹く風で、民達は日々を浮かれ暮らしておりました。
 私は手渡された長煙管を吸いました。慣れぬ紫煙に盛大にむせ返った私が見たのは、いつの間にか座敷にこれでもかと散らばった絵、白い紙に筆一本で目に入る物手当たり次第に書き散らした線描の数々でした。
 驚くやら呆れるやらで軽い眩暈すら覚えました。私がふて腐れて窓の外ばかりを見ている間に彼はこんなに見事な素描をしたためていたのかと。彼は、絵が好きなのだとだけ控え目に打ち明けて、バツが悪そうに眉尻を上げました。
 ――浩瀚、君は存外にうっかり者だ。大事にしまい込んでた本はあっさり盗られるし、少しの酒で俺が何してるか分からないくらいぼんやりしてしまうなんて、よくないなあ。
 鼻先に突き付けられた紙には何時の間に描いたのでしょう、饅頭の大皿を片手に街を見下ろす私の姿がございました。
 ――それと。
 酔鶏は、まだあるのかと目をむく私の手元、ぼんやり持ったままの長煙管に目を向けました。
 ――人の吸い差しを咥えるって、その相手が好きだっていう符丁なんだぜ。知らなかったなら覚えとけ。
  まだ火種の残った長煙管が甲高い音を立てて軒を滑り落ちました。その下では誰かに当たったのでしょうか、酔客の怒声が致します。それを宥める店員とのやり とりもやがてに喧騒に沈みました。自棄になって饅頭を貪る私も、その隣で笑い転げる悪友もまた、浮かれた街にあっては平等に浮かれ暮らす民の一人に過ぎま せんでした。
 時は薄王朝末期。後々思いますに、あれは長い低迷に差し掛かる間際、ほんの一瞬だけのいびつな栄華を迎えた時代であったと申せましょう。徒花とは実によく言ったものです。




「その後、無事に本を取り返したものの、私には彼が何をしたかったのか今ひとつ分かりませんでした。そこに出てきたのがこの本です」
 浩瀚は唐突にそう言うなり、またパラパラと頁を繰りだした。今度は戻った中ほどにあるのは窓際で抱き合う男女の絵で、男の方は煙管を片手に首を捻って外を見ているから顔は見えない。
 ――窓枠、煙管……外を見て……!?
「――ッ浩瀚!!」
 ご明察ですよ、と頭を撫でられて陽子はブゥッと膨れた。
「どういう事だよ、これって!」
 もう片方の手が鷲掴みにしているのは、どう贔屓目に見たって女の尻だ、饅頭なんかじゃない。
「饅頭の皿が女人に化けましたね。ああ、あとは袍が随分派手ですし大胆に肌蹴け過ぎてはおりますが、これらはすべて絵師の想像の産物だとご承知頂きたい。外からはただ男女が景色を楽しんでいるだけに見えますが、実は窓の下ではこのように愉しんでいる、という絵図ですね」
 言うまでもない解説をさらりと付けてにわかに浩瀚は渋面を作ってみせた。
「な かなか絵になる構図だったからつい描いてしまった、顔は出ておらぬからいいじゃないか、この本やるから許しておくれ、初刷の上物、しかも多色刷りとなれば 文句はなかろう――そんな勝手な言い分とともに押し付けられたのがこの本で、その場で私が腹立ち紛れに言い放ったのが、先ほど主上が仰られた言葉です」
「政策論っていうよりは外交論だろう、って?……うっ、ぷぷぅっ……ご、ごめっ」
 笑っちゃ気の毒なんだろうけど、それって悔し紛れ以外の何物でもないじゃないか。我慢しきれずに吹き出す陽子の肩を、やおら起き上がった浩瀚の手が押さえた。
「彼にも言われましたよ、せっかく任官が決まったのに、いつのまにか艶本に載るくらいにうっかりしてちゃあすぐに蹴落とされる、何せ国府の官吏となればみんな人並み以上に長生きで海千山千の化け物ばかりなんだからと」
 事実、その後は紆余曲折ありましたし、とすり寄る男を陽子はすっとかわした。――全くだ。
  そして今度は自分から浩瀚の首に両腕を回した。肌蹴けた小衫の中の肢体とあの絵の中の青年の肢体は似ているようで似ていない。それが秀麗なところを拾い上 げた絵とすべてを露わにして息づく現実の差なのか、重ねた年の差なのか……どちらであっても気にする事でもないけれど。
 見咎めて、腹など出ておりませんよと苦笑する声に、知っているよと返した。
「でさ、二十歳そこそこで大学を出たはずのおまえがどうして三十路になっているのかはさておいて、酔鶏の方はどうなったんだ?」
 少なくとも自分が知る官の中にそんな字はないから下位にいるのだろうか。もし国官になっているのなら、若い浩瀚に一杯喰わせた喰わせ者に一度会ってみたい。
 そんな陽子の目論見を見抜いているのか、白い肌の下の筋がくつくつ細かく震えている。
「この『政策論』はなかなかよく売れましてね、最初は廉価な墨摺りのみだったのがすぐに多色版も出回るようになりました。ちなみに私に回ってきたのはその初刷ですが、小金持ちの収集家などからも求められるようになったのです。しかしそれが仇となった。
 これが出回ったおかげで裕福な彼の実家に正体が知れるところとなりまして、すったもんだの挙句彼は絵筆を折りました。そして数年後には国官になったと、そう聞き及んでおりますよ」
 そのいかにも他人事な言い草が胸に引っかかった。
「え、じゃあ浩瀚は大学を出てから酔鶏とは会っていない?」
「酔鶏が卒業する前に私は国官を辞めて松塾の塾生となりました。その後数年を経て麦州府に入りましたから、当時は彼との接点はなかった訳です」
 ――昔の話ですよ。
 そう言いながら下りてきた唇に陽子は軽くちゅっと触れて、絡めた腕を解いてみせた。
「おや、つれないですね」
 そう言いながらも深追いはせずにゆったり胡坐をかく男にべぇと舌を出してみせる。
「よく運動したし、思い出話を聞いたらいろいろ変な汗が出た。だから私はひと汗流してくる。……本を片付けたら浩瀚も来たらいい」
 陽子は身軽な仕草で小衫を羽織って牀から飛び降りると浩瀚の首筋に軽く触れた。
 ――おまえ、ご実家に密告したの?

 答えを聞くでもなくひらりと衝立の向こうに消えた影を見送りながら、浩瀚はもう一度奥付の文字をなぞった。
「さて、それはどうでしょう」
  にわかに勉学に励む羽目になった悪友からも同じ質問をされた時、既に任官が決まっていた浩瀚は「さあ?」と答えただけだった。あれだけ名が売れてしまえば どこから何が露見してもおかしくはないし、もうあとは卒業するだけの学び舎で余計な波風を立てる気など毛頭なかったから。
 ただ、「鶏旦、だね」と去り際に浩瀚が、やっとやる気を出した悪友の後ろ姿に投げかけたその言葉、鶏に引っ掛けた夜明けを示すそれが居合わせた者から大学中に広がり、いつしか彼の新たな字となっていた。
 だから酔鶏という字の国官など最初から存在しない。そして大学出の国官ともなれば一絵師の地位にあるはずがない、というのもまた事実。
 まあもっとも――。
「もし主上と私の寝姿を絵にするとでも触れたなら、彼は何を差し置いても飛び付くでしょうねえ」
 絵師こそならずとも相変わらず絵を描くのは好きらしく、たまに上がってくる彼が書いた草案には達者な図解が示されていて、いつぞや主もそれをたいそう褒めていたのを覚えている。

 悔し紛れに外交論じゃないかと言い放ったあの日、彼はきょとんとこちらを見上げるなり、君は本当の才子だなどとおだてて、二人で外交論を出版しようぜとのたまってきたものだ。
 ――俺の絵に君が煽り文を付ける。政策論よりうんと売れるぞ!
 あの時は、もう半分は国官気分だったからすげなく袖にしたけれど、彼はというとその誘いをずっと覚えていて、浩瀚が官としての人生を断たれようとした時には、今度こそと辞表を胸にひっそり様子を窺っていたらしい。

 ……それももう百年以上も前の、過ぎた昔の話ですがね。

 そっと閉じた本からはほんの少し、古びた染料の匂いがした。浩瀚はそれを片手に開け放たれたままの牀榻の扉に手をかけた。




   『4s’4』のくろまぐろ様宅が募集なさっていた一周年記念リクエストに応募して書いていただいたお話でした。
以前くろまぐろ様が書かれた『政策論』がとっても印象に残っていたので(笑)、
それ絡みのお話をとお願いしたところ、なんと若かりし頃の閣下が絡んだ誕生秘話が!
今でこそそつない閣下の青い青い青春時代のお話に、ツボを突かれました。

大公になった浩瀚と酔鶏改め鶏旦、身分は離れてしまいましたが昔のよしみ、
時折はお酒を酌み交わす事があるのでしょうか。
そんな時、飄々とした鶏旦がさらっとこの時の事を持ち出して浩瀚をからかい、浩瀚が苦笑する、
そんな関係が続いていたらいいなー、なんてとこまで想像を巡らせてしまいました。

くろまぐろ様、素敵なお話をありがとうございました!

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