『4s’4』のくろまぐろ様が募集なさっていた二周年記念リクエストに応募して書いていただきました。
『閣下に以前ラブラブの妻がいた設定で。(生別でも死別でも可)嫌って別れた訳じゃないから、
陽子主上と仲良くするたびに罪悪感に駆られるんです。でもやっぱり主上に惹かれて離れられない、そんな閣下を』
とお願いしました。
何となくドロドロの精神的不倫話になるかと思いきや、『黎明考』の青閣下を髣髴とさせるこんな素敵なお話が出来上がって来ました!
いや、もうね、元奥方も陽子主上も、なんていい女なんでしょう。
いい男にはいい女がつくのか、いい女がいい男を作るのか。
回想シーンは、浩瀚にとっては挫折いっぱいの苦節時代のはずなのですが、読み終わった時にまず浮かんだのは、
「浩瀚、この果報者が!」という感想でした(笑)。
くろまぐろ様、素敵なお話をどうもありがとうございました!
往時夜想
房室に据えられた常夜灯の光が、透かし彫りを施した牀榻の中を仄かに映し出す。
臥牀に俯せた男の鼻先で踊る届く光と影の優美な紋様は、闇に沈む絹を暖色に染める一輪の花。
浩瀚はその花に手を伸ばし、茎を思わせる輪郭を掴んだ――指先は虚しく絹を掻き、何もない余白を握った手は力なく絹の海に落ちた。
今の季節ならどこにでも咲いているような、ごくありふれた花を模した意匠だ。ただし、今ここから庭先に出たところで、ここに先頃を迎えた花はない。どこにでもあるはずの花は不思議と雲海上では芽吹かない、ゆえに雲の上に住まう者にとっては全く馴染みのない花であり、浩瀚ももう長く実際の花を目にはしていない。
そもそもがわざわざ目を向けられるような花でもないのだ。なのにこの季節になると無性に思いを馳せてしまう。
雲の上に芽吹かぬ花は麦州の、しがない端官が住まう邸のまともに手入れもせぬ庭で好き放題に生い茂っていたものだ。
毎年この時期になると、窓辺にまでひょっこり顔をのぞかせる花を眺めては、取り留めのない会話を交わす二人きりの窓辺――思い起こしてしまう、戻らざる日々を――私は、一人きりで。
丁度、この花が咲き始める頃だった。息せき切って邸に帰り着いた私が、果報だと妻の手を握りしめたのは。
「国府への推挙が出たんだ。最初こそ秋官中士としてだが、いずれ朝士に推されると。候直々にお言葉を賜った」
これがどれほどの僥倖か。
当時の私はしがない一州官に過ぎず、州政になど到底参画できない地位にあった。それが突然、日頃仕える上官のさらに上の御方に付き従い雲上へと通じる門を潜り、その最奥におわす御方、麦州候その人と対峙したのだ。
もっとも、私が見たのは候の爪先に過ぎなかったが……それでも私にとっては慮外の僥倖であり、その場でもたらされたのは確かに果報であった。
候は私の身の上をすべて承知であると、将来を嘱望され国府の中枢にかなり近い高官の下に配置されながら、政変の煽りで国官の職を辞した境遇を憐れんで下さった。
かつて私が仕えた高官とは旧知の仲であり、盟友であったと。そしてその盟友を、政にはつくづく向かぬ男であったと候は評した――彼奴は些か実直に過ぎた、と。
今となっては遠い日々を思い返せば、まさにその通りと言えるのだろう。
薄王と諡された王の末期、台輔失道の報が余すところなく百官に知れ渡る頃には、元々贅に明け暮れているばかりの王に政を動かす権も気概もなく。登極当初から諸官の言いなりで動いていた政は、王の崩御と共に名実共に官のものとなるのは誰の目にも明らかで。
既に仮王には当時の冢宰が推されるとまで内々には決まっていた――金品で王に取り入り地位を買ったといわれるこの冢宰もまた、諸官の言うなりに動く小物に過ぎないただのお飾りであり、責を押し付けるには格好の人材である。
となれば問題は、その下で実質的な権を誰が握るか。
飾りの仮王を持ち上げつつ実権を握り、もし上手くいかなければその責は仮王に押し付けられるという、考え次第でいくらでも旨味がある地位を争うその政争から真っ先に脱落したのが、私が属した一派の長だった。
自分のような駆け出しの国官の聞きかじり程度では、高官達の思惑の何がどのように働いて自分が仕えた上官が蹴落とされたのか、正確なところは分からない。
ただ、王という基となるものがない朝というのは、どこを向いたところで光のない伏魔殿のようなものなのだとは肌で感じた。主はその中でも自身が正しいと思った道に踏み込み、そして足を取られた。
主があらぬ罪を着せられ、まともな審議もされぬままに国外追放の処遇を決められた頃には、私はそこに居残るただ一人の麾下となっていた。
自分は、逃げ遅れたのだ――そうとは気付かぬうちに。
「貴官が松塾に学んだのはその縁があってか」
「は」
私の鼻先で目の前で鞜が微かに確かな苛立ちを篭めて音を鳴る。それでも額づいたまま微動だにしない私の様子に、どうやら候は満足を覚えたらしい。
「義塾上がりの官は鼻っ柱ばかりが強くて扱い辛いものだ。上の者の目通りが叶うとなれば、ここぞとばかりに持論をまくし立てるたわけ者も多いが、さすがに貴官は元国官だけあって、その辺の躾はできておるようだ。
ところで、一度は在野の侠客に身をやつしながら再び仕官の道を選んだのは、それなりの野心か義憤があるからと思われるが、どうだ?」
額ずいたまま沈黙を守る私が滲ませた困惑を候は察したのか、候はまあよいと今度は羽扇を軽く叩く。
「それはどちらでも構うまいよ。しかし一度は国府に身を置いた者ならば、今の国の憤りを覚えて然るべき状況も、在野にあっていくら声高に訴えたところで、どこにも何も届きはしないとも分かっているはず。
つまり……彼奴が貴官を松塾に送り込んだのは、それを踏まえてなのだろう」
地に伏せたまま、何の感情も出さぬように堪えていた体に震えが走る。
――候は、すべてを見抜いておられる。別れの場に立ち会った私が主から何を授けられたのかを。
これから放逐される御方に何と声をかけたら良いものか。考えあぐねて私が口走った最後の挨拶が、私の運命を変えたのだ。
――……松伯の言、か。
長い沈黙の後にそう問われ「是」と答えた私に、主は自分が松塾の出だと、麦州にあるその義塾こそが松伯の教えを今に伝える場なのだと明かして下さった、そして。
――浩瀚、貴官はあまり官吏に向いておらぬやもしらぬ。その証拠に、周りを見よ。貴官の同輩や上官はとうに次の身の振りを定めているというのに、ただ一人乗り遅れておるではないか……私が学び、貴官が聞きかじった道は、素晴らしいものだ。しかしそれだけでは政の世界を渡ってはゆけまい。
それは幼少の頃から学問ばかりで、将来は役人になりたいとばかり考えていた私にとって、命を絶たれるにも等しい宣告であり……きっと私はよほど衝撃を受けたような顔をしていたのだろう。主は戯言だと繰り返して、思い付いたと何やら紙にさらさらと書き出した。
――最後の便宜を貴官に図ろう。
松塾塾頭に宛てた紹介状と、もう一つ。
――ひたすらに正道を行くならば、正攻法だけではいかん。道を歩き通せるだけの強かさも備えねばならぬ。道を知りながらその裏をかく小狡さだ。もし貴官が再び仕官を志すならば、それを肝に命じよ。
含蓄の深い遺言は、その後長く私の信念の一つとなり、片時も離れはしなかった。こうして私は今、候の御前に額ずいている。
そして、候は。
「王亡き後……いや、王が在位であられた頃より、国府で心ある官が生き伸びた試しがなかった。そういう者は皆、余州へ下るか放逐の憂き目に遭うかだ」
事実、かつての上官を追い落とした高官もまた別の者に追い落とされていた。そして恩を受けた御方の音信は何一つ聞こえてはこない、それが何を意味するか――床についた手に力が篭る。
私が仕官を志したのは……。
「国府に蔓延る専横を正したくはないか?」
私のすべてを見透かされたかのような言葉に胸が震える。国府に舞い戻るなら、私の上官を追い落とした直接の政敵がいない今、この時を外していつがある?
「正しとうございます」
それが結果として私が受けた恩義を返す事になるのだから。
御前を退出した私がどれほど高揚していたか、身の上を知った上で連れ添ってくれた妻なら私の想いをすべて分かってくれるはず。
だから一緒に堯天へ行くと言えば、妻は二つ返事で付いてくるとばかり思い込んでいた。しかし答えは――否。
とはいえこの時はまだ私はさして気落ちはしなかった。妻もまた、州府の官吏であったのだから。しかも彼女は私と違い生粋の麦州育ちでもあった。
「ならば一旦は野合の仲になればいい。候はいずれ折を見て、私を相応の地位でもって州府に戻すとお約束下さったから」
もちろんそれなりの官位を得るには相応の成果が必要だが、もし失敗したとしても今より位が下がる事はあるまい、下っ端だからね――そう笑ってみせた私に、妻はそうじゃないのと逃げるように隣の房室に駆け込んでしまった。
季節物の日用品が詰まれた普段は使わない房室の奥、意外な展開にまずは妻を追った私は、そこに置かれた抽斗に一抱え分のも紙束が仕舞い込まれているのを初めて知ったのだ。
妻はそれを手紙だと、慈しむようになぞる手紙はどれも粗末な紙を一面の文字で埋め尽くすような体裁で、空位の世に地上で生きる民の逼迫ぶりが窺い知れる。
「昔は他愛もない近況ばかりが綴られていたのだけど、この歳にもなると暗い消息ばかりになって、嫌ね」
窓から挿し込む月明かりに浮かぶ妻の影は、微動だにしない。私も、動けなかった。
私は妻を愛している。だからこの先は何も聞きたくなかった。年貌こそ似たような二人だけれど、実年齢は親子ほどに離れた年長の妻が何を言い出すかを察してしまったから。
「もしや、君は――仙を辞したいと?」
沈黙を破った私に、黒い影が確かに頷く。
「今から人に戻ったところで、取り残された時間は埋まりはしないけれど、でも……私達は子にも恵まれずにいるから、せめて下界に残してきた人達とは離れたくないの。時にしろ、距離にしろ、これ以上は一寸も」
「……ああ」
私達が官吏同士には珍しく婚姻を結んだのは子を望んだから、なのに肝心の子はただの一度も授からなかった。もっともこのまま仙であり続ければ、いつかは卵果に実を結ぶかもしれない、仙である限り時は無限にあるのだから。
しかし妻は既に仙としての生に倦んでいる――こうなってしまえば細々とでも下界とのやり取りがある今のうちが、彼女にとって下界での誼を失わぬ最後の機会なのだ。そして今ならまだ、彼女を繋ぐ縁は次へと続き、いずれは彼女自身にも新たな縁が……その先はあえて考えないでおこうと、私は拳を握りしめた。
例え下りた先が空位の国であっても、麦州はその名が示すとおり慶の穀倉地帯の一郭を担う州だけあり、他州よりは恵まれた状況にあるといえるだろう。
何より麦州候は賢治で知られる御方だ、それなら下界に戻っても心配はあるまい……もう私には妻を引き留める術はなかった。
ささやかな営みが正式に壊れたばかりの邸を引き払う朝、私は窓辺に咲き初めた花を一輪摘み、手近の書物にぞんざいに挟んだ。
――何も、嫌って別れた訳ではないのだから。
一足先に邸を引き払った妻と別れた朝、落ち着いたら手紙を書いてもいいだろうかと聞いた私に、妻であった女は頷いてくれたではないか。
まだ……縁は切れてはいない。
だったらいつか、国府で相応の成果を上げて麦州府に戻る日が来たならば、もう一度、浮かぶ瀬もあるかもしれない。僅かでもいいから彼女との誼は繋いでおこう、そのためにならできる事なら手間は厭わない。
信頼のできる知古にそれとなく彼女の様子を見守るように頼み、自分も手紙を書こう。
最初のうちこそ、そうと心に決めていたものの、国府で秋官中士として間もないある朝、出仕する道すがら行き会った人混みに私は考えを変えた。
人垣の向こうには大量の血だまりと、仰向けて倒れた男。その胸で血に染まる朝士の綬。
近く朝士の席が空くとは聞かされていたからには、既に位を巡り内々に取引があったに違いない、というところまでは想像できていた、だがこれは……。
思いもよらない形で転がり込んだ朝士の位と、そこに立って初めて見える景色に、私はようやく気付いたのだ。これは決して果報ではなかったのだと。
私が最初に国官に採用された薄王朝末期、元々政に一切興味のなかった王の下で緩んでいた国府の綱紀は、仰ぐべき王を失くしてさらに緩みきるばかりで今や政は国のためにはなく。見渡せばそこかしこに蔓延る横暴や専横――そのすべては朝廷内の覇権を握るため、今の地位を守るため、ひたすら蓄財に走るため。
本来ならそのどれもが朝士が処断すべきものなのに、昨今の事例を調べてみるとその道理がいかに通らなくなっているがよく分かる。
訴えのほとんどがどこかで握り潰され、何もなかったように繰り返される悪行の数々。結局のところ、いくら朝士の側で諸官の悪行を暴いたところで、聞き届ける側が機能していなければ意味はない――王が在れば王が、王がなければ代わりに朝を統べる者がなければ。
それがなかったために先任者は疎んじられて不幸な最期を迎えたのだ、自分とは来歴の違う彼もまた、同じ目的を密かに持って動いていた者だった。
私がここに送り込まれたのは、彼の失敗により警戒を深めた敵を油断させるためだ。そのためにわざわざ、一見国府とは関係のないところから朝士になる者を選び出したのだと探り当ててからは、蓄えた情報の一切を隠しおおせなければならなかった。
そして自分にとって弱みとなり得るものの一切も、その痕跡すら匂わせてはならない。そうなれば……当然、情を残した女への手紙など書けはしまい。
どういう訳かそう思い切れてからは、百官の思惑が複雑に入り組む仮朝でしのぎを削る日々も、それなりに上手くやり過ごせていたように思う。
先任者の轍を踏まぬよう、それでいて朝士としての職務を全うするために、あえて大物には目を瞑り、潰したところでさして影響のないない小物ばかりを選んで叩き、時には誰かの手駒となるのも厭わなかった。使えるものは敵の敵だって使え、裏をかくのも厭わない。
どうせ私だって差し向けられた手駒だ。
そう思えば、自分の本意を隠して何食わぬ顔で海千山千の曲者の間に身を置くのも、不思議と上手くできた。あれほど出そうと心に決めていた手紙もいつしか忘れ、粘り強く、手抜かりなく巣穴に潜み、ひたすら手に届く範囲の獲物を狩る――言うなれば毒虫の流儀で生き抜いて数年。
空位の続いた慶にようやく王が立った、訴えをお聞き届け下さる御方が、やっと。
新王は女王だが、奢侈に明け暮れたばかりの先代とは違い、そういう方面には一切興味のない御方で、私が数年の間に貯め込んでいた奏上の数々を熱心に聞き届けて下さった。
これでようやく恩義或るかつての上官の仇を討ち、麦候から受けたご厚恩に報いられる――この功をもって麦州府に迎えてもらえる、そう思った矢先だ。
彼女から私に一通の手紙が届いたのは。
懐かしい手跡に震える手で触れ、手紙を開く……そこにはこう記されていた。
縁あって婚姻を結び、里木に子を授かりました――
「そうか……子が」
思わず声に出して呟く――良かったじゃないか。
仙の私には僅かと思える数年も人にとっては大きな年月。元より子を望み、人としての縁を望んで私の元を去った妻ならいずれはそうなると、最初から予感めいたものはあっただろう?
なのに何なのだろう、この……今まで積み上げようやく得られた成果の一切が音を立てて崩れるような感覚は。
その後にも文字は続いているのに目が滑って上手く読み下せず、諦めて辿り着いた最後の一文に私は目を瞠った。
――ここまで袂を分かってしまえば、貴方が何をなさっても私に累は及びません。ですからどうかご自身が望むままの働きをなさって。
「私が、望むまま?」
それなら……私に与えられた府署に設えられた書棚、その一郭に。固く封印を施された、私があえて目を瞑っていた慶のとある部分に関する書類の一式が。
「……かたじけない」
握りしめた手紙の上に落ちた雫が色濃い輪を滲ませた。
麦州城の正殿。州官であった頃にただ一度だけ足を踏み入れただけの場所に、最上級の絹に身を包む男とありきたりな官服を纏った自分がいる。
数年前は爪先と対峙するだけでも恐れ多い御方であった麦州候その人に、今は王の勅使として真っ向から頭を上げて対峙する自分を、あの頃の私は想像できただろうか。
「ようやく候より賜りしご厚恩に報いる事ができました。これで国府の風通しも少しは良くなりましょう。そして候にとっての目の上の瘤も、綺麗に消え去った訳でございますな」
あえて棘を含んでみせた言い草に、候は国府で揉まれて肝が据わったかとお笑いになられたが、その目ばかりは笑いきれてはいなかった。
あたかも目の前のふてぶてしい、そして今はもう用済みの若造をどう始末してやろうかと企むように、ねめつける視線――事実、朝士の告発によって空いた椅子にこの御方が首尾良く納まれば、私の処遇など何とでもできるだろう。
私が空けた穴はそういう類のものであり、また候はそれを埋めるに十分な器量がある。だからまだ余裕でこちらを見やる御方に、私は一枚の書状を差し出した。一目見るなり分かる御名御璽入りの書状を。
「悪を謗る者が善であるとは限らぬと、私は候から学びました。
候の手腕は誰もが認めるところです。空位の時代にあって麦州は実に能く治められている。国府からこちらに向かう道すがら、馬で街道を走るだけでも実感致しました。
他州に比べ耕地の多くが放棄されず保たれ、民の生活水準は比較的良いと申せましょう――しかし、それにしては国に上がる税が割に合わないのです。候は、実際には収穫がある農地を耕作放棄地と算定して国府に報告しておいでだ。
麦州は自分に任せて国府や他州の綱紀を正せと命じながら、ご自身は専横を極めておられた所業、朝士として看過する訳には参りますまい。
主上の命により、候を捕縛致します。申し開きがありますならば秋官になさいますよう」
ややあって漏れる、重い吐息。
「離縁したとは申せ、細君が健在のうちは余計な動きはすまいと思っていたのだが」
「離縁した者に類など及ぶ道理はございますまい。ましてや今は、他人の妻にございます」
殊更自分に言い聞かせるような自分の言葉に、自嘲の笑みすら浮かぶ。
――君は、何かを察していたのだろうか?
元々は官吏同士の夫婦。お互いに弁の立つ私達なのに、あの夜ばかりは君の言い分だけが通っていた事に、君は気付いていたのだろうか。
私がこの任に選ばれたのは、何も元国官だからとか野心や義憤からだけではないよ。いざとなれば切り捨てても惜しくない程度の端官だから、というのも少し違う。
私には妻があったから、共に国府に行けば妻ある官なら危ない橋は渡るまいと相手を侮らせて密命を果たせる、もし君が麦州に残ったとしたら麦州側の後ろ暗い部分に目を瞑らせるための恰好の質になる。候は最後まで失脚した主を見捨てられずにいた私を、よく理解しておいでだった。
最初に麦州は任せろと候が仰せになられた時から、この州府に秘められた薄暗い何かは感じていた。感じながらも私は情で自分の目を瞑り、候の意のままに働いてきたとも。この数年で潰した褐吏は一人一人はさして重要な官ではなかったけれど、すべて候の敵でもあった。私は候の忠実な手駒だった。
しかし候はご存じあるまい――私をこうして貴方と対等に対峙させているのもまた、すべてを察した彼女からの情なのだと。
「主上は、私からの奏上に熱心に耳を傾けて下さいました」
例え主上がご執心なされたのが肝心の数年かけて積み上げた専横の数々そのものではなく、これにより大幅に変わるであろう諸官の勢力図であったところに多少のわだかまりを感じたとしても、今の私には今この時に得られた結果がすべてだった。
候は私が突き付けた書状には目もくれず、真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「それで、私が消えた穴は誰が埋める」
「国府でしたら、しばらく小競り合いは続くにしろ、じきに穴は埋まりましょう」
いくら麦候が中央への足掛かりを付けるべく裏で動いていたとしても国官の層の厚さを考えれば、いずれ誰かしらが頭角を現して空いた穴は埋まるもの――海千山千の国官を侮られぬがよろしい、というのは皮肉が過ぎただろうか。
「若造が。では、貴官が引っ掻き回してくれた州府の後始末は、どう付けてくれるのかね?」
麦候が捕縛されれば、それに関わった多くの官が罪に問われ、裁き次第では大量の欠員が出る恐れがあったが……。
「火消しの役目でしたら、謹んで私が引き受けましょう」
あまりに意外な展開だったのだろうか、ぐうの音も出ない様子の候に向けて、私は初めて笑顔を見せた。
「既に主上から内々の宣旨を賜っておりますれば」
いくら水面下で罪を犯していたとはいえ、人望篤い州候の後釜がそれを暴いた無名の、しかも麦州府からの推挙を受けた国官ともなれば、最初の風当たりは、それはもう厳しいもので。右も左も分からぬ新王に何を吹き込んだのかと揶揄される事も度々だったが、やがてこれはまだましな人事だったのだと知れる事になる。
何せすべては権力に執心した女王の気分一つで決められたのだから。臣下は振り回されるばかりで必要な場所に適任が置かれる訳でもなく、国土は貧しいままに放置され、どこもかしこも辻褄の合わぬ朝は建て直す糸口を掴めぬままに疲弊し……おかげで今年は秋の実りが少しばかり悪かったと、雲上へ続く門の下で州都を見下ろす私の周りには、あの花が咲き乱れていた。
気分転換の散歩で見つけた場所で、
「――候、浩瀚様!」
草地をかき分ける足音に思わず肩が竦む。振り返れば声を怒らせ、ついでに肩も怒らせた柴望が立ちはだかっているのは想像しないでも分かるから。それでもせいぜい愛想良く振り向いてやると、やはり思ったとおりの光景がそこにあった。
「護衛も付けずに門の外にお出ましとは、些か不用心でございましょう」
「だからと言って州宰まで一人で出歩いては、それこそ不用心の極みだと思うが?」
すかさず揚げ足を取る私に柴望は呆れたように、目障りにならぬ程度に精鋭を連れていると言い、腰ほどまでに茎を伸ばして咲く花に手をかざした。
「候がまだ国府におられた頃に私が散歩でよく訪れていた里に、この花を随分綺麗に咲かせる家がありましたが……こうも好き勝手に生えていると、やはり雑草。あまり見目は良くありませんな。
本来ならば州府内の敷地はすべて整えなければならないのですが、一向に手が回らず申し訳ありません」
「捨て置け。余人の立ち入らぬ場所の草刈りに費やす金があるなら蓄えに回せと命じたのは私だ」
袖に隠れた拳の中で、握りしめた物がくしゃりと音を立てるのを隠すように、私は続けて話しかける。
「それで、州宰がわざわざ探しに来たからには、それなりの報せがあるのだろう」
「は」
もたらされた報せに思わず仰いだ天は鈍色に翳りを帯びている。ここ数か月、病に伏せられたのではとの噂が絶えなかった台輔がとうとう登遐なされたと――また一つ、朝が終わるのだ。
僅か二十年余りで国は斃れる。
初めて主上の拝謁を賜った時に感じたわだかまりは年を追う事に暗い影を落とし、それでも忠義を尽くしてきたのは、ひとえにたった一人の君と、君を含んだすべての麦州の民のためだ。
かつての妻からの新たな夫と子を授かったと報せる手紙、どうしても読み下せなかった文には、別れた時こそ貴方以上の御方はいないと思い定めていたのに人の縁は分からぬと、だからきっと貴方にも好い方が現れるでしょうと書かれていたが……ここに至るまで波風の一つも立たなかったとは言わないけれど、私には君以上の女はいなかったよ。
だから、この麦州で誰かの妻として母として生きる君のために、州候としてすべての麦州の民に尽くしてきた力がどれほど役に立っているのか、考えるのはいつもそればかりだった。
私の働きが、君がありきたりの人としての生を全うするための一助になっていたら、それこそが何よりの果報だ、そして。
これから沈みゆく国で、君が遺した者のためにどこまで尽力できるか。
荒れ地に咲く花は、下界では珍しくも何ともない花。
そんなありふれた花に囲まれた家で、最後に見たのは生まれたばかりと思しき赤子を抱く夫婦の姿だったと、柴望はしみじみと呟いた。
「その後すぐに候のお傍に上がり、以来脇目も振らずに働き詰めでしたから。我々は人としての節目も気付かぬ間に通り越しておりましたな」
「……そうだな」
現世から別れたはずの官吏がふつりと下界に舞い戻ってしまう、例えばかつての妻のような事例はままあるのだと聞かされ、自分もいつかその局面が訪れるのだと思ってはいたものの、気付けば私はそこに引っ掛かる暇もないまま通り過ぎていた。
「柴望、おまえには世話になった……すまぬが世話ついでに少しばかり目を瞑っていてくれないか」
後悔ばかりが募る、別れを切り出された夜、どうしてもっと言葉を尽くして引き止めなかったのか。君に新たな縁ができる前に自分に課せられた使命を果たしてしまえなかったのか。愛した君はもういない。
隙間もなく草花に覆われた地の、幾重にも絡む根の張った土に簪を突き立て、ただひたすら土を掘る。そこに袖の内から落とした手紙は固く丸まって――そして穴を埋めた。君を想うのはこれで最後だ。
「――さて、散歩はここまでだ。短い安寧の時代は終わってしまう、こうなれば肚を括って今までの貯えを吐き出す準備をせねばならん。もちろん、いよいよ自棄を起こすであろう主上への対策も」
一面の草花に覆われた足元、ぽっかり剥き出された土の下に私の背中を押した手紙が埋まっている。そこには枯れ果てた一輪の花も添えて。
人として生を全うし麦州の地に還った彼女のように、手紙もやがて土に還ったに違いない。
――あれが最後の感傷だと、そう決めたはずなのに。
こんな私を見たら君はきっと笑うだろう。貴方にだって好い御方がおられるのにねと、窓辺に飛び出た花を軽く小突いて……きっと君はそう言う。
君との間に横たわる感情は、もはや身を焦がす恋情とは違うはず。
なのに私は。
新たに愛する御方ができた今でも、とうの昔に去った恋の痕跡が引き攣れて疼くのだ――特にこんな物思いに耽る夜は。
常夜灯の灯りがふいに途切れた。色を失くした絹布にかざした手を一条の月明かりが真っ直ぐ射抜き。やがてそれは牀榻に淡い光を呼び込み、細い人影を織り込んだ影を成した。
「――主上」
「何も言わなくていい」
ゆるりと擡げた身に少女の体が重なる。
「抱かれに来たんじゃない、抱きに来たのでもない……おまえを、抱きしめに来た」
「はい……」
抱きしめられる温もりは無言の慰撫に満ちていて。胸の奥底で密かに引き攣れた場所ですら、柔らかく包み込んで下さるようで。
か細い身体に腕を回して、迷いなく抱きしめる――過去は消し難く後悔は尽きるところを知らない。ですが、今は――貴女が私のただ一人の御方です。
冴え冴えとした月明かりが差し込む牀榻で。一つの影を象る二人は確かな温みを湛え、いつまでも解けようとはしなかった。
<終>