祈念樹



桜は慶の花だ。

 慶主はそう言って笑った。初めて国主の執務室に足を踏み入れたとき、庭院にどっしりと聳える古木を見て、慶主は感嘆の溜息をついた。そして、その由来を 宰輔に訊ねたのだ。宰輔は淡々と語った。かつて、胎果だった古の延王が同じく胎果だった前景王のために植えさせた樹だと。由緒正しい樹なんだな、と慶主は またも感嘆した。

 春になると古木は美しく花開く。慣れない仕事に疲れた慶主はしばし筆を置き、眼を細めて桜を眺めた。国を荒らすことなく、宰輔も残し、静かに去った前国主の縁の花を厭うことなく。宰輔はそんな慶主を淡々と補佐する。浩瀚は気遣わしく宰輔を見つめていた。

 慌ただしく日々は過ぎ、慶主は徐々に政務に慣れていく。宰輔や冢宰が付ききりにならなくなった頃、慶主は不意に訊ねた。
「景麒は桜が嫌いなのか?」
「何故そう思われるのです?」

「時折……辛そうに桜を眺めている」

 浩瀚は微笑した。慶主は宰輔の様子に気づいていたのだ。咲き初めた桜花に目を移し、浩瀚は静かに告げる。
「桜とは、そういう花なのですよ」

「浩瀚もそうなのか?」

 慶主の問いに、浩瀚は僅かに眼を瞠る。慶主は浩瀚から目を逸らし、小さな声で呟いた。

「お前も……時々辛そうだ」

 浩瀚はただ微笑する。慶主もまた麒麟に選ばれた王なのだ。闊達で革新的だった女王に比べると凡庸な王だ、と密かに言われてきた。それでも、慶主は不平を言うことなく鷹揚に坐していた。それも王の資質なのだ、と気づかされる。
「――慶の民は、みな己の桜を胸に抱いております。永きに亘りここに立つ古木は、人の心にも住まうのでしょう……」
 慶主は黙して頷いた。そのまま古木を切なげに見やる。浩瀚は静かに慶主を見守った。やがて。
「――赤子は、私が生まれた頃には、もう偉大な王だった」
「かの王も、そう言われました。隣国の稀代の名君とご自分を比べて」
 はっと視線を戻した主に、浩瀚は笑みを送る。主は淡く笑い、そうか、と呟いた。
 浩瀚は遠い昔を懐かしく思い出す。隣国の王が桜好きな女王のために植えさせた樹。執務室から見えるこの場所への植樹を提案したのは浩瀚だった。そう、この古木は今は亡き女王のための樹だ。そして、慶主はこの樹を残してくれた。ならば。

「桜を、植えましょうか」
 あなたのために。

 浩瀚は胸で慶主にそう告げる。しかし、慶主は即座に首を横に振った。そして、口を開きかけた浩瀚を制して笑う。

「今はいい。いつか……」
 景麒に寄り添うことができたら。

 そう言う慶主に、浩瀚は深く頭を下げた。

 それから時は経ち、庭院の桜花を眺める宰輔の隣には慶主が立つようになった。そして、古木の傍に若木が植樹されたのだ。
 春早いある日、慶主は宰輔と冢宰を伴い、庭院に降り立つ。そして、嬉しげに若木を見つめ、弾んだ声を上げた。
「蕾がついた」
「きっと、綺麗な花が咲くでしょう」
 笑みを湛えた浩瀚の言葉に宰輔も頷く。
「あっという間に大きくなるでしょうね」
 この樹のように、と続ける宰輔を、主は凝視した。宰輔は微かに唇を緩め、深く頭を垂れる。
「そうだといいな」
 慶主は己の半身を見つめて静かに微笑んだ。浩瀚もまた労わり合う主従に笑みを送るのだった。




2015『十二国桜祭』参加賞として頂いて参りました、管理人・速世未生様の作品です。
陽子登遐後の新しい慶主と景麒達のお話です。
景麒が喪った先の二王を忘れることは一生ないのでしょうが、
それでも、新しい主の鷹揚さに包まれ、安らいでいるようで安堵します。
自身も痛みを抱えながら、そっと主従を見守る浩瀚も素敵ですv

未生様、ありがとうございました!

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