仮王の招聘



 閭胥(ちょうろう)を罷免されて尚、沍姆は里家に住み続けた。里人にはしばらく辛く当たられたが、気にすることはなかった。罪を唆したのは沍姆自身であり、罪を贖うために州城へと走ったのだ。それは贖罪の続きでもあった。
 あれから幾歳が過ぎただろう。季節が巡り、日常を繰り返すうちに、この里に仲韃の娘がいたことも、その元公主を里人皆で私刑に処そうとしたことも忘れ去られていた。仲韃の圧政から芳を解放してくれた恵州侯が仮王となって蒲蘇へ移り、じりじりと沈む芳を支えているのだ。里人も小さなことにいつまでも拘ってはいられなかった。

 微かにちらついていた淡雪が儚く融けた早春のある日、沍姆の許に使者が訪れた。空飛ぶ騎獣で現れたその勅使は、仮王からの親書を携えている。震える手でそれを受け取り、中を検めた沍姆は眼を瞠った。勅使とともに鷹隼宮を訪れるように。親書にはそう書かれていたのだった。
 蒲蘇へ行くのは初めてだった。ましてや、目的地が鷹隼宮とは。緊張に打ち震えながらも、沍姆はできる限り身なりを整え、勅使に連れられて王宮へと向かったのだった。

「久しいな、沍姆。息災だったか」
 仮王はかつての恵州侯月渓である。旧知の沍姆に相対し、親しげに声をかけてくれた。沍姆は平伏したまま畏まって応えを返す。
「お蔭さまで恙なく過ごしております」
「顔を上げるといい。会わせたい方がいる」
 促されてゆっくりと顔を上げた沍姆は、仮王月渓の傍にいる若い娘に視線を移し、驚きに眼を見開いた。紺青の髪と紫紺の瞳を持つその娘は、まさか。

「ご無沙汰しております、沍姆」

 簡素な官吏の服を身に纏い、優雅に拱手したその娘は、かつて沍姆の里にいた元公主だ。沍姆は声なく娘を凝視した。一度顔を上げた娘は、真っ直ぐに沍姆を見つめ返す。

 これはいったい誰なのだろう。

 沍姆の知っている娘、玉葉は、叱責を避けるためだけに仕方なく頭を下げていた。公主の責任を果たすことなく放埓に育ち、地位を追われて情けを乞うた卑しい娘。しかし、目の前に立つ者は、澄んだ瞳で凛然と沍姆を見つめるのだ。

「あのとき、命を助けていただき、本当にありがとうございました」

 娘はそう言って深く頭を下げた。その言葉は真摯で嘘がない。顔を上げた娘は、眩しい笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「今の主である景王が、真実相手に感謝すれば自然と頭が下がるもの、と仰いました。今の私にはよく分かります。沍姆、ごめんなさい。そして、ありがとう」
 自分で見たものが、俄かには信じられない。沍姆は戸惑いを隠さずに仮王月渓に眼を向けた。月渓は温かな笑みを見せて頷く。沍姆は不思議な感動に包まれていた。

 何故、元公主は生きることを許されたのか。沍姆の息子は死んでしまったというのに。

 そんな思いが胸を塞いでいた。沍姆から息子を奪った憎い仲韃の娘。穏やかに接することなどできようか。自分が何故憎まれるのかも分からない娘になど。そんな沍姆が私刑を止めさせるために州城に走ったのは、元公主のためではなかった。彼女を生かす、と決めた月渓のためだったのだ。
 怨みは人に何一つ与えない、と穏やかに沍姆を諭した月渓は知っていたのだろう。この娘が、変わることができるのだ、と。ならば。
 沍姆は娘に向き直り、己も深く頭を下げる。そして、厳かに娘のかつての字を呼んだ。

「ご無沙汰しております、祥瓊さま」

 里では玉葉と呼ばれていた元公主祥瓊は、大きく眼を瞠る。紫紺の瞳はたちまち潤み、美しい雫が頬を伝った。その涙を拭うこともせず、祥瓊は沍姆に応えを返す。

「――ありがとう、沍姆」

 沍姆は微かに唇を緩め、小さく頷いた。胸を塞ぐ思いが消え去ることはない。しかし、愚かだった己を悔い、行いを改めた元公主は美しい。沍姆に元々の字を呼ばせるほどに。再び深く頭を下げた祥瓊はそっと目許を拭っていた。

「――祥瓊さまは景王の勅使としていらした。この花を届けるために」

 温かな瞳で二人を見守っていた月渓は、ゆったりと口を開いた。他国の勅使を尊称で呼ぶ月渓に、沍姆と祥瓊は同時に吹き出す。
「――今の私は景王に仕える一介の官吏ですから」
 苦笑混じりの祥瓊の言葉を聞いた月渓は、照れ臭そうに頭を掻き、そうでしたね、と答えを返す。そんな月渓が指し示したものは、小卓に飾られた薄紅の花をつける一枝。
「これは……」
「桜、といいます。蓬莱では春を告げる花だそうです」
 我が主は胎果ですから、と祥瓊は笑う。そして、北方の芳に合わせて高地に自生する雁の桜を持ってきたのだ、と続けた。

「この樹が根付く頃には……」

 月渓の溜息のような声は途中で掻き消えた、月渓は静かに沍姆を見つめる。沍姆は深く頭を下げて応えを返した。

「――残りの生は、この樹の守をして過ごしましょう」

 未だ元公主を尊称で呼ぶ主の意を汲み、沍姆は微笑んだ。沍姆亡き後は、月渓を慕う里人が遺志を継いでくれるだろう。沍姆は任を解かれて帰郷した主が穏やかに桜花を見上げる様を思い浮かべた。
 僅かに目を瞠った月渓は、切なげに笑んで小さく頷いた。




2017『十二国桜祭』参加賞として頂いた……いえ、参加賞などおこがましい参加でしたけれども(汗)、
それでもやっぱり頂きたくて、我慢できずに強奪まがいに頂戴した管理人・速世未生様のお話です。

いつか、沍姆が生きているうちに、こうして祥瓊と和解ができたら……祥瓊のみならず、沍姆のためにもそう願ってやみません。

未生様、素敵なお話をどうもありがとうございました!

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