花信風



 回廊には暖かな陽の光が射しこんでいた。開け放たれた窓から、薫る風に乗って薄紅の花びらが舞いこんでくる。茶道具を持った女御鈴は、笑みを浮かべて国主の執務室へと向かった。
 景王陽子は筆を持つ手を止めて庭院を眺めていた。盛りを過ぎた桜の樹がはらはらと花を散らしている。愁い顔を見せる陽子が小さく呟いた。
「桂桂……」
 書卓の上には案件とともに書簡が置かれていた。恐らく瑛州の少学に通う蘭桂から来たものなのだろう。鈴はくすりと笑って声をかけた。
「会いたいなら、会いに行けばいいんじゃない?」
 そのまま手早く茶の支度をする。仕事はまだ残っているようだが、どうやら我が主上はお疲れのようだ。少し休んだ方がよいだろう。しかし、陽子は首を横に振る。
「そんなわけには……」
 いかない、と声が続く前に、鈴は陽子の言葉を遮った。生真面目な国主は、己が休むことにかけてはいつも消極的だ。
「いつか、虎嘯もそう言ったんでしょう?」
 国主を守る役目の大僕は、多忙な国主とともに休みがない毎日を過ごしている。陽子は以前、弟孝行をしろ、と虎嘯に休暇を勧めたが、そんなわけにはいかな い、と虎嘯は固辞した。それを、仕事が溜まり過ぎて執務室から出られないから、と言って陽子は強引に虎嘯を休ませたのだ。
 鈴の指摘に、陽子は黙して俯いた。きっと、蘭桂の勉学の邪魔をしてはいけない、などと思っているのだろう。控えめな陽子らしい。けれど。

「この国で一番偉いのはだあれ?」

 鈴は湯気の立つ茶杯を差し出しながら笑い含みに問うた。陽子は唇を尖らせる。命じれば何でも叶う立場にありながら、陽子は権を行使することをよしとしないのだ。鈴は陽子の顔を覗きこみながら畳みかけた。

「王さまよね?」

 広げられた手紙にはただ一言、桜が綺麗です、とあった。蘭桂も金波宮で陽子とともに花見をした日々を懐かしんでいるのだろう。昔から、我儘など言わない子だった。忙しい陽子に、自分から会いたい、とは言えないに違いない。
 陽子はふいと横を向いて答えを拒んだ。鈴は苦笑を浮かべて溜息をつく。そのとき、新たな味方が現れて、鈴を加勢した。

「王さまの願いが叶わない国ならば、民の願いなんか叶うはずもないわね」

 陽子は渋い貌をして声の主を見上げる。茶菓子を持った祥瓊がにやりと笑っていた。陽子は己を挟んで攻め挑む鈴と祥瓊を見やり、肩を竦めて両の手を挙げる。鈴は祥瓊と顔を見合わせて勝利の笑みをほころばせた。

 翌日、宰輔と冢宰の許可を得た陽子は意気揚々と金波宮を発った。王のくせに臣の許しを求める陽子に、鈴はまたも苦笑したが、その眩しい笑顔に、休暇を勧めてよかった、と心から思う。
 突然現れた陽子を見て、蘭桂は驚くだろうか。けれど、姉と慕う女王の来訪は、蘭桂をも喜ばせるだろう。再会する二人の顔を想像し、鈴は朗らかな笑みを浮かべる。吹く風は桜の匂いを運びこんでいた。




2014『十二国桜祭』の参加賞として頂いた、管理人・速世未生様の作品。
陽子がそっと桂桂の成長を見守るこの一連のシリーズが大好きです。

未生様、ありがとうございました!

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