蝉時雨



病室を出ると、途端に蝉時雨が襲ってきた。

梅雨の開けた七月の日差しが、渡り廊下の床にくっきりとした窓枠を描いている。

――そうか。晴れていたんだなぁ……。

両手に荷物を抱えた黒崎一心は、窓の外を眺めてしばし放心した。
病室にももちろん窓はあった。
が、ここ数日は毎日が怒涛のようで、正直そこから見える空がどんな様子だったのか、とんと覚えていない。
耳の中でわんわんと蝉の合唱が響いている。

――赤ん坊の泣き声みてぇだな……。

声そのものというより、強弱を付けて泣く様がよく似ている。
先刻まで抱いていた生まれたばかりの息子を思い出し、一心は思った。

『一護』と名付けた小さな命。
元死神の父と、虚を抱えた滅却師クインシーである母の間に生まれた息子。
だが、出来るならその血に振り回される事なく、穏やかな人生を歩んで欲しいと思う。

いつの間にか止まっていた足を動かしながら、ふと前を見た一心は、人が立っているのに気付いた。
外の明るさに慣れた目には、渡り廊下の先、暗い病棟の入口に佇む人物の姿はよく見えない。
しかし、相手が真っ直ぐこちらを見ている事は分かった。

――誰だ?

近付きながら、目を眇める。
殺気は感じなかった。
それどころか、どこか懐かしさを覚える気配だった。

ほのかな緊張感を抱えて、ゆっくりと近付く。
暗さに目が慣れ、相手の姿をはっきりと捉えた途端、一心の足は再び止まった。

「お前……」

目を見開いた一心に、彼の胸辺りまでしか背丈のない少年は、ぺこりと頭を下げた。

「……お久しぶりです」

それはかつての一心の部下、日番谷冬獅郎だった。

***


「本当に久しぶりだなぁ」

蝉時雨の中、一心は自身の影を踏むようにして歩きながら隣を見た。
少年は、産院を出てからずっと黙ったまま付いてくる。

真咲に再会するため、現世に赴いた日。
そして彼女と魂を繋いだあの日が、冬獅郎に会った最後だった。

「しっかし、全然身長が伸びてねぇよなぁ」

手を伸ばし、昔と同じようにくしゃくしゃと銀髪をかき混ぜると、俯いていた緑の瞳がキッと彼を睨み上げた。

「どこ見てんですか!五センチも背ェ伸びたんスよっ!」

ようやく『らしさ』を見せた少年に、にやりと笑う。

「おお悪ぃ悪ぃ。あまりにささやかな変化で気付かなかったぜ」
「その目ん玉、節穴ですか」
「まぁそう怒るな。十番隊隊長さんよ」

冬獅郎の、糊のきいた白羽織をピンと弾く。

「気配が変わってて、最初誰だか分かんなかったぜ。――卍解を、会得したんだな」

冬獅郎は再び無愛想な表情に戻り、頷いた。

「その年で凄ぇもんだ。ま、お前ならいずれ卍解に至るだろうとは思っていたがな。隊首試験に立ち会った隊長達が、満場一致で即決したって聞いたぞ」
「……どこでそれを」

一心は両手に荷物を抱えたまま、器用に肩を竦めた。

「『蛇の道はヘビ』ってな。俺も、尸魂界と完全に切れた訳じゃねぇのさ」

冬獅郎はじっと一心を見上げていたが、やがて明るい夏空へと視線を転じた。

「……正直、まだ氷輪丸を……斬魄刀を完全に屈服させた訳じゃねぇんです」

頭上に枝を広げる木々の葉と同じ翡翠色の瞳を眩しげに細めながら、ぽつりと呟く。

「今は、ギリギリのところで踏ん張ってるっつーか、留まってるっつーか」
「最初は誰だってそんなもんだろうよ」

卍解に至る事とそれを使いこなす事は、別物だ。
本来なら、若い冬獅郎は十番隊の席官として更に修練を積み、卍解を操る術をじっくり身につける筈だった。
その青写真が狂ったのは、一心が出奔したせいだ。

「お前には悪ぃ事しちまったな」

隊長に据えられてしまえば、雑務に振り回され修行もままならないのが現状だ。
だが、冬獅郎は首を振った。

「他の隊の奴が来て隊長になるより、マシですから。……そう話し合ったんです。松本ふ……松本や、席官のみんなで。だから、卍解に一番近付いている俺が頑張ろうって」

一心の脳裏に、かつての部下達の顔が懐かしく浮かんだ。

「みんな、達者にしてるか?」
「はい。志波隊長がいなくなって、寂しがってますけど」

冬獅郎の足が、つと止まる。

「あの、隊長」
「ん?」
「隊長が現世に留まる事になった事情は、だいたい聞いてます。けど……本当にもう、尸魂界こっちには戻らないつもりですか?」

――ああ、そうか……。

冬獅郎が、松本達十番隊の面々が、何故彼の隊長擁立を決めたのか。

――俺の居場所を、護ろうとしてくれたんだな………。

出奔した一心が戻った時に、収まる場所があるようにと。
きっと冬獅郎にとって今の地位は、『志波隊長が戻るまでの預かり物』なんだろう。
一心の胸に、くすぐったい様な温かい気持ちが広がった。

――俺は、いい仲間を持ったなぁ。

理由を説明する間も無く別れたというのに、そんな自分を待ってくれている仲間がいる。

だが、だからこそ。
けじめは必要だと思った。

「冬獅郎」

少年を真っ直ぐ見据えて、一心は言った。

「十番隊の隊長は、もう俺じゃねぇ。お前だ」

僅かに目を見張った相手に、続ける。

「俺は今まで護廷の隊長として、瀞霊廷とお前等十番隊の為に命を張ってきたつもりだ。――これでもな。けど俺はここに、俺にしか護れないモンを、護りたいモンを見付けちまったんだ」
「――それが、黒崎真咲ですか?」
「ああ。それと、先日もう一人増えた。――悪ぃな。俺の戻る場所は、もうここなんだ」

一心を見つめていた冬獅郎の口から、細いため息が漏れた。

「……そうっスか」

落ち着いた声音だった。

「驚かねぇんだな」
「何となく、隊長がそう言うような気がしてたんで」

けど、と、冬獅郎は俯いた。

「きっと松本ふ……松本は、かなりがっかりすると思います。隊長が居なくなって一番落ち込んでたの、あいつだし」
「隊長はよせって」

一心は再び歩き始めながら、続けた。

「松本は、ああ見えて結構繊細で寂しがり屋だからなぁ。副隊長はあいつが続投するんだろ?最初は気ィ遣ってる余裕なんざ無ぇだろうが、慣れてきたら上手く甘えさせてやれ」
「分かってます」

ぶっきら棒に頷いた少年に、一心は笑った。

「そうか。お前等元々仲が良かったもんな」
「そんなんじゃないですけど……」

口ごもった冬獅郎は、しばらくして一心の背中に、「あの」と声をかけた。

「もう一つ、聞いてもいいスか?」
「おう、何だ」
「黒崎真咲の事を、隊……志波、さんは、いつから特別に想ってたんスか?」

一心の足が、再び止まる。

「おいおい。言いにくいことを随分ストレートに聞いてくるじゃねぇか」
「帰ったら、間違いなく俺は松本達に細かく説明を迫られますから。思いつく事は全部聞いておかないと」

そう言われると一心も弱い。
ガリガリと頭を掻くと、やがて口を開いた。

「……最初から、だな。あいつは滅却師クインシーのくせに、虚にやられそうになっていた死神の俺を助けてくれた。いわば命の恩人だ。その恩を返すために、俺はあいつと魂を繋いだ――初めはそう思っていたんだ。けどな」

一心は口ごもった。
この先を続けるのは、更に面映い。

「けど、ようく考えたら逆だったんだ。真咲は、初めて会った時から俺にとって特別だった。だからもう一度会いに行きたいと思ったし、あいつを助ける為には魂を繋ぐしかないと言われても、迷わなかった。――あんな太陽みてぇな女、俺は他に知らねぇ」

振り返って、一心はにっと笑った。

「ま、こんな気持ち、まだお前には分からねぇかもしれねぇがよ。いずれお前も出会うかもな。見た瞬間に『こいつだ!』と、思う女によ」
「……もう、会ってる」

小さく呟いた冬獅郎の声は、一心に届かなかった。

「何か言ったか?」
「いえ、何も」

冬獅郎は胸の内だけで続けた。

――おまけに恩人ってとこまで同じっスよ。

***


夏の強い日差しが、冬獅郎の黒い死覇装とその上の白羽織をくっきりと際立たせていた。
かつて同じ格好の仲間達に囲まれ、自分自身毎日纏っていたというのに、久し振りに目にした死覇装に、一心は以前は感じなかった違和感を覚えた。

――つまり、俺もそんくらい現世こっちでの暮らしに馴染んだって事だな……。

それを寂しいと思わぬでもなかったが、後悔は無かった。
例えあの日にもう一度戻ったとしても、自分はきっとまた同じ選択をするだろう。

だとしたら、これが本当に十番隊の隊長として出来る、最後の事だ。

「冬獅郎」

振り返った少年に、一心は頭を下げた。

「こんな事、俺が言えた義理じゃねぇが――十番隊を、頼む」

かつての部下、それもかなり年下の自分へ頭を下げる一心の気取らなさに、冬獅郎は思わず苦笑した。

「……変わんねぇスね、志波さんは」

そうして向き直ると、居住まいを正し同じように一礼した。

「承知いたしました」



――後日、冬獅郎はこの日の事を振り返って思った。
自分が真実十番隊隊長になったのは、隊首試験に合格した時でも隊長就任式に臨んだ時でもなく。
蝉時雨の降り注ぐこの暑い夏の日だったのだ、と。




                                                                          <終>


                                                                     2013.07.08

六周年記念SS。
捏造過多で、今後の原作次第では矛盾も出てくるかもしれませんが、我慢出来ずにフリー配布品としてUPしました。
(配布期間は終了しました。ありがとうございました!)

一応日乱のつもりで書いたんですが……書いたんですが……ごめんなさいっ、乱菊姐さん登場していないよっ!
でも隊長の『もう、会ってる』がどうしても書きたかったんだよー!

個人的に神巻認定の59巻が元になっています。
卯ノ花隊長のエピソードと、一心・乱菊・冬獅郎の旧十番隊トリオの掛け合い、どちらも大好きです。
冬獅郎はいつまで経っても一心の前に出ると、子供っぽくなったりすると萌えるなぁと思いますv

 

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