春宵



薄く開けた窓から流れ込むぬるい春の夜気に、カーテンの裾がふわりと揺れた。

浦原商店の二階。
うず高く積まれた本の狭間で、浦原喜助はふと顔を上げた。

その途端。
向かった机の端、一定のリズムで膨らんでは萎むカーテンから吐き出されるように、一匹の黒猫が畳に降り立った。

「お帰りなさい。夜一サン」

笑みを浮かべて迎えると、猫は答える代わりに長い尻尾をゆらりと揺らした。

「おや?随分とお疲れっスね?」
「……大したことはない」
「ミルク、お持ちしましょうか?」
「よい」

黒猫は喜助に歩み寄ると、胡座をかいた腿に前肢を乗せ、手元を覗き込んだ。

「新たな研究か?」
「のような、そうでないような。まだ予備知識を集めている段階っス」
「つまり、お主が一番楽しくて仕方ない部分じゃな」

言い切られ、思わず苦笑する。

「見抜かれてましたか。夜一サンには敵わないっスねぇ」

黒猫は喜助の腿を越え、脚の間へと着地した。

「邪魔はせぬから、暫く膝を貸せ」

そう言うと、喜助の返事を待たずその場に寝そべった。
手を伸べて黒猫の体を落ち着かせた喜助は、おや、と首を傾げた。

「夜一サン、何だか花の匂いがしますね?」
「……梅じゃろう。梅園におったからの」
「梅園っスか?」

一瞬、逡巡するような間が空いた。

「子供の魂魄が、さ迷っておっての」

金色の瞳が、眠たげに細められた。

「何故このような所に居るのかと尋ねたら、母親を待っていると言う。……夜中に母親に、『梅の花を見に行こう』と誘われて、二人で梅園に行った後、死んだようじゃ」

ぱたん、ぱたん。
黒い尻尾が、規則正しく喜助の腿を打つ。

「いわゆる無理心中というやつじゃの。話から察するに、父親の蒸発やら借金やらで、母子二人、生活が立ちいかなくなっていたらしい。……まあ、よくある話じゃが、の」
「………」
「ここで待っていても母親は来ぬ。そう言い聞かせて魂葬しようとしていたところで……ホロウが現れた」
「それってもしかして……」
「ああ。子供の母親じゃったよ。虚は生前愛した魂を欲する。難儀じゃのう」
「……そうっスね」

喜助は目を伏せた。
かつて人であったモノの、切ない性質。
きっと本当は、全ての虚にそこに行き着くまでの様々な理由と事情があるのだろう。

「……その虚、斬ったんスか?」
「ああ」

次の質問を言い出しかねて、喜助は口をつぐんだ。

「安心せい」

ぴしり、と、尻尾がわずかに強く脚を叩いた。

「地獄ではなく、尸魂界ソウルソサエティに行ったわ。……母子揃ってな」
「そうっスか……」

魂葬とは、虚の罪を洗い流し、尸魂界に送る事だ。
だがその罪は、あくまで虚になってからのもの。
生きていた頃の罪まで浄める事は出来ない。
生前、深い罪を犯した者は『地獄』へ落ちる。
そして――人を殺める事は、最も深い罪だとされていた。

「情状酌量の余地があったって事っスかね……」

ほっと息を吐き出した男を、黒猫は金色の瞳でじろりと見上げた。

「お主は、普段容赦ない程冷静な癖に、時々どうしようもない事に情を深くかけ過ぎる。悪い癖じゃぞ」
「……肝に銘じマス」

苦笑いを浮かべた男を、黒猫は胡乱そうに眺めやった。
が、やがて視線を外すと、宙に向かって大きな欠伸をした。

「まあ、そんなこんなでの。久々に二体も魂葬した上に、死神まで相手にしたもんじゃから、少々疲れた」
「そうでしたか……って、えっ?死神って何スか?」
「地区担当の死神よ。虚と同時に現れよったのでな、少し眠って貰った」

事も無げに言い切られ、喜助は驚いて目を見張った。

「夜一サン、それまずいっスよ!『彼ら』に目を付けられたら……」

「心配無い。一瞬でしてやったからの。こちらの姿も霊圧も、感知しておらぬわ」

泰然とした黒猫の様子に、喜助は思わずため息を付いた。

「全く貴女って人は……ヒヤヒヤさせますね」
「多少霊力を使うだけで、この位、危険の内にも入らぬわ。儂の元の『生業なりわい』を忘れた訳ではあるまい?」

確かに、二番隊隊長兼刑軍統括軍団長として君臨し、『瞬神』と称された夜一だ。
気配を消して対象に近付き不意打ちを食らわすなど、造作も無いに違いない。

けれど。

「……分かってマスけどね。やっぱり心配じゃないっスか」

呟いた言葉に、黒猫は再び顔を上げた。

「言うたばかりじゃろう。妙な所で情を深くするなと」
「アタシが夜一サンの心配をするのは、当然じゃないっスか」
「いや、余計な事じゃ」

金色の瞳に力を込めて、黒猫はきっぱりと言った。

「お主は、自分と自分の目的だけを考えておればよいのじゃ。儂はそれを助ける為にここに居るのじゃからな。こちらの心配をするなど、本末転倒。例え儂が、いつ、どこで命を落とそうと、お主は冷静に次の手を見据えて動かねばならん。――お主と、世界の為に」

迷いのない視線。
迷いのない言葉。

昔から夜一は変わらない。
迷って立ち竦む自分の背を押してくれるのは、いつも彼女だ。

多分、自分達の間にあるのは、一般的な男と女の恋愛感情とは少し違うのだろう。
少なくとも夜一が、喜助をただ『男』として見ている気配はない。

だが。
性別を超えた強く深い絆が、自分達の間には確かに存在する。
喜助は、自分の足の間に寝そべる小さな黒猫を包み込むように手を回した。

「……やっぱりアタシには無理っスよ。夜一サンをそんな風に切り捨てるのは」

何か言いかける黒猫を制するように、首を振る。

「そんな事をしたら、それはもうアタシじゃないっス」
「……」

男を見上げていた黒猫はやがて、ふん、と鼻を鳴らして体の力を抜いた。

「……この頑固者め」
「スイマセン」

謝りながら、そっぽを向いた黒猫に顔を寄せる。

「……夜一サン」
「何じゃ」
「大好きっスよ」

囁くような告白に返ってきたのは――痛烈な猫パンチだった。

   

***


「……どうも落ち着かぬな」

読書に戻った喜助の胡座の上で、何度も小さく姿勢を変えていた黒猫は、目を開けてぼそりと呟いた。
と、同時に。

「えっ?よ、夜一サン!?」

膝の上の質量の変化に、喜助はぎょっと目を見張った。

猫の姿を解いた、夜一本来の姿がそこにあった。
褐色のしなやかな腕を喜助の片足に絡ませて枕のように抱え込み、すらりと伸びた足を胡座の外に放り出し、夜一は漸く安定を得たように身動きを止めた。

「ちょっ……!夜一サン!その姿でここで寝ないで下さいよ!」

腿に感じる有り得ない柔らかさに、喜助は本気で焦った。

「……煩いのう」

面倒臭そうな声と共に、乱れた黒髪の間から金色の瞳がうっそりとのぞく。
眠たそうな視線はひどく色気を感じさせ、その瞳に捕らえられた喜助をますます落ち着かない気分にさせた。

「性欲処理なら、明日付き合ってやるから……」

爆弾発言と共に、すいっと細腕が持ち上がり、喜助の頬を撫でた。

「今は、このまま寝かせてくれい……」

言葉が途切れると共に、褐色の手が力を失ってぱたりと落ち、金色の光が瞼に閉じられる。

「……まったく貴女って人は」

喜助は諦めのため息を付くと、愛用の羽織を脱ぎ、そっと夜一の上へと掛けた。
再び研究書に意識を戻そうとしたが、夜一が少し身動きする度に感じる柔らかな感触と甘い香りが、喜助の集中力の一切を奪ってしまっていた。

「……夜一サン。これじゃあ生殺しっスよ……」

朝の気配を含み始めた天井を仰いで、喜助は情けない声で呟いた。




                                                                          <終>


                                                                     2009.02.20

 

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