卯ノ花隊長のお誕生日を記念して。
卯ノ花隊長のあれこれが判る前に書いたお話でした。
2013.07.01追記
貴方という、世界の重みは
細く開けた窓から、雨音が聞こえる。
強くなったり弱くなったりしながら、雨は一日中降り続いている。
隊首室で書類整理をしていた卯ノ花は、慣れた霊圧が近づいてくるのに気付いた。
四番隊の隊員は足音を殆ど立てない。
それは、隊舎に病人を収容している事が多いせいだ。
にもかかわらず慌ただしさを隠せないその足音に、卯ノ花は良くない報せだ、と悟る。
最も、ここに持ち込まれる報せの殆どは、良くないものだけれど。
「隊長!」
筆を置くのと同時に、室外から声がかかる。
「お入りなさい」
「失礼します」
息を乱して入ってきたのは、予想した通り七席の山田花太郎だった。
「どうしました、花太郎?」
「……浮竹隊長が、」
息を整えながら告げられた名前に、卯ノ花は思わず腰を浮かせた。
「浮竹隊長が、十三番隊の朽木ルキアさんを抱えて救護室に!浮竹隊長自身も発作を起こされたようで……」
「すぐ参ります」
素早く机の上を片付け隊首室を出た卯ノ花の後に、花太郎が続く。
「今、お二人には誰が付いているのですか?」
「副隊長と伊佐村さんが治療にあたっておられます」
あの二人がいるなら、滅多な事はあるまい。
「隊長……」
言い淀んだ花太郎を、卯ノ花は足を緩めることなく振り向き、視線だけで促した。
花太郎の顔は、今にも泣きそうにゆがんでいた。
「十三番隊の、志波海燕副隊長が……お亡くなりになったそうです」
***
海燕とその妻の葬儀が行われたのは、それから数日後。
あの日とうって変わり、何処までも透き通るような青空が眩しい日だった。
卯ノ花は隊務の都合で、志波家で行われた葬儀には参列できなかった。
だが、晴れ渡った空は、大らかで明るかったあの青年を送るのに相応しい日だと思った。
天高い青空を見上げ、卯ノ花はそっと瞑目した。
***
自隊が落ち着いているのを確認し、卯ノ花は午前中で仕事を切り上げる事にした。
後を勇音に託し、私服に着替え隊舎を出る。
手には小さな薬箱と風呂敷が一つ。
「ごめんください」
瀞霊廷の端近く。
通い慣れた屋敷の前で、卯ノ花は声をかけた。
返事はない。
それにも慣れている彼女はそっと門を開け、静かに中へと入った。
さほど広くない屋敷の裏手に回ると、こじんまりとした庭がある。
低い垣根をくぐると、果たして開け放した障子の向こうに、訪ね人が眠っていた。
卯ノ花は、眉根を寄せ小さく溜息を付くと、縁側からそっと屋敷へと上がった
***
傍らでふと人の気配を感じ、浮竹は目を覚ました。
柔らかく馴染み深い、この霊圧は。
「……烈」
午後の光の明るさに目を細め、浮竹は枕の上で小さく頭を動かした。
障子を閉めていた卯ノ花が振り返る。
「申し訳ありません。お起こししてしまいましたね」
「いや」
不覚だった。
いくら烈とはいえ、ここまで近くに人がいて気付かないとは。
「お疲れなのですわ」
彼の内心を察したかのように、卯ノ花は微笑んだ。
「志波家でのお葬儀も、全て采配されたと伺いました。お疲れが出て当然です」
あの雨の日。
救護室で、血と雨に濡れた羽織のまま、青白い顔で勇音の加療を受けている浮竹を見た時には、息が止まるかと思った。
本来ならば直ぐにでも入院させたい程、重症だった。
だが浮竹は、寝台に起き上がりながら静かに首を振ったのだ。
『烈、今は出来ない』、と。
副隊長を失ったのだ。
十三番隊の隊士達が受ける衝撃は、想像に余りある。
そんな中、隊長の姿も見えぬとあっては、隊士達はどれほど心細い思いをするか。
そうした浮竹の考えが分かるだけに、卯ノ花はそれ以上強く引き止める事が出来なかった。
勇音から引き継いで、できうる限りの処置を施すと、常用の薬を渡し浮竹を送り出した。
念のため、勇音を通して妹の清音に、浮竹の症状に異変があったらすぐ報せるよう伝えた。
諾、と返答があったまま、特に連絡がないので、気にしながらも安心していのだ。
だが今日、何となく予感がして、浮竹を訪ねてみる事にした。
雨乾堂と私邸、どちらだろうと霊圧を探り、こちらの私邸に霊圧を感じた時点で、卯ノ花は自分の勘が的中したのを悟った。
すっと手を伸ばし、浮竹の額に触れる。
思った通り、熱い。
「……体調がお悪いのに、障子を開け放ってお休みになるのは感心いたしませんね」
「えっ?」
「ご自覚がおありでしょう?」
穏やかながら嘘を許さぬ口調に、浮竹は、うっ、と言葉に詰まる。
「その……実は……」
すまん、烈、と謝る相手に、卯ノ花は小さくため息をついた。
「いつからですか?」
「……葬式の日だな。志波家から引き上げる時は、ちょっと辛かった」
葬儀は一昨日だった。
つまり、一昼夜この高熱と付き合っていたというわけだ。
「なぜすぐにお呼び下さらなかったのですか?」
卯ノ花の口調に、いささか責める響きが交じったのは致し方あるまい。
「その……ここ最近色々あっただろ?隊務が溜まっていたんだ。以前お前に貰った解熱薬があったし、事務処理だけしている分には、問題ないと思ったん、だが……その……すまん」
彼女の表情を見て再び謝った浮竹に、脈を取っていた手首を離し、卯ノ花は苦笑した。
「一口に解熱薬と申しましても、熱を出す原因が違えば処方も違いますから、効かない場合もございます。……もっと、ご自分の体をおいとい下さいませ」
本当は、と卯ノ花は思う。
本当は長く病気と付き合っている浮竹が、そんな初歩的な事を知らない筈が無いのだ。
知っていて、それでも卯ノ花を呼ばなかったのだ。
彼女だけではない。
清音や仙太郎にも、慎重に具合が悪い事を隠していた。
――多分……この方には、独りきりの時間が必要だったのだ。
隊首室でも雨乾堂でもこの私邸でも、場所は何処でも良かったのだろう。
ただ、誰にも煩わされず、静かに海燕の死を受け入れる時間が欲しかったのだ。
最も信頼する部下であり、朋友であった男を失う悲しみ。
卯ノ花にはそれを、察する事は出来ても同じ重さで分かちあう事は出来ない。
それを少しだけ悲しく思った。
だがそれは自分の感傷。
浮竹に押し付けるものでも、あえて示すものでもない。
だから卯ノ花は心の中を綺麗に隠し、ただ柔らかい笑みを相手に向けた。
「罰として、うんと苦いお薬を処方いたしますので、ちゃんと飲んで下さいね」
「うへぇ……」
子供のように顔をしかめた浮竹に、卯ノ花は小さく笑い声を上げた。
***
「烈、今日は休みなのか?」
卯ノ花の調合した苦い薬を飲み干し、(宣言通り、全く手加減のない苦さだった)再び横になった浮竹は、布団を直してくれる烈の紺染の私服に気付いて、尋ねた。
「はい。隊も落ち着いておりましたので、午後は半休を取りました」
その答えに、浮竹は申し訳ない思いでいっぱいになる。
「……毎度すまんな」
「いいえ。休みとはいえ、特に予定もございません。看病という名目で、ここでしばし寛がせていただこうかと。……浮竹様がお許し下さるなら」
何かを気にかけるような口調に、浮竹は苦笑した。
どうやら察しの良いこの主治医に、いらぬ気遣いをさせてしまったようだ。
「烈さえよければ、いくらでも居てくれ。――ただし、『浮竹様』は止してくれ。身体がかちかちに固まりそうだ」
そう言うと、卯ノ花は少しだけはにかんだ表情で、「はい……十四郎様」と答えた。
実際、穏やかな烈の霊圧は、触れているだけで不思議と心が落ち着いた。
彼女は、まさに医者であるために生まれてきたような存在だと思う。
「ではどうぞもう一度お休み下さい。私は勝手に寛いでおりますので」
「ああ」
素直に頷いて、浮竹は目をつぶった。
薬のせいか、とろりとした眠気が広がる。
「……烈」
「はい」
「朽木の様子はどうだ?」
卯ノ花が振り返る気配を感じた。
「怪我の方は、もう。ただ心の傷は……当分治りますまい」
虚にとり憑かれた海燕を止めるために、ルキアは彼を斬った。
雨の中、呆然と座り込んだ彼女を抱えて四番隊へ連れて行き、浮竹は当分の入院を申し渡したのだった。
「実はご本人からのたっての希望もありまして、明日か明後日には退院の手筈を整えております。ですが暫くは、定期的に四番隊へ通っていただこうと思っております」
「……そうか」
ルキアは海燕を慕っていた。
その彼に、刃を向けねばならなかった彼女の辛さを思いやると、胸が締め付けられる思いがする。
本来ならば、それは自分の役目だった。
あの時、発作が起きなければ。
海燕を逃がさなければ。
そもそも彼に、妻の敵討ちを許さなければ。
閉じた瞼の裏に映る光が、眩しかった。
それを遮るように、浮竹は目の上に手を翳して呟いた。
「……後悔ばかりだ」
「十四郎様?」
「……あの時、海燕に加勢しようとした朽木を、俺は止めたんだ。『これは海燕の誇りがかかった闘いだから』と。だが……本当に、正しかったのだろうか」
『命に比べたら、誇りなど!』
そう叫んだ朽木の言葉が、頭から離れない。
能力も人望も高かった海燕。
こんな所で、こんな簡単に命を落としてよい男ではなかった。
広がった沈黙の幕。
それをそっと破ったのは、卯ノ花だった。
「……男の方は、いつも辛い生き方をなさいますね」
誇り。矜持。大義。
捨てても生きていけるものに固執して、命を投げ出す。
卯ノ花自身は、ルキアと同じ事を思う。
『命を捨てては、何もならないのに』と。
けれど。
卯ノ花は布団の上から、そっと浮竹の胸に手を置いた。
「十四郎様が正しかったのかどうか、私には分かりません。ですが、私が十四郎様の立場だったとしても……やはり同じ選択をしていたと思います」
勇音が同じ事を望んだら、説得したかもしれない。
だが、志波海燕――浮竹の副官としてしか付き合いはなかったが、それでも感じる人柄・性格というものがある。
彼にとっては、確かにその道しかなかったのだと思う。
「……烈」
浮竹は、目の上に翳していた手をずらして、黒髪の佳人を見上げた。
「ありがとう、烈」
胸の上の彼女の手を握ると、卯ノ花はふわりと笑んだ。
「お休みなさいませ、十四郎様」
***
静かな寝息が聞こえてき、卯ノ花は読んでいた医学書から目を上げた。
彫りの深い、男らしい線で作られた浮竹の横顔。
だが、障子越しの淡い光の中で見るその顔色は、驚くほど白い。
――いつか、もし。
胸内をひやりと過ぎる、不安。
――いつかもし、この方が自ら死地へ向かう事を決めたら……私はどうするだろう?
止めずにはおれないだろう。
手を尽くして、言葉を尽くして説得して……それでも自分が重しにはならぬ事を知っている。
背を向け、切り捨てて行かれること。
それは病で失うのとは別種の恐ろしさがある。
そこまで考えて、卯ノ花はふっと笑った。
――さっき、自分は何と知ったような口をきいたのだろう。
結局、この方を失う覚悟など、自分はこれっぽっちもできてはいないのだ。
例え浮竹を失っても、自分は後を追わないだろう。
白い羽織を纏う自分に、その選択は許されない。
浮竹を欠いても、卯ノ花の日常は変わらず流れる。
けれど。
薄く上下する布団に、そっと額を預ける。
彼を失った世界は、きっと、自分にとって意味も重みも全く変わる。
「……居なく、ならないで下さい」
思わず、声が零れた。
自分でもびっくりするほど、弱々しい声だった。
――どうか、少しでも長くお側に……。
天に、浮竹に。
そして彼の心の一部を掠っていった、かの副官に。
そう願って、卯ノ花はそっと目を閉じた。
***
浮竹は困っていた。
日は既に傾き、障子の桟の影を長く畳の上に描いている。
光の変化に意識を揺すられ目を覚ませば、自分の胸にもたれかかって、烈が寝ていた。
長く黒い睫毛が、白い頬に影を落とている。
微かに唇を開けて眠る顔は、普段の理知的な表情に比べ、ひどくあどけなかった。
引き込まれるようにその顔を眺め、浮竹は困ってしまった。
一日中日の光で暖められた部屋はまだ暖かい。
だが、これから徐々に冷えてくるだろう。
このままでは烈が風邪を引いてしまう。
起こすには忍びない。
だが、上に何かかけてやろうにも身動きが取れない。
まして抱き寄せでもしたら……。
――やはり肘鉄が飛んでくるだろうか。
眠気などとうに吹き飛んでしまった頭で、浮竹はひたすらに考え続けた――。
<終>
2008.04.21