夕日



木々に長い影をつけながら雲海に沈んでいく光を、陽子はじっと眺めていた。

「綺麗な夕日ですね」

不意に背後からかけられた声に、一拍を置いて振り返る。
そこには、橙の光に眩しそうに目を細めるこの国の冢宰の姿があった。

「夕日をご覧になるのに絶好の場所ですね」
「だろう?」

陽子は答えて、夕日に目を戻す。

「今日は特に綺麗だ」

内殿の、雲海に張り出した露台の一つ。
普段使われていないその房室からの夕日の美しさに気付いたのは、一年ほど前の事。
以来、気が向くとふらりと訪れて、ひとり落日を眺めている。

いや、本当は『気が向くと』ではない。
嫌なことがあった時、落ち込んだ時、ふと見たいと思うのは、ここからの夕日の眺めだった。

この十日ばかり、書類の仕事に追われていた。
必要なことだと分かっているし、書卓の上に積まれている書類の山が減っていくのはそれなりに充実感もあるのだが、どうもここ数日は捗らない。
急な決裁を要する仕事が入ったり、重要な書類が期日までに上がってこなかったり、通そうとしていた件案が、今一度情報を洗いなおす必要があると判明したり……。
複雑に絡み合う国の仕組みの中では、一つの滞りが十の遅れを誘発する。
焦っても仕方ないと思いつつ、いっかな進まない仕事に憂鬱になっていた。
そんな時に、ここの夕日を思い出した。

「よくここが分かったな」

官吏にはもちろん女御達にも、この場所の事は知られていないと思っていた。
一歩後ろで立ち止まった男は、

「奥の手を使わせていただきました」

と、涼やかな声で返した。

「……景麒か?」
「御意」
「私に急用があったのか?」
「……の、ような振りをして、主上の行方をお尋ねいたしました」

さらりと告げられ、陽子はわざと渋面を作った。

「台輔に対して、確信的に嘘をつくとは……不敬な冢宰だ」
「拙めの売りは、迅速さと合理性でございます。行方をくらませた女王を捕えるのに、一番確実な手段を取らせていただいたまで」

いささか大仰に礼を取る冢宰の口元は、はっきりと弧を描いている。
不機嫌なふりも限界だった。
陽子は、ぷっ、と吹き出した。

「まったく、浩瀚には敵わないな」
「恐れ入ります」
「それで?本当はどうしたんだ?」

浩瀚は礼を解き、見上げてくる翡翠の瞳に優しく笑んだ。

「特に何も。ただ、ご尊顔を拝したく参上いたしました」

不意打ちだ、と思う。
突然そんな綺麗な笑顔を見せられたら、思考が飛んでしまう。
赤くなった頬を隠すように、陽子はぷいっと顔を背けた。

「……景麒だけではなく、私にまで嘘をつくつもりか」

王である自分以上に忙しい浩瀚が、己の願望だけでここまでやって来るはずはない。
陽子の仕事の区切りを見計らったかのように現れた、彼。
多分浩瀚は分かっていたのだ。
自分が小さな憂鬱と苛立ちを抱えていたことを。

些細な気分の浮き沈みを表に出してしまった未熟さが悔しい。
だが同時に……浩瀚が気付いてくれたのが嬉しくて。

「拙の言葉をお信じいただけないのですか?」

言外に、傷ついた、と訴える冢宰の衣を、陽子は振り返って掴んだ。

「お前は『私』の部分はひどく嘘つきだからな。言葉なんか信じない」

頬の熱は未だ引かなかったが、落日の光が映る琥珀色の瞳をぐっと睨むように覗き込んだ。

「信じるのは、お前の、行動だけだ」

言えば、浩瀚は驚いたように目を見張り、やがてまたあの綺麗な笑みを浮かべて陽子の腰に手を回した。

「それは行動を以って応えよ、とのお誘いですか?」

耳元で囁かれる美声に、腰が砕けそうになるが。

「さあ?」

なんとか持ちこたえて、にっと笑って見せると、浩瀚は珍しく小さく声を上げて笑った。
笑いはやがて陽子にも伝染し、二人は寄り添ってしばらく笑いあった。
胸の奥に凝っていた憂鬱が、ゆっくりと溶けて消えていくのが分かる。

そう。
貴方が居れば、『憂鬱な日』は存在しない。
それはいつだって、『素敵な一日』になるから。




                                                                         <終>


                                                                    2008.02.10

主婦業を含め、全ての働く女性の方へ。

  

 

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