注:
『やがてあふれいずるもの』後日譚。

薄氷うすらい



慶東国の西、麦州の州都の外れ。
小さな家から、数人の少女達が出てきた。

「先生、ごきげんよう」

合わせた袖を、寒さに赤くなった頬まで持ち上げしとやかに挨拶をした少女達に、見送りに出た中年の女は柔らかな笑みを向けた。

「ごきげんよう。気をつけてお帰りなさい」
「はーい!」
声をそろえて返事をして踵を返すと、途端に行儀良い少女達はどこにでもいる下街の子供に変わった。
所々雪の残る道を、じゃれあい、おしゃべりをしながら賑やかに駆け去っていく。
その背中を見送った女は、ふと上を仰いだ。

日没まで、まだ一刻程ある筈だった。
だが、短い冬の日の空は既に夕方の気配を漂わせていた。
一方で、女の嗅覚は庭院の片隅で綻び始めた梅の花の香りを捉えていた。
ゆっくりと、だが確実に、季節は冬から春へ移り変わろうとしていた。
清浄な香りを胸一杯吸い込んで家へ戻ろうとしたその時、視界の隅に人の姿を認めて彼女は足を止めた。

門の外に人が二人、立っていた。
こちらが気付いたと悟ったのだろう、彼らは門をくぐって近付いてきた。

まず目がいったのは、二人の内、後から入ってきた大男だった。
近付くにつれ判別がつくようになった男の顔には、確かな見覚えがあった。
途端、先を歩く小柄な相手の正体にも気付き、女は驚きのあまり立ち尽くした。
が、次の瞬間、己を取り戻し慌てて跪こうとした女を、相手は軽く手を振って留めた。
頭からすっぽりと被っていた布を、背後に払う。
現れた豊かな緋色の髪が、ぱさりと肩に落ちた。

「通りすがりの者なのだが」

澄んだ少女の声でそう呼び掛け、相手はにこりと笑んだ。

「喉が渇いてしまって。良ければ茶を一杯、ご馳走してもらえないだろうか」

***


不意の訪問者を客庁きゃくまに招じ入れ、女は厨房で茶の支度をした。

かつて彼女の為に茶を淹れるのは、女の日課のひとつだった。
顔色、声の調子、歩き方。
それらから相手の体調を見極め、茶を変え淹れ方を変えてきた。
女がその役目を離れたのは、もう三年も前の事だ。
だが、一度身に付いた習慣は完全に抜けてはいなかったようだ。
無意識の内に少女の体調をはかり、体を温める黒茶の葉を取り出すと、熱く沸かした鉄瓶を火から下ろした。

その瞬間、かつて最後に彼女に茶を供した時の事を思い出した。

脳裏は霞がかかったようにぼうっとし、なのに手だけが別人のように滑らかに動き、茶の仕度をする。
途中でいきなり激しい強迫観念に駆られ、いつからかそこにあった薬包を襟から取り出し、蓋碗に流し入れた――。

女は頭を振って過去の情景を追いやると、盆を持って立ち上がった。

客庁に入ると、少女は卓に座って鮮やかな翡翠の瞳で控えめに、だが、珍しそうに周囲を見回していた。
その視線が女の姿を捉え、綻ぶ。

「ありがとう」
「……王宮と異なり、このような粗茶しかございませんが……」
「いや。温かさが何よりのご馳走だから」
「……そちらの大僕の方もいかがですか?」

一瞬迷って、窓辺に立つ大男に声をかける。

「虎嘯、頂こう」
「有り難ぇ」

男は人懐っこい笑みを見せ、卓へ寄ってきた。
頃合いを見計らって蓋椀から飲杯へ注いだ熱い茶を、二人は美味しそうに飲み干した。
女はすぐに代わりを注ぐと、少女の強い勧めで、やむなく床几の一つにそっと腰掛けた。

「元気そうだね。安心した」
「……はい。住居も何もかも手配して頂き……本当に感謝のしようがございません」

かつてある官吏に意識を操られ、女は少女に薬を盛った。
官吏の証言と状況、そして何より少女自身の強い要望で、彼女が罪に問われる事はなかった。
が、自己を取り戻し事態を知った女は、金波宮を辞する決意をした。
いくら相手が特殊な呪の使い手だったとはいえ、簡単に操られ、少女に害をなした自分が許せなかったのだ。

――この御方は、今までの女王とは違う。

内殿の女御へと召し上げられ近侍するようになって直ぐに、女はそう悟った。
胎果だからという訳ではない。
まつりごとに取り組む真摯な姿勢、自分達周囲の者に対する誠実な態度。
折々に垣間見えるそうした少女の人柄に触れ、自然とそう思うようになったのだ。
それは女に、長らく忘れていた慶の未来への希望を抱かせた。

朝には、未だ女王を認めぬ官吏が多いと聞いていた。
だが、いずれ皆この女王の真価に気付くだろう。
国政に参加できる身分ではなかったが、そんな少女を内から支える杖の一本になれたらと思っていた。

なのに。
その自分が、彼女を傷付けてしまった。
それが何より耐え難かった。

残留を勧められはしたが、女の決意は揺らがなかった。
最後にその意向を認めた彼女が、係累の絶えた女にせめてと冢宰に命じて手配させたのが、この住処だった。
かつて松塾の関係者の隠れ家のひとつだったのだと、後で知った。

「ここで、州城に上がる子達に礼儀作法を教えていると聞いたんだけど」
「はい」
「柴望が…麦州候が褒めていたよ。とても良く躾けてくれると」

女は恐縮し、深く頭を下げた。

「もったいないお言葉でございます。ですがお恥ずかしい話、今の私に出来る事と言えば、その位しかなかったのでございます」

少女は飲杯を卓へ置いた。

「もし良ければ……」
「はい?」
「金波宮に戻ってこないか」

告げられた言葉に驚いて、女は思わず顔を上げた。

「あの事は……諸事情があって、細部まで公にはしていない。あなたの事も、知っているのは私と冢宰を含めて数人だけだ。私はまだまだ王宮に味方が欲しい。もしここで不遇を感じているのなら……戻って来ないか?」

真っ直ぐに問われ、一瞬言葉に詰まる。
困惑と、戸惑いと。
だが、それを上回って胸中に広がったのは……震えるような喜びだった。

――この方はこんなにも、私を信じて下さっていた……。

「もったいない……本当にもったいないお言葉でございます」

床几を滑り降り、涙に詰まる声で、女は深く頭を下げた。

「ですが、その寛大なご采配に言葉を返す無礼を、どうぞ平に、平にお許し下さいませ」
「……やはり駄目か」
「陽子」

気落ちした風の少女の肩を、隣に座った大男が、ぽんと叩いた。

「この姐さんは結婚するんだ。そうだろう?」

向けられた屈託無い笑顔に釣られ、女は顔を上げると微笑んだ。

「……はい。この春に。近々州城にはご報告に上がろうと思っておりました」
「……結婚?」

思いがけぬ言葉に、少女は目を見張った。

「この人が付けてる髪の赤い紐、これは結婚の決まった女人が付けるもんなんだ」
「……そうか。それはおめでとう。おめでとうと言って、いいんだろう?」

ようやく状況を理解した少女は表情を明るくして、頷いた女に向かって身を乗り出した。

「それで?どこで知り合った人なんだ?」
「近くで小物を扱う商人でございます。何度か店を訪う内に親しくなりまして……」
「そうか……。そういう事なら仕方ないな。――虎嘯、私は振られてしまったよ」

おどけて肩を竦めた少女に、女はもう一度深く頭を下げた。

「せっかくのお心遣いを無にしてしまい、誠に申し訳ございません」
「冗談だ。どうか顔を上げてくれ。あなたが幸せになるなら、それが一番だ」

にこやかに告げて、少女は再び茶のお代わりを所望した。

「ああ、俺はいい」

少女と共に勧められたお茶を断り、男は立ち上がって腕を回した。

「腹も温まったし、ちょっと素振りでもしてくらあ」

庭院にいるぜ、と言い残し客庁を出て行く男の背を見送って、少女はくすりと笑った。

「虎嘯は、じっとしているのが苦手なんだ」

程なく庭院から、短い掛け声と、剣が空を裂く音が聞こえ始めた。
その規則正しい音に耳を傾けながら、少女は両手で包み込んだ飲杯の中で小刻みに揺れる温かな液体を、しばらく眺めていた。

「……聞いてもいいだろうか?」

僅かな沈黙の後、飲杯に向けぽつりと零れた言葉に、女は茶器から顔を上げた。

「はい」
「どうしてその人と結婚しようと思ったんだ?」

尋ねられ、女は困って口ごもった。
だが自分の答えを待っている様子の相手に、女はしばらく考えた後、訥々と語り出した。

「お互い心が通じ合って求婚された時……とても嬉しゅうございました。ですが正直、ひどく迷いもしました。私は改めて自分に問わねばならなかったのです。ここで、一人の慶の民として生きていく覚悟が、真にあるのかと」

今まで人生の殆んどを、美しく華やかな王宮で過ごしてきた。
それらに捕らわれているつもりはなかったが、地に降り質素で穏かな日々を淡々と過ごす内に、時折、二度と触れられぬその世界を、懐かしく渇望する気持ちが波のように女を襲った。

「ですが、さんざん迷っている内に、ふと思ったのです。本来なら、私達は会うはずのない者同士だったと」
「……会うはずのない?」
「はい。ご承知の通り、私が三十過ぎで仙籍に入りましたのは、もう随分昔の事でございます。あの時仙にならなければ、私は彼に会う事なく、今頃とっくに土に還っておりました。また、三年前、私が王宮を辞していなければ、やはり彼と一面識を得ることも無く、お互い知らぬところで最期を迎えていたでしょう。……どれか一つでも歯車が違えば、私達は出会う事すらなかった。そう考えた時、これは天帝の思し召しかもしれないと思ったのです」
「……」
「私の今までは、あの人に会うために在ったのかもしれないと……そう思った途端、自然に心が決まりました」
「……そうか」

女の話に耳を傾けたまま、飲むことを忘れていた茶を一口含み、少女は柔らかな表情で言った。

「既に一度迷って答えを出していたから、さっき私の言葉に迷わなかったんだね」

――何せ貴女は、一度決意したら貫き通す人だから。

くすりと笑って付け加えられた一言に、女の顔は赤く染まった。

「しゅ……主上!」
「いや、ごめん。でもそういう貴方の気性、とても好きだよ」

明るく告げて少女は笑い声を納めると、薄日の差し込む窓へと目を向けた。

「本来なら、会うはずの無かった人、か……」

ぽつりと呟いた声は、辛うじて女の耳に届くほどの小さなものだった。
だがそこに宿ったえもいわれぬ響きに釣られるように、女は少女の横顔を見た。

――ああ……。

何かを抑えた、切なげな表情。
いつも凛とした光を放つ翠の瞳が、今は僅かに潤み、見たことの無い艶を湛えていた。

――このお方は……恋をしておられる。

しかし、その表情は一瞬で消えた。

「私の責任は重大だな」

飲杯を置いて立ち上がった少女の瞳には、いつもと変わらぬ意志の強い光が宿っていた。
女を見やり、にこりと笑う。

「貴女が慶の民として生きる道を選んだ事を、後悔させない国にしなければね」
「……あの、主上」
「ん?」

反射的に呼びかけた女は、だがそこで言葉に窮した。

咲きかけの、本人すら自覚していないかも知れぬ、小さな想い。
慶国の女王にとって、恋は禁忌――国中で定説のように囁かれる噂を、知らぬ訳では無かった。
だがそれでも、女が咄嗟に願ったのは、その小さな想いの成就だった。
彼女の側を離れた女には、最早それを推すことも否定することも、出来はしなかったが。

「……いえ」

居住まいを正し、女はかつての主に優雅に一揖した。

「慶の民の一人として、この地上からいつも主上のお姿を拝見しております。どうぞ慶の未来に光を。そして……常に御心の安からん事を」

精一杯の気持ちを添えた言葉に、緋色の少女は静かに頷いた。

「ありがとう。貴女もどうか幸せに」

凛と響いた声に、女はふと庭院に咲く早咲きの梅の花を思い浮かべた。

それが女の生涯で最後に耳にした、少女の言葉だった――。

***


春の吉日。
青く晴れ渡った日に慎ましやかな婚姻の儀を迎えた女の元に、一つの祝いの品が届いた。
精緻な描写で鮮やかに梅を描いた、見事な茶器の一式。
受け取った女は涙を流し、後に『赤楽梅園』と名付けられたその茶器は、大切に子孫に受け継がれていったという。




                                                                          <終>


                                                                     2009.01.20

 

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