『ザ・誘い受け』(笑)。
白旗
台輔への奏上を終えて冢宰府に戻ると、秋から冬へ移り変わろうとしている日の光は、既に地平へと近付いていた。
西日に照らされた執務室に入り、留守にした半刻の間に増えた書卓の上の書類を目算しながら席に着く。
途端に、彼の戻りを待ち構えていた官吏が、新たな書類を携え入室を請うた。
一息つく間もなく、受け取った書類に目を通し、報告を聞き、曖昧な箇所を問い質す。
更に二、三、加筆すべき点を挙げ、浩瀚は再度の提出を命じた―――その時。
カタン。
奥の房室で、微かな物音がした。
それは極々僅かなもので、 堂室の主たる浩瀚だからこそ、また、過去の例があるからこそ聞き取れた物音だった。
一礼し退出しようとしていた官吏を呼び止め、浩瀚はさり気なく告げた。
「それは、明日の午前中までに纏め直せばよい」
官吏は一瞬戸惑った表情を浮かべた。
指示された訂正内容は、さほど時間がかかるものではない。
明日まで引き延ばすとは、迅速を好む上司らしからぬ判断だと思ったのだ。
だが、浩瀚は表情を変えず、机上の書類を引き寄せながら、言った。
「これが済んだら、暫く休息する。人払いをしておいてくれ」
官吏は得心し、再度一礼すると、静かに堂室を退出していった。
***
官吏の足音が完全に遠のいたと同時に、浩瀚は筆を置いた。
手に取っていた書類すら未練なく卓へ置き、立ち上がる。
房室との境に立てられた重厚な樫の衝立を回り込むと、本を手に
「ああ、さっきの音がやはり聞こえていたか」
悪戯を見付かった子供のような表情で、少女が身を起こした。
榻に広がっていた豊かな緋色の髪がゆらりと持ち上がり、その身に沿う。
「忙しそうだったから、もう少し後で声をかけるつもりだったんだけど」
「お気遣いは無用でございます」
少女の傍らに進み、浩瀚は怜悧な視線を緩めて一揖した。
「お戻りなさいませ」
「うん、ただいま。留守中に変わりは?」
「ございません。万事つつがなく」
答えて浩瀚は、ああ、と軽く笑んで付け加えた。
「一つだけ問題がございました。他でもない、この冢宰府の警備の緩みについてでございます。大胆にも、明るい内から冢宰の執務室に忍び込んだ者がおりまして」
「警固を責めるなよ。忍び込んだ者の腕が良すぎたんだ」
肩を竦めた榻の少女を、膝を折ったまま柔らかな表情で仰ぎ、浩瀚は尋ねた。
「下は如何でございましたか?」
「うん。とても楽しかったよ」
『視察』と称して丸二日の休みをもぎ取り、久しぶりに下界を満喫してきた少女は、ぱっと無邪気な笑顔になった。
「堯天とその郊外を廻ったんだけど、たまたま通りがかった里で収穫祭をやっていてね。誘われて、皆に混じってきた」
機嫌良く喋りながら、陽子は書架に本を戻すために身軽く立ち上がった。
少年とも見える簡素な衣袍は、未だ下界に赴いた時のままだった。
「青空の下で、皆で酒を飲んでご飯を食べて、地元の民や朱旌の人達が踊ったり歌ったりするだけの素朴なものだったんだけど、今年は豊作だったろう?みんな陽気でとても楽しかった。……ああ、そうそう!虎嘯が腕自慢大会に引っ張り込まれてね、強敵もいたんだけど、結局優勝したんだ!」
「それは凄いですね」
「だろう?」
答えながら浩瀚は、我が事のように胸を張る少女の側へと歩み寄った。
踏台に上ろうとする彼女を制して本を受け取ると、代わりに書架へと手を伸ばした。
「ああ、ありがとう」
未だ外の空気を纏ったままの、無垢な眼差し。
だがその視線を放つ二粒の翡翠は……西日を映し込み、艶やかに濡れ光っていた。
ざわり、と。
浩瀚の中で何かが音を立てた。
――困った御方だ。
漏れそうになったため息を、辛うじて押さえる。
彼女自身に自覚が無いだけに、
「……浩瀚?」
自分を見つめて動かなくなった男に、陽子は首を傾げた。
差し込む橙の光に照らされた、端正な男の顔。
そこには常と変わらぬ怜悧な表情が広がっている。
だが。
その琥珀を思わせる切れ長の目の奥に、微かな熱が灯った事に気付き、陽子はくすりと笑った。
何が彼に火を付けたのかは分からない。
しかし、以前は全く分からなかった男の些細な変化に、最近気付くようになった。
そして――その求めているものにも。
悪戯っぽく笑って、陽子は男の首に手を絡めた。
「最近、浩瀚の考えが少し読めるようになったぞ」
「それはそれは」
少女の腰を、浩瀚はゆっくりと引き寄せた。
「では拙めが今、何を考えているか当てていただきましょうか」
「こうしてもらいたがっている」
男の首から頬へ手を滑らせ顔を近づけると、やや薄いその唇に、陽子はそっと口付けた。
浩瀚は笑んだまま少女の接吻を受けたが、柔らかな唇が離れる瞬間、緋色の髪に手を添えた。
「残念ながら…それでは半分しか当たっておりません」
「えっ?」
軽く目を見張った少女の頭を引き寄せ、今度は浩瀚の方から口付けた。 朱唇を割り、舌を滑り込ませ、少女のそれを絡め取る。
「……んっ!」
思わず漏れる、喘ぎ声。
だがそれすら飲み込むようにして、浩瀚は蕩けるように甘い舌を、執拗に追い求めた。
「更に申し上げるなら」
長い接吻から一時少女を解放すると、その細い腰から柔らかに引き締まった太ももへ、なぞる様に手を這わせた。
「ちょっ……っ!浩瀚!」
慌てる少女の横顔に、浩瀚は微笑を浮かべたまま囁いた。
「少なくとも、この位はしていただきませんと」
ぞくりとするような美声。
腰が砕けそうになりながら、陽子は男を睨み付けた。
「……この助平が」
不覚にも、声が震えた。
「お褒め頂き、恐悦でございます」
浩瀚はしれっと答え、更に、それで、と続ける。
「続きは臥牀へ参りますか?それとも、ここで?」
「……その二択しかないのはおかしくないか?」
必死で睨み付けてくる少女に、綺麗に笑む。
「挑発なさったのは、貴方ですよ」
そうして真っ赤に染まった小さな耳に、再び近付く。
「責任をお取り下さい」
囁くと同時に唇で耳朶を辿れば、女王は甘い悲鳴と共に、とうとう白旗を上げたのだった。
<終>
2008.12.17